「トーマス・バッハ」の版間の差分
SpaceMeteor (会話 | 投稿記録) m 悪戯 133.106.68.223 (会話) による ID:84274739 の版を取り消し タグ: 取り消し |
俺の予想が合ってたら、どうすんねん。 タグ: 差し戻し済み モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
14行目: | 14行目: | ||
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1953|12|29}} |
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1953|12|29}} |
||
| 生地 = {{FRG}}、[[ヴュルツブルク]] |
| 生地 = {{FRG}}、[[ヴュルツブルク]] |
||
| 死亡日 = |
| 死亡日 = 2021年7月23日 |
||
| 没地 = |
| 没地 = 日本 |
||
| 政党 = |
| 政党 = |
||
| 配偶者 = |
| 配偶者 = |
||
38行目: | 38行目: | ||
{{MedalBottom}} |
{{MedalBottom}} |
||
'''トーマス・バッハ'''(Thomas Bach, [[1953年]][[12月29日]] - )は、[[ドイツ]]の[[弁護士]]。 |
'''トーマス・バッハ'''(Thomas Bach, [[1953年]][[12月29日]] - )は、[[ドイツ]]の[[弁護士]]。 |
||
第9代[[国際オリンピック委員会]] (IOC) 会長。[[筑波大学]]名誉博士<ref name="tokyo20161020">{{Cite news |title=IOCバッハ会長、筑波大で講演 東京が五輪の転換点に|newspaper=『[[東京新聞]]』|date=2016-10-20|url=http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016102001000926.html|accessdate=2016-10-21}}</ref>。[[1976年モントリオールオリンピックのフェンシング競技|1976年モントリオールオリンピックのフェンシング]][[西ドイツ]]代表選手、ドイツオリンピックスポーツ連盟(DOSB)([[:de:Deutscher Olympischer Sportbund|de]]) 会長を歴任。 |
第9代[[国際オリンピック委員会]] (IOC) 会長。[[筑波大学]]名誉博士<ref name="tokyo20161020">{{Cite news |title=IOCバッハ会長、筑波大で講演 東京が五輪の転換点に|newspaper=『[[東京新聞]]』|date=2016-10-20|url=http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016102001000926.html|accessdate=2016-10-21}}</ref>。[[1976年モントリオールオリンピックのフェンシング競技|1976年モントリオールオリンピックのフェンシング]][[西ドイツ]]代表選手、ドイツオリンピックスポーツ連盟(DOSB)([[:de:Deutscher Olympischer Sportbund|de]]) 会長を歴任。東京オリンピックの開会式で、射殺され死亡。 |
||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
2021年6月30日 (水) 12:36時点における版
トーマス・バッハ Thomas Bach | |
(2014年1月10日)
| |
任期 | 2013年9月10日 – |
---|---|
出生 | 1953年12月29日(70歳) 西ドイツ、ヴュルツブルク |
死去 | 2021年7月23日 日本 |
獲得メダル | ||
---|---|---|
男子フェンシング | ||
オリンピック | ||
西ドイツ | ||
金 | 1976 | フルーレ団体 |
世界選手権 | ||
西ドイツ | ||
銀 | 1973年 イェーテボリ |
フルーレ団体 |
西ドイツ | ||
金 | 1976年 モントリオール(五輪) |
フルーレ団体 |
西ドイツ | ||
金 | 1977年 ブエノスアイレス |
フルーレ団体 |
西ドイツ | ||
銅 | 1979年 メルボルン |
フルーレ団体 |
ドイツ選手権 | ||
金 | 1978年 | フルーレ個人 |
