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「法量 (十和田市)」の版間の差分

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'''法量'''(ほうりょう)は[[青森県]]の南東部を流れる[[奥入瀬川]]の上流にある地域である。江戸時代から明治時代にかけては'''法量村'''となり、明治中期に近隣の村と合併して「法奥沢村」、さらに昭和初期に「十和田村」となった<ref name="角川地名_法量"/>。十和田村は[[十和田湖町]]を経て[[十和田市]]に合併し、いまの法量地区は「十和田市(大字)法量」となる。
'''法量'''(ほうりょう)は[[青森県]][[十和田市]]の[[大字]]。[[郵便番号]]は034-0303。

==地理==
==地理==
[[ファイル:法量周辺図300.jpg|right|300px|thumb|法量付近概略図]]
法量は十和田市の[[奥入瀬川]]沿い北部にある大字。北で[[深持]]、東で[[三本木 (十和田市)|三本木]]、南で[[奥瀬]]、南西で[[青森市]][[大字]][[荒川 (青森市)|荒川]]、西で青森市大字[[駒込 (青森市)|駒込]]と接する。法量には、[[法量発電所]]や[[法量神社]]のほか、国の[[天然記念物]]に指定されている「[[法量のイチョウ]]」、十和田市開拓時に建設した水路である[[稲生川]]の取水口がある。法量の[[郷土芸能]]としては[[法量神楽]]がある。
[[青森県]]の東南部には[[二級河川]]の[[奥入瀬川]]が流れている。奥入瀬川の本流は[[十和田湖]]に発し、その代表的な支流のひとつ[[蔦川]]は[[八甲田山]]に発している。同じ八甲田山の南東斜面からは中里川が発し、さらに八甲田山の外輪から熊ノ沢川が発する。これらはいずれも東南方向へ流れて奥入瀬川に合流する。
また、この法量周辺では縄文時代の土器などが見つかっており、大昔から集落があった土地だったといえる。


法量地区は、奥入瀬川の左岸にあり、奥入瀬川、蔦川、熊ノ沢川に囲まれたエリアに相当する。地区の9割を占める山間部では、八甲田山を形成するピークのいくつかが法量地区に属しており、小岳(1478m)、硫黄岳(1360.4m)、高田大岳(1552m)の山頂のほか、主峰の大岳(1584.5m)の山頂直下までが法量地区となる。これらの裾野には[[谷地温泉]]がある。黒森(1022.7m)、土筆森(579.1)などの山間の高原部には放牧場が拓かれ、肉牛を中心とした畜産に利用されている<ref name="角川地名_十和田湖町"/>。
===河川===

* [[奥入瀬川]]
奥入瀬川と蔦川の合流部より下流側では、奥入瀬川の両岸に谷底平野があり、その左岸が法量地区、右岸が奥瀬地区になる。この合流地点には[[焼山温泉 (青森県)|焼山温泉]]があり、その左岸の斜面には十和田湖温泉スキー場がある。
* [[中里川]]

* [[蔦川]]
法量地区の集落は主にこの谷底平野にあるほか、中里川、熊ノ沢川の中流にも形成されている。奥入瀬川に中里川が合流するあたりに法量地区の中心地があり、[[法量神社]]などがある。
* [[熊ノ沢川]]

===主な河川===
* [[奥入瀬川]] - 蔦川 - 中里川 - 熊ノ沢川
* [[稲生川]]
* [[稲生川]]


===山岳===
===主な山岳地形===
*[[八甲田山]] - 小岳(1478m)、高田大岳(1552m)、硫黄岳(1360.4m)
* [[硫黄岳 (青森県)|硫黄岳]]
*黒森(1022.7m)
* 小岳
*土筆森(579.0m)
* [[高田大岳]]
*高峠(572.8m)


==歴史==
==地区の変遷==
地域としては[[陸奥国]][[糠部郡]]に属していたが、中世以前の様子は史料に欠いており、[[地頭]]が誰であったかなど、よくわかっていない<ref name="角川地名_十和田湖町"/>。
[[2005年]][[1月1日]]に[[上北郡]][[十和田湖町]]法量から十和田市法量となった。
{{節stub}}


