コンテンツにスキップ

川田弘道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
糸井川清から転送)
かわた こうどう
川田 弘道
本名 絲井川 清(いといがわ きよし)
別名義 川田 弘三(かわた こうぞう)
生年月日 (1893-01-26) 1893年1月26日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区神田地区
身長 157.6cm
職業 俳優
ジャンル 旧劇劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画
活動期間 1916年 - 1931年
主な作品
地獄の唄
鳴門秘帖
悪党
テンプレートを表示

川田 弘道(かわた こうどう、1893年1月26日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]。本名絲井川 清(いといがわ きよし、新漢字表記糸井川 清[1][2][3][4]、活動期の最後の数年に川田 弘三(かわた こうぞう)と名乗る[1][5][6][7][8]

人物・来歴

[編集]

1893年(明治26年)1月26日東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区神田地区)に生まれる[1][2][3][4][5]

長じて長野に移り、1913年(大正2年)3月、旧制長野県師範学校(現在の信州大学教育学部)を卒業、旧制小学校の教諭となる[1][2]。その後、教職を辞して役者に転向し、1916年(大正5年)、東京市下谷区二長町(現在の東京都台東区台東1丁目)の市村座で旧劇(歌舞伎)の舞台に立つ[1][2]。1923年(大正12年)、松竹蒲田撮影所に入社[1][5]、同年5月11日に公開された『雪の夜話』(監督池田義臣)に出演して、満30歳で映画界にデビューする[2]。同年9月1日に起きた関東大震災で同撮影所の機能は京都に移転、川田は翌1924年(大正13年)、日活関西撮影所に移籍する[1][5]。現代劇、時代劇にこだわらぬ多くの映画でさまざまな脇役をこなした[1][5]

1927年(昭和2年)4月、牧野省三が主宰、御室撮影所をもつマキノ・プロダクションに移籍する[1][5][11]。同月に同社に入社した俳優には、山本礼三郎大谷鬼若がいる[11]。同社における、記録に残る最初の出演作は、同年5月13日に公開された『悪魔の星の下に』(監督二川文太郎)で、同作では「甘糟郷左衛門」役を演じた[6][7]。1928年(昭和3年)、「川田 弘三」と改名、記録に残るうち最初に改名後の名でクレジットされた作品は、同年7月20日に公開された『天明果報談』(監督金森萬象)であった[1][5]。同年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』では「川田弘道」、翌1929年(昭和4年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』では「川田弘三」の名でそれぞれ掲載されている[3][4]。『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』によれば、同年当時の身長は5尺2寸(約157.6センチメートル)、体重は21貫匁(約78.8キログラム)であった[4]

同年7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、川田は、嵐冠三郎荒木忍南光明根岸東一郎谷崎十郎阪東三右衛門市川米十郎東郷久義市川幡谷實川芦雁桂武男市川新蔵津村博澤田敬之助河津清三郎五味國男柳妻麗三郎小金井勝秋田伸一岡村義夫らとともに「俳優部男優」に名を連ねた[12]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)4月以降、製作が停止する[13]。同年3月6日に公開された『血ろくろ伝記 前篇』(監督金森萬象)に出演したのを最後に、川田は同社を退社する[1][6][7]。満38歳であった。同社退社以降の消息はまったく伝えられていない[1][5]没年不詳

フィルモグラフィ

[編集]
蹴合鶏』と『天明果報談』(1928年)の公開を予告する当時のチラシ。いずれにも出演したが、右側の『天明果報談』に「川田弘道」の名が確認できる。
無理矢理三千石』を上映した桜川キネマでの1929年公開時のチラシ。「川田弘三」の名が確認できる。左の役者は原作・主演の根岸東一郎

クレジットは、すべて「出演」である[6][7]。公開日の右側には役名[6][7]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[10][14]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

松竹蒲田撮影所

[編集]

製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹キネマ」、サイレント映画、名義は不明である[6][7]

日活京都撮影所第二部

[編集]

すべて製作は「日活京都撮影所第二部」、配給は「日活」、すべてサイレント映画、「川田弘道」名義である[6][7][9]

日活大将軍撮影所

[編集]

特筆以外すべて製作は「日活大将軍撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画、「川田弘道」名義である[6][7][9]

マキノプロダクション御室撮影所

[編集]

すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画、特筆以外はすべて「川田弘道」名義である[6][7]

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q キネマ旬報社[1979], p.173.
  2. ^ a b c d e f g アサヒ[1926], p.141.
  3. ^ a b c d 映画世界社[1928], p.43.
  4. ^ a b c d e 映画世界社[1929], p.53.
  5. ^ a b c d e f g h i j k 川田弘道jlogos.com, エア、2013年6月14日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m 川田弘三日本映画データベース、2013年6月14日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 川田弘道川田弘三、日本映画情報システム、文化庁、2013年6月14日閲覧。
  8. ^ a b c 川田弘三allcinema, 2013年6月14日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j k 川田弘道日活データベース、2013年6月14日閲覧。
  10. ^ a b c d e 川田弘道東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月14日閲覧。
  11. ^ a b 石割[2000], p.402.
  12. ^ 1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録立命館大学、2013年6月14日閲覧。
  13. ^ 御室撮影所、立命館大学、2013年6月14日閲覧。
  14. ^ a b 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年6月14日閲覧。
  15. ^ 愛児の行衛、日活データベース、2013年6月14日閲覧。
  16. ^ a b 忠臣藏 人の巻 地の巻、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月14日閲覧。
  17. ^ 長恨、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月14日閲覧。
  18. ^ 浪人街 第二話樂屋風呂、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月14日閲覧。
  19. ^ 血ろくろ傳奇、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月14日閲覧。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]