トーマス・バッハ(Thomas Bach, 1953年12月29日 - )は、ドイツの弁護士。 第9代国際オリンピック委員会 (IOC) 会長。筑波大学名誉博士[1]。1976年モントリオールオリンピックのフェンシング西ドイツ代表選手、ドイツオリンピックスポーツ連盟(DOSB)(de) 会長を歴任。東京オリンピックの開会式で、射殺され死亡。
経歴
教育・職業
西ドイツ(のちのドイツ)のバイエルン州ヴュルツブルク出身。ヴュルツブルクに近いバーデン=ヴュルテンベルク州のタウバービショーフスハイム(de)で育ち、両親の元、同市のゾンネンプラッツ(Sonnenplatz)で1977年まで暮らした。
この町のフェンシングクラブでスポーツを始めた。同クラブは、アマチュアトレーナーのエミール・ベックによって1950年代中頃に設立され、70年代に世界のリーダーへと成長。これまでにオリンピックで38個、世界選手権・欧州選手権で298個のメダルを獲得している。早くに父を亡くしたトーマス少年はこのクラブで心身を鍛えた[2]。
1972年、同地のマティアス・グリューネヴァルト・ギムナジウム(高校に相当)を卒業し[3]、1973年から1979年までヴュルツブルク大学法学部で法律・政治学を学んだ。1979年、第一次国家試験(司法試験)を通過して卒業した。主にドイツ連邦議会での司法研修期間を終えて1982年、第二次国家試験(司法試験)に合格し、1983年、博士論文「連邦憲法裁判所の裁判における予測の影響」(Der Einfluss von Prognosen auf die Rechtsprechung des Bundesverfassungsgerichts)で博士号(法学)を取得した。続いて、タウバービショーフスハイムに自身の弁護士事務所を開設した。
1985年、アディダス(スポーツ用品)執行役会会長のホルスト・ダスラーに誘われ、同社の国際関係部局の責任者。1988年から1990年まで、連邦経済大臣の中産層顧問団の調整役を務めた。1995年からフィリップ・ホルツマン株式会社(建設コンツェルン)の顧問[4]。1998年、タウバービショーフスハイムのミヒャエル・ヴァイニッヒ株式会社(工作機械)の監査役会会長に就任。2000年から2008年まで、シーメンス(電機)の顧問。2000年から2009年まで、シーメンス・スイスの取締役会構成員[5]。産業コンサルタントのヴィルヘルム・シェルスキーより政府人脈を買われてシーメンスの執行役会に推薦された[6]。2005年から2009年まで、MANフェロスタール有限会社(鉄鋼)の顧問[7]。2008年から2013年まで、メリウス有限会社の諮問委員会委員長となり、投資会社「クウェイティ・ジャーマン・ホールディング・カンパニー」の子会社としてドイツ国内の活動を担った。2009年から2013年まで、ニュルンベルク保険株式会社オーストリアの監査役会構成員、バルテック有限会社(産業保安技術)の諮問委員会委員[8][9]。
2006年5月、ゴルファ・アラブ・ドイツ商工会議所(Ghorfa Arab-German Chamber of Commerce and Industry)の会長に就任。IOC会長の就任後に辞任した。
母語のドイツ語の他、スペイン語・フランス語・英語に堪能[10]。
フェンシング選手の経歴
1970年代、タウバービショーフスハイムのフェンシングクラブに所属し、フルーレの選手として活動した。1971年、世界ジュニア選手権で銅メダルを獲得。1973年、フェンシング世界選手権にフルーレ団体で出場し、準優勝。1976年、モントリオールオリンピックのフェンシングフルーレ団体で西ドイツチームの一員として金メダルを獲得し、同時に世界選手権優勝となった[11]。1977年、世界選手権のフルーレ団体で優勝。1978年、ドイツ選手権のフルーレ個人で優勝。同年、フルーレ団体のヨーロッパ・チャンピオンズカップで優勝。1979年、メルボルンの世界選手権にフルーレ団体で出場し、銅メダルを獲得した。
スポーツ団体の職歴
早くからスポーツ関連の職を手がけており、1975年から1979年まで、西ドイツ・フェンシング連盟(DFB)のスポークスマンを務めた。1981年、IOCに新設されたアスリート委員会の委員。1982年、西ドイツ(後のドイツ)・オリンピック委員会の委員に就任。
1991年にIOC委員となり、ドイツ・オリンピック委員会の職を辞任した。1995年、スポーツ仲裁裁判所の控訴部の代表者に任命された。1996年にIOCの理事に就任。2002年冬季オリンピック開催地の決定(ソルトレークシティ)と2004年夏季オリンピック開催地の決定(アテネ)に際しては評価委員会の委員長を務めていた。2000年 - 2004年と2006年 - 2013年は副会長を務めた。すなわち、まず、2000年のシドニーオリンピックに際して開かれた第111次IOC総会で、IOC副会長に選出され(ドイツからは史上3人目)[12]、輪番制により2004年8月、この職を離れたが、続いて2006年、トリノ冬季オリンピックに際してのIOC総会で副会長に再選され、当時のジャック・ロゲ会長の有力な後任候補となった[13]。