伝承では、[[元久]]年間(1204-1205)に[[畠山重忠の乱]]で敗走した鎌倉武士の[[畠山氏]]の一族が東北地方へ逃れ、その子孫が太田氏を名乗り奥入瀬川一帯を拓いたとされている<ref name="角川地名_十和田湖町"/>。戦国期には[[三戸城]]と[[七戸城]]を結ぶ街道上にあるとともに、奥入瀬川に沿って津軽方面へ抜ける山道の分岐点でもあり、要衝の地となった。戦国末期には[[南部信直]]が配下の武将に3000騎を委ね、この経路から津軽を攻めたが敗退している<ref name="角川地名_十和田湖町"/>。
==施設==

* [[法量発電所]]
===近世===
江戸時代は[[南部藩]](盛岡藩)の支配下である。同藩では領内を「[[通 (南部藩)|通]]」という統治区域に分けており、このうち「七戸通」に属していた<ref name="角川地名_法量"/>。

一帯は[[奥瀬館]]の奥瀬氏 {{refnest|group="注"|奥瀬氏は[[小笠原氏]]の傍流で、室町中期から当地に入って奥瀬氏を名乗っていたとされる<ref name="角川地名_十和田湖町"/>。}}が治めており、江戸時代初期の[[元和 (日本)|元和]]年間(1615-1624)の検地で奥瀬氏の領地であったことが確認できる<ref name="角川地名_法量"/>。ただしこの時期には「五戸通」の奥瀬村の一部として扱われており、[[延宝]]年間(1673-1681)に五戸通から七戸通が分割され、奥瀬村から分村を重ねて「法量村」となっていった<ref name="角川地名_法量"/>。

[[寛政]]年間(1789-1801)の史料によると、その頃は「深持村」の支村(深持法量)として扱われていた<ref name="平凡地名_法量村"/>。その他の支村として法量のほか20の集落名が挙げられている。これらは概ね後の「法量村」の村域に相当する<ref name="平凡地名_法量村"/>。

[[享保]]3(1803)年の史料では'''法量村'''が独立村として扱われ、20の集落のほとんどは法量村の支村の扱いに変わっている<ref name="平凡地名_法量村"/>。「七戸通」と区別して「法量通」と称することもあった<ref name="角川地名_法量"/>。奥瀬氏は奥瀬村を治め、法量村は南部藩の直轄地([[蔵入地]])となった<ref name="角川地名_十和田湖町"/>。

分村を重ねて独立した村に発展していく過程で、戸数や人口、石高が伸びていったが、一方で奥入瀬川を隔てて五戸通と七戸通に分かれてしまったことで、草木を刈るための[[入会地]]や[[蔦温泉]]の権益をめぐって争いが起きるようになった<ref name="角川地名_法量"/><ref name="角川地名_十和田湖町"/>。

===近代===
[[ファイル:Aomori KamiKita-gun 1889.png|200px|thumb|上北郡全図。左下の5番が法奥沢村。紫色の範囲がのちの[[十和田市]]。|right]]
明治になっても'''法量村'''として存続したものの、幕末から明治初期にかけては、[[戊辰戦争]]の影響もあって管轄はめまぐるしく変わった<ref name="角川地名_法量"/><ref name="角川地名_十和田湖町"/>。[[明治元年]](1868ないし1869年)に[[弘前藩]](津軽藩)の下に置かれたのを皮切りに、[[明治4年]](1871ないし1872年)までのあいだに、[[黒羽藩]]、[[九戸県]]、[[八戸県]]、[[三戸県]]、[[斗南藩]]、[[斗南県]]、[[弘前県]]、[[青森県]]と所轄が変わっている<ref name="角川地名_法量"/><ref name="角川地名_十和田湖町"/>。1878(明治11)年に[[郡制]]が敷かれると青森県[[上北郡]]に編入された<ref name="角川地名_法量"/><ref name="角川地名_十和田湖町"/>。

