紀元前580年

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紀元前580年(きげんぜん580ねん)は、西暦ローマ暦)による年。紀元前1世紀共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元174年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前580年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法[編集]

できごと[編集]

中国[編集]

  • 郤犨が使節としてに赴き、魯の成公と盟を交わした。
  • 魯の季孫行父が晋に赴いた。
  • 周公楚が伯与と政権を争って敗れ、洛陽を出て晋に亡命した。
  • 魯の叔孫僑如に赴いた。
  • 晋の郤至と鄇の田地を争ったため、簡王は劉の康公と単の襄公に命じて、晋の厲公に訴えさせた。
  • 華元に赴き、晋と楚のあいだの和議をまとめさせた。
  • 秦と晋が講和することとなり、令狐で会合しようとした。晋の厲公は先に令狐に到着したが、秦の桓公黄河を渡ろうとしなかった。桓公は王城にあって、史顆を派遣して厲公と河東で盟を交わさせ、厲公は郤犨を派遣して桓公と河西で盟を交わさせた。桓公は帰国するやいなや、晋との盟約を破った。

誕生[編集]

死去[編集]

脚注[編集]