2006年5月、ドイツスポーツ連盟(DSB)とドイツ・オリンピック委員会(DOK)の合併により新設されたドイツ・オリンピック・スポーツ連盟(DOSB)から名誉会長に任命されたが[12]、IOC会長就任後の2013年9月16日、辞任した[14]。
複数のIOC委員会で委員長を務めたほか、2006年、地元ドイツで開催されたサッカー・ワールドカップでは組織委員会の監査役会の構成員。2011年、女子サッカーのワールドカップでは組織委員会の管財委員会の委員を務めた。
2013年9月10日にアルゼンチンのブエノスアイレスで行われた第125次IOC総会で、ジャック・ロゲの後任として第9代IOC会長に選出された[15]。その際にクウェートの政治家でスポーツ団体役員のアフマド・アルファハド・アルサバ―(en)が有力支援者となっていたことから、会長選挙の直前になってIOC倫理委員会の調査が入った[16][17]。
2016年10月20日に、筑波大学で講演した折に筑波大学の名誉博士号が授与された[1]。
政治活動
ドイツ自由民主党(FDP)の党員。バーデン=ヴュルテンベルク州議会のFDP・民主人民党(DVP)会派の推薦により、第14回連邦会議(=2010年連邦大統領選出会議)の議員を務めた。
功績
自身が推進してきた『オリンピック・アジェンダ2020』は、世界中から寄せられた4万件以上のオリンピックに対する意見を40項目に集約したもの。2014年12月のIOC臨時総会で、この40の改革案すべてが満場一致で採択された[18]。このアジェンダに基づき追加種目制度、男女混合種目の増加、女子種目の増加、複数都市共催大会(2026年冬ミラノ/コルティナ・ダンペッツォオリンピック)開催決定と実績を上げている。アジェンダには脱コンパクト五輪である「主催都市ではない他の都市への分散開催を、開催国家の中で可能とする」アジェンダが含まれていた。このアジェンダが守れない場合、開催都市として立候補は行えない[19]。
顕彰
- 1977年:西ドイツ年間最優秀チームに選出(フルーレ団体・西ドイツ代表の一員として)
- 1981年:ドイツ連邦共和国功労十字小綬章
- 1984年:バーデン=ヴュルテンベルク州功労勲章
- 1993年:ドイツ連邦共和国功労十字勲章・一等
- 2004年:ドイツ連邦共和国功労大十字勲章
- 2008年:タウバービショーフスハイム市名誉市民
- 2013年:ドイツ・オリンピック・スポーツ連盟(DOSB)名誉会長
- 2013年:IOC「金の鍵」
- 2014年:ヨーロッパ・オリンピック委員会(EOC)功労勲章
- 2015年:モントリオール市名誉市民
- 2015年:ラインホルト・マイヤー・メダル
- 2016年10月20日:筑波大学名誉博士。
- 2018年:サインズ・アウォード(SignsAward)
- 2018年:ソウル市名誉市民[20]
その他
オリンピックの聖火ランナーを4度務めている。大会と場所はそれぞれ、2004年、アテネオリンピック、ベルリン。2008年、北京オリンピック、北京。2010年、バンクーバー冬季オリンピック、バンクーバー。2012年、ロンドンオリンピック、ロンドン。2010年、シンガポールで開かれた第1回夏季ユースオリンピック大会ではベルリンで聖火ランナーを務めた。
作曲家のヨハン・ゼバスティアン・バッハと同姓であるが、直接の血縁関係はない。「バッハ」はもともとドイツ語で小川を意味する言葉であり、ドイツでは比較的多い姓である。
動画
- 「トーマス・バッハ:新たなロード・オブ・ザ・リング?、"スポーツの内側"と"ストーリー"」(ケルン西ドイツ放送局<WDF>の補助金による動画)[21] [Hajo Seppelt & Robert Kempe: Thomas Bach – Der neue Herr der Ringe?, "Sport inside" und "Die story" (mit Unterstützung des investigativen Ressorts des WDR)]
脚注
- ^ a b “IOCバッハ会長、筑波大で講演 東京が五輪の転換点に”. 『東京新聞』. (2016年10月20日) 2016年10月21日閲覧。
- ^ トーマス・バッハ|ドイツ ニュースダイジェスト
- ^ MGG TBB: Fechterfolge der Schüler / ehemaligen Schüler am MGG. (Nicht mehr online verfügbar.) MGG TBB, archiviert vom Original am 18. Mai 2015; abgerufen am 9. April 2015.