奥入瀬川をはさんで法量村の対岸(右岸)には、上流側に奥瀬村、下流側に沢田村があった。はじめは3村で上北郡の第14組を形成しており、沢田村に戸長役場を置いていた<ref name="角川地名_法量"/>。1889(明治22)年にこの3村が合併して'''[[法奥沢村]]'''となり、地区は「法奥沢村大字法量」となった<ref name="角川地名_法量"/>。

===現代===
その後1931(昭和6)年に法奥沢村は単独で'''十和田村'''に改称、1955(昭和30)年には単独で町制を施行して'''十和田町'''となった。

一方、奥入瀬川の下流域にあたる地域([[三本木原]])は後述する'''[[稲生川]]'''の開削によって、幕末から近代にかけて急速に発展し、不毛の台地から都市へと成長した。三本木原に生まれた都市は、1910(明治43)年には[[三本木町 (青森県)|三本木町]]、1955(昭和30)年には[[三本木市]]となった。

三本木市は翌1956(昭和31)年に'''[[十和田市]]'''に改称したため、そのあと約20年間、「十和田市」(旧三本木)の隣に「十和田町」(旧法奥沢)があるという状況が続いた<ref group="注">さらに、十和田湖に面した秋田県[[鹿角郡]]でも1955年に「[[十和田町]]」(現[[鹿角市]])が誕生、「青森県十和田市」「青森県十和田町」「秋田県十和田町」が隣り合う事態となった。</ref>。十和田町は1975(昭和50)年に'''[[十和田湖町]]'''に改称し、同名の市町村が隣接する状態が解消した。

2005(平成17)年に、十和田湖町は十和田市に合併した。これにより、いまの法量地区は「十和田市(大字)法量」となった。

===人口の推移===
*1878(明治11)年 - 1046人(155戸)<ref name="角川地名_法量"/>
*1891(明治24)年 - 1346人(259戸)<ref name="角川地名_法量"/>
*1909(明治42)年 - 1542人(200戸)<ref name="角川地名_法量"/>
*1955(昭和30)年 - 2628人(344世帯)<ref name="角川地名_法量"/>
*1978(昭和53)年 - 2182人(488世帯)(3月31日現在)<ref name="十和田市_人口S53"/><ref group="注">昭和52年度以前は「大字法量」ではなく、大字の区域が異なるため割愛。</ref>
*1985(昭和60)年 - 1904人(446世帯)(3月31日現在)<ref name="十和田市_人口S60"/>
*1995(平成{{0}}7)年 - 1673人(424世帯)(3月31日現在)<ref name="十和田市_人口H07"/>
*2005(平成17)年 - 1380人(399世帯)(3月31日現在)<ref name="十和田市_人口H17"/>
*2015(平成27)年 - 1064人(372世帯)(3月31日現在)<ref name="十和田市_人口H27"/>

==地誌==
奥入瀬川の中流にあたる法量地区では、奥入瀬川の河岸段丘で縄文土器を伴ったいくつかの縄文遺跡が発見されている。上流側から、淵沢川付近の善蒼寺遺跡、方貝沢遺跡、熊ノ沢川に面する長沢遺跡である。方貝沢では平安時代のものとみられる[[土師器]]の断片もみつかっているものの、いずれも詳しい調査は行われておらず不詳である。また、中世以降の砦跡も多くあり、淵沢、方貝沢、長沢のほか、中里、山屋、川代、鳥谷附などがその代表例である。これらはもともと[[蝦夷]]の館だったと言われている。これらのうち長沢の武家館跡は河岸段丘上に4曲輪を伴うもの規模の大きなものであり、そこがかつて要害の地であったことを示唆している。ただし、誰がその館に入っていたかなどはわかっていない<ref name="角川地名_法量"/><ref name="角川地名_十和田湖町"/>。

===法量信仰と法量神社===
[[南部地方]]では[[水神]]・[[龍神]]のことを[[淤加美神|龗神]](おがみ)と呼んで信仰するのが盛んだった。この信仰をめぐって「法霊」あるいは「法量」という名の[[修験者]]に関する伝承がある。この修験者は南部地方を中心に東北各地を回って歩いたとされていて、日照りの年に雨乞いを行い、自らの命と引き換えに龍と化して雨を降らせたとされている<ref name="青森百科_法量信仰"/>。

この修験者を祀る代表的な神社とみなされているのが[[八戸市]]にある[[おがみ神社|法霊山龗神社]](おがみ神社)と、法量にある[[法量神社]]である<ref name="青森百科_法量信仰"/>。「法霊」ないし「法量」は、ほかにも「法領」「豊量」などの表記があり、東北地方にこれに由来するとみられる地名、神社が散見される<ref name="青森百科_法量信仰"/>。

また、水神と竜に関する伝承としては、この地方では「[[三湖伝説|南祖坊]]」に関する伝承も広くみられる。南祖坊(南蔵坊とも)は「[[十和田湖]]の主」とされていて、竜神と同一視される<ref name="青森百科_竜神信仰"/><ref name="青森百科_十和田湖信仰"/>。南祖坊は、秋田の[[八郎潟]]の主と戦って十和田湖の主の座を勝ち取り、人びとの信仰を集めるようになった。その伝承には様々なバリエーションがあり、中には南祖坊が八戸出身であるとするものもある。<ref name="青森百科_南祖坊"/><ref name="青森百科_十和田湖信仰"/>。

樹齢1100年と言われ、国の天然記念物になっている[[法量のイチョウ]]は、南祖坊が自ら植えたものとも伝えられている。それによれば、この大イチョウが立っている場所には、かつて「善宗寺」(または「善正寺」)があり、その神木だったとされている<ref name="県庁_文化財"/><ref name="アプティネット"/><ref name="角川地名_法量"/><ref name="角川地名_十和田湖町"/>。

学術的には、[[十和田湖]]を形成した十和田湖火山(十和田湖カルデラ)の火山活動は平安時代まで続いていたことがわかっており、これらの信仰と火山・十和田湖の形成に関連があるものと推定されている<ref name="角川地名_十和田湖町"/>。

*[[おがみ神社]]、[[三湖伝説]]、[[貴船神社 (曖昧さ回避)]]も参照。
===稲生川の開削と三本木原の開拓===
奥入瀬川の下流域には、[[八甲田山|八甲田火山]]と[[十和田湖|十和田湖火山]]がつくりだした広大な火山灰台地になっており、「[[三本木原]]」と呼ばれていた。三本木原は水に乏しいうえに[[やませ]]が吹き付ける過酷な環境で、近世までは稲作に適さない不毛の地とされてきた<ref name="コトバンク_三本木原"/>。

幕末の[[南部藩]]の[[家老]]、[[新渡戸傳]]([[新渡戸稲造]]の祖父)は、法量から水路を拓き、三本木原の開拓に乗り出した。当初の目論見では、三本木原に近い熊ノ沢川から水路を築く予定だったが、水量が乏しく効果が期待できないため、奥入瀬川本流の中流部から引水することになった。この水路は、法量で奥入瀬川から2本の水路で導水し、標高200mの山の尾根2本をトンネルで貫き、中里川と熊ノ沢川を地下水路で潜り抜けるもので、大変な難工事となった<ref name="コトバンク_三本木原"/>。

1855(安政2)年に工事が始まり、1859(安政6)年に水路は三本木原に到達し、[[稲生川]]と命名された<ref group="注">これを記念して、新渡戸家に生まれた子に「稲造」と名付けられたのが新渡戸稲造である。</ref>。これにより三本木原の開拓が始まり、一帯には広大な放牧地が生まれて日本を代表する馬産地となり、いわゆる[[南部駒]]の産地として知られるようになっていった。[[軍馬]]が重要視されていた[[太平洋戦争]]期までは、陸軍の[[軍馬補充部#三本木支部|軍馬補充部三本木支部]]が置かれており、これは全国の軍馬補充部のなかで最大のものだった<ref group="注">三本木の軍馬補充部は、もっぱらウマの育成を行っていた。「生産」は隣接する[[七戸町]]の[[奥羽種馬牧場]](現在の独立行政法人[[家畜改良センター|家畜改良センター奥羽牧場]])が担っていた。</ref>。一方、冷涼な気候のため稲作は思うような成果を挙げられず、もっぱら[[アワ]]・[[ヒエ]]などの雑穀を生産するに留まった<ref name="コトバンク_三本木原"/>。