- ^ Personelle Konsequenzen und Verbindungen bei Holzmann. In: Der Spiegel (Vorabversion aus Ausgabe 50/1999). 11. Dezember 1999, abgerufen am 20. Dezember 2014.
- ^ Hans Leyendecker, Klaus Ott: Siemens und Bach trennen sich. In: Süddeutsche Zeitung. 27. Juni 2008, abgerufen am 10. Oktober 2012.
- ^ Fürsorgliche Belagerung. In: Der Spiegel. Nr. 17, 2008 (online).
- ^ Thomas Bach hatte weiteren Berater-Vertrag. In: Spiegel Online. 7. April 2017, abgerufen am 9. Juni 2017.
- ^ Vita Thomas Bach. (Memento vom 10. Februar 2014 im Internet Archive) dosb.de
- ^ Neuer IOC-Präsident Bach legt bisherige Ämter nieder. In: Spiegel Online. 16. September 2013, abgerufen am 20. Dezember 2014.
- ^ Kurzporträts der sechs IOC-Präsidentschaftskandidaten, auf stern.de vom 9. September 2013 (Memento vom 11. September 2013 im Webarchiv archive.today)
- ^ オリンピック開催年の特例としてオリンピックの成績が世界選手権を兼ねるため。Fechten: Historie und Regeln
- ^ a b Thomas Kistner, Klaus Ott: Heikle Details. In: Süddeutsche Zeitung. 26. April 2008, abgerufen am 13. Oktober 2012.
- ^ Evi Simeoni: Finte und kerzengerader Ausfall. In: Frankfurter Allgemeine Zeitung. 19. Mai 2006, abgerufen am 13. Oktober 2012.
- ^ Thomas Bach als DOSB-Präsident zurückgetreten - Hans-Peter Krämer übernimmt Amtsgeschäfte bis zur Neuwahl (Memento vom 4. März 2016 im Internet Archive)
- ^ IOC新会長にトーマス・バッハ氏 ロシアの声(日本語版) 2013年9月12日閲覧
- ^ Grit Hartmann: Der Scheich der Ringe. In: Die Zeit. 11. September 2013, abgerufen am 20. Dezember 2014.
- ^ Johannes Aumüller, Thomas Kistner: Favorit in der Bredouille. In: Süddeutsche Zeitung. 2. September 2013, abgerufen am 20. Dezember 2014.
- ^ “2020年東京オリンピックでの追加競技は?”. tvstation.jp. 2019年11月1日閲覧。
- ^ “最悪の場合「東京開催」剥奪も!? 小池都知事、五輪マラソン問題でIOCと徹底抗戦も…識者「都がいつまでも不満述べるなら…」”. www.zakzak.co.jp. 2019年11月2日閲覧。
- ^ [1][リンク切れ]
- ^ Video: Thomas Bach – Der neue Herr der Ringe? auf YouTube
外部リンク
- トーマス・バッハ - Olympic.org (英語)
- Artikel Dossier sowie Video Dossier des Spiegel zu Thomas Bach
- トーマス・バッハ - Olympedia(英語)
- トーマス・バッハの著作およびトーマス・バッハを主題とする文献 - ドイツ国立図書館の蔵書目録(ドイツ語)より。
その他の役職 | ||
---|---|---|
先代 ジャック・ロゲ |
国際オリンピック委員会会長 第9代:2013年 - |
次代 現職 |