三本木原には京都を模した整然とした区画がつくられ、これがいまの[[十和田市]]中心部の区割りとなっていった。この区割りは後に[[札幌市|札幌]]を建都した[[島義勇]]が参考にしたと伝えられている<ref name="日経_20140726">[[日本経済新聞]] 2014年7月26日付(夕刊)「青森・十和田 新渡戸記念館」</ref>。稲生川の開削はその後も続けられ、着工から111年目の1966(昭和41)年に海に到達した。稲生川は2014年に国際かんがい排水委員会(International Commission on Irrigation and Drainage)により、[[かんがい施設遺産]]に登録された。

===奥入瀬川の利用===
かつて法量村などの奥入瀬川の村は米の収穫は乏しく、ワラビなどで食料を補っていた。江戸時代後期からは、奥入瀬川から水路を開削し、流域への灌漑に利用するようになった。これは左右両岸で行われ、左岸にあたる法量村では[[天保]]年間(1830-1844)に堰が築かれたとの記録がある。その後、前述の稲生川が法量地区から開削されて三本木原の開発が始まった。近代以降は水路開発と同時に耕地整理も行われ、30年余りをかけて一帯は畑作地帯から水田地帯へと変わっていった<ref name="角川地名_十和田湖町"/>。

明治中期には、奥入瀬川に発電所を建設する計画が持ち上がったが、景勝地である十和田湖や奥入瀬渓流の破壊につながるとして反対され実現しなかった。昭和に入ると電力需要が増加し、数ヶ所の発電所が建設された。発電所が齎す[[固定資産税]]によって村の財政は大いに潤い、老人医療費の無料化などの政策が行われた。また、これを原資に1960年代から70年代にかけて、奥入瀬川と蔦川合流地点の焼山地区周辺に温泉の開発が行われた。一帯には十和田湖温泉スキー場などもつくられ、[[焼山温泉 (青森県)|焼山温泉]]、十二里温泉、川の上流にある[[蔦温泉]]、[[猿倉温泉]]なども含めて[[十和田湖温泉郷]]と称している。奥入瀬川の両岸に宿泊施設などがあるほか、右岸(地名の上では奥瀬地区となる)には民俗資料館などがある<ref name="観光_スキー"/><ref name="観光_焼山"/><ref name="角川地名_十和田湖町"/>。

*[[十和田湖温泉郷]]
:*[[焼山温泉 (青森県)|焼山温泉]]
:*[[谷地温泉]]
:*十二里温泉
*十和田湖温泉スキー場<ref name="観光_スキー"/>

===名所旧跡===
* [[法量神社]]
* [[法量神社]]
* [[法量のイチョウ]] - 樹齢1000年以上と目される「日本一気難しいイチョウ」。国の[[天然記念物]]。
* [[法量集会所]]

* [[十和田湖温泉スキー場]]
==インフラ情報==
* [[十和田湖温泉郷]]
===公共機関===
* [[十和田市立奥入瀬小学校]]
かつての十和田湖町の官庁施設は奥入瀬川の右岸にあたる奥瀬地区にあり、その周辺に十和田市役所支所、消防署、[[奥瀬郵便局|郵便局]]、公民館、図書館、小学校(法奥小学校)、中学校(第一中学校)などが集中している。隣接する沢田地区には[[青森県立十和田西高等学校|県立高校]]がある。
* [[焼山浄化センター]]

* 山口集会所
法量地区には、1874(明治7)年に法量小学校が設置された。これは後に奥瀬の小学校と合併し、1902(明治35)年に法奥小学校となった。一方、1890(明治23)年には[[尋常高等小学校]]の分教場(淵沢分教場)が片貝沢に開設され<ref name="角川地名_十和田湖町"/>、[[太平洋戦争|戦後]]は「奥入瀬小学校」・「奥入瀬中学校」となってピーク時には児童数150名が在籍していた。しかし、少子化と校舎の老朽化により、中学校は1978(昭和53)年、小学校は2010(平成22)年度で閉校となった<ref name="十和田市_奥入瀬小学校"/>。2013年4月現在、法量地区の全域は法奥小学校と第一中学校の学区となっている<ref name="十和田市_小学校"/><ref name="十和田市_中学校"/>。

===交通網===
奥入瀬川に沿って[[国道102号]]が通じており、十和田市中心部と十和田湖畔をつないでいる。蔦川の合流地点で[[国道103号]]が分岐し、蔦川に沿って蔦温泉、谷地温泉を経由して八甲田山へと通じる。山間部では[[七戸町|七戸]]と[[黒石市|黒石]]方面を結ぶ[[国道394号]]と一部重複区間となっている。一方、103号は八甲田山の裾野を越えて最終的には[[青森市]]中心部まで続いている。

青森県道では、熊ノ沢川に沿って八甲田山中へ向かう[[青森県道40号青森田代十和田線|県道40号]]、奥入瀬川右岸の旧十和田湖町中心部から熊ノ沢川、深持を経て七戸へ至る[[青森県道118号七戸十和田湖線|県道118号]]が通じている。このうち一部区間は40号と118号の重複区間である。

このほか、自転車専用道としての[[青森県道256号青森十和田湖自転車道線|県道256号]](田代平高原自転車道)が山間部に一部敷かれているが、全通していない。

===その他===
[[郵便番号]]は034-0303。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|colwidth=30em
|refs=
<!--十和田市-->

*<ref name="十和田市_人口S53">[[十和田市]] 定住自立圏推進係 「十和田市の統計資料 住民基本台帳に基づく十和田市の人口及び人口動態表」 {{PDFlink|[http://www.city.towada.lg.jp/docs/2012012400479/files/jinkou_s530331.pdf 昭和53年3月31日現在]}} 2016年1月10日閲覧。</ref>
*<ref name="十和田市_人口S60">[[十和田市]] 定住自立圏推進係 「十和田市の統計資料 住民基本台帳に基づく十和田市の人口及び人口動態表」 {{PDFlink|[http://www.city.towada.lg.jp/docs/2012012400479/files/jinkou_s600331.pdf 昭和60年3月31日現在]}} 2016年1月10日閲覧。</ref>
*<ref name="十和田市_人口H07">[[十和田市]] 定住自立圏推進係 「十和田市の統計資料 住民基本台帳に基づく十和田市の人口及び人口動態表」 {{PDFlink|[http://www.city.towada.lg.jp/docs/2012012400479/files/jinkou_h070331.pdf 平成7年3月31日現在]}} 2016年1月10日閲覧。</ref>
*<ref name="十和田市_人口H17">[[十和田市]] 定住自立圏推進係 「十和田市の統計資料 住民基本台帳に基づく十和田市の人口及び人口動態表」 {{PDFlink|[http://www.city.towada.lg.jp/docs/2012012400479/files/jinkou_h170331.pdf 平成17年3月31日現在]}} 2016年1月10日閲覧。</ref>
*<ref name="十和田市_人口H27">[[十和田市]] 定住自立圏推進係 「十和田市の統計資料 住民基本台帳に基づく十和田市の人口及び人口動態表」 {{PDFlink|[http://www.city.towada.lg.jp/docs/2012012400479/files/jinkou_h270331.pdf 平成27年3月31日現在]}} 2016年1月10日閲覧。</ref>

*<ref name="十和田市_小学校">[[十和田市]] 学務係 「小学校学区表」 {{PDFlink|[http://www.city.towada.lg.jp/docs/2011121200680/files/shougakkou.pdf 平成25年4月1日現在]}} 2016年1月11日閲覧。</ref>

*<ref name="十和田市_中学校">[[十和田市]] 学務係 「中学校学区表」 {{PDFlink|[http://www.city.towada.lg.jp/docs/2011121200680/files/chuugakkou.pdf 平成25年4月1日現在]}} 2016年1月11日閲覧。</ref>

*<ref name="十和田市_奥入瀬小学校">[[十和田市]] 広報とわだ 2011年4月号{{PDFlink|[http://www.city.towada.lg.jp/docs/2012062600027/files/12.pdf 奥入瀬小学校閉校 106年の思い出を胸に]}} 2016年1月11日閲覧。</ref>

<!--青森百科-->
*<ref name="青森百科_法量信仰">『青森県百科事典』p834-835「法量信仰」</ref>
*<ref name="青森百科_竜神信仰">『青森県百科事典』p946「竜神信仰」</ref>
*<ref name="青森百科_十和田湖信仰">『青森県百科事典』p651「十和田湖信仰」</ref>
*<ref name="青森百科_南祖坊">『青森県百科事典』p673-674「南祖坊」</ref>

<!--平凡地名-->
*<ref name="平凡地名_法量村">『[[日本歴史地名大系]]2 青森県の地名』p187-188「法量村」</ref>

<!--角川地名-->
*<ref name="角川地名_法量">『[[角川日本地名大辞典]]2 青森県』p848-849「法量」</ref>
*<ref name="角川地名_十和田湖町">『[[角川日本地名大辞典]]2 青森県』p1136-1140「十和田湖町」</ref>

<!---->
*<ref name="コトバンク_三本木原">[[日立ソリューションズ|日立ソリューションズ・クリエイト]]・世界大百科事典第2版 コトバンク[https://kotobank.jp/word/三本木原-71489 「三本木原」]による。2015年1月11日閲覧。</ref>

*<ref name="観光_スキー">社団法人十和田市観光協会 [http://www.towada-kankou.jp/sightseeing/ski.htm 十和田湖温泉スキー場]2015年1月28日閲覧。</ref>
*<ref name="観光_焼山">社団法人十和田市観光協会 [http://www.towada-kankou.jp/sightseeing/yakeyama.htm 焼山周辺のご案内]2015年1月28日閲覧。</ref>
*<ref name="県庁_文化財">[[青森県庁]] 文化財保護課 [http://www.pref.aomori.lg.jp/bunka/education/kinen_tennen_1_03.html あおもりの文化財 法量のイチョウ] 2015年12月17日閲覧。</ref>
*<ref name="アプティネット">青森県観光国際戦略局誘客交流課・公益社団法人 青森県観光連盟 アプティネット(青森県観光情報サイト)[http://www.aptinet.jp/Detail_display_00002568.html 法量のイチョウ] 2015年12月17日閲覧。</ref>

}}

== 参考文献 ==
<!-- 本項目を編集する際に出典として用いた文献 -->
*『[[都道府県別百科事典|青森県百科事典]]』,[[東奥日報|東奥日報社]],1981,ISBN 4-88561-000-1
*『[[角川日本地名大辞典]]2 青森県』,角川日本地名大辞典編纂委員会・[[竹内理三]]・編,[[角川書店]],1985,ISBN 4-04-001020-5
*『[[日本歴史地名大系]]2 青森県の地名』,[[虎尾俊哉]]・監,[[平凡社]],1982,ISBN 4582490026


==交通==
===道路===
* [[国道102号]]
* [[国道103号]]
* [[国道394号]]
* [[青森県道40号青森田代十和田線]]
* [[青森県道118号七戸十和田湖線]]
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==関連項目==
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2016年2月3日 (水) 04:10時点における版

日本 > 青森県 > 十和田市 > 法量 (十和田市)

法量(ほうりょう)は青森県の南東部を流れる奥入瀬川の上流にある地域である。江戸時代から明治時代にかけては法量村となり、明治中期に近隣の村と合併して「法奥沢村」、さらに昭和初期に「十和田村」となった[1]。十和田村は十和田湖町を経て十和田市に合併し、いまの法量地区は「十和田市(大字)法量」となる。

地理

法量付近概略図

青森県の東南部には二級河川奥入瀬川が流れている。奥入瀬川の本流は十和田湖に発し、その代表的な支流のひとつ蔦川八甲田山に発している。同じ八甲田山の南東斜面からは中里川が発し、さらに八甲田山の外輪から熊ノ沢川が発する。これらはいずれも東南方向へ流れて奥入瀬川に合流する。

法量地区は、奥入瀬川の左岸にあり、奥入瀬川、蔦川、熊ノ沢川に囲まれたエリアに相当する。地区の9割を占める山間部では、八甲田山を形成するピークのいくつかが法量地区に属しており、小岳(1478m)、硫黄岳(1360.4m)、高田大岳(1552m)の山頂のほか、主峰の大岳(1584.5m)の山頂直下までが法量地区となる。これらの裾野には谷地温泉がある。黒森(1022.7m)、土筆森(579.1)などの山間の高原部には放牧場が拓かれ、肉牛を中心とした畜産に利用されている[2]

奥入瀬川と蔦川の合流部より下流側では、奥入瀬川の両岸に谷底平野があり、その左岸が法量地区、右岸が奥瀬地区になる。この合流地点には焼山温泉があり、その左岸の斜面には十和田湖温泉スキー場がある。

法量地区の集落は主にこの谷底平野にあるほか、中里川、熊ノ沢川の中流にも形成されている。奥入瀬川に中里川が合流するあたりに法量地区の中心地があり、法量神社などがある。

主な河川

主な山岳地形

  • 八甲田山 - 小岳(1478m)、高田大岳(1552m)、硫黄岳(1360.4m)
  • 黒森(1022.7m)
  • 土筆森(579.0m)
  • 高峠(572.8m)

地区の変遷

地域としては陸奥国糠部郡に属していたが、中世以前の様子は史料に欠いており、地頭が誰であったかなど、よくわかっていない[2]

伝承では、元久年間(1204-1205)に畠山重忠の乱で敗走した鎌倉武士の畠山氏の一族が東北地方へ逃れ、その子孫が太田氏を名乗り奥入瀬川一帯を拓いたとされている[2]。戦国期には三戸城七戸城を結ぶ街道上にあるとともに、奥入瀬川に沿って津軽方面へ抜ける山道の分岐点でもあり、要衝の地となった。戦国末期には南部信直が配下の武将に3000騎を委ね、この経路から津軽を攻めたが敗退している[2]

近世

江戸時代は南部藩(盛岡藩)の支配下である。同藩では領内を「」という統治区域に分けており、このうち「七戸通」に属していた[1]

一帯は奥瀬館の奥瀬氏 [注 1]が治めており、江戸時代初期の元和年間(1615-1624)の検地で奥瀬氏の領地であったことが確認できる[1]。ただしこの時期には「五戸通」の奥瀬村の一部として扱われており、延宝年間(1673-1681)に五戸通から七戸通が分割され、奥瀬村から分村を重ねて「法量村」となっていった[1]

寛政年間(1789-1801)の史料によると、その頃は「深持村」の支村(深持法量)として扱われていた[3]。その他の支村として法量のほか20の集落名が挙げられている。これらは概ね後の「法量村」の村域に相当する[3]

享保3(1803)年の史料では法量村が独立村として扱われ、20の集落のほとんどは法量村の支村の扱いに変わっている[3]。「七戸通」と区別して「法量通」と称することもあった[1]。奥瀬氏は奥瀬村を治め、法量村は南部藩の直轄地(蔵入地)となった[2]

分村を重ねて独立した村に発展していく過程で、戸数や人口、石高が伸びていったが、一方で奥入瀬川を隔てて五戸通と七戸通に分かれてしまったことで、草木を刈るための入会地蔦温泉の権益をめぐって争いが起きるようになった[1][2]

近代

上北郡全図。左下の5番が法奥沢村。紫色の範囲がのちの十和田市

明治になっても法量村として存続したものの、幕末から明治初期にかけては、戊辰戦争の影響もあって管轄はめまぐるしく変わった[1][2]明治元年(1868ないし1869年)に弘前藩(津軽藩)の下に置かれたのを皮切りに、明治4年(1871ないし1872年)までのあいだに、黒羽藩九戸県八戸県三戸県斗南藩斗南県弘前県青森県と所轄が変わっている[1][2]。1878(明治11)年に郡制が敷かれると青森県上北郡に編入された[1][2]

奥入瀬川をはさんで法量村の対岸(右岸)には、上流側に奥瀬村、下流側に沢田村があった。はじめは3村で上北郡の第14組を形成しており、沢田村に戸長役場を置いていた[1]。1889(明治22)年にこの3村が合併して法奥沢村となり、地区は「法奥沢村大字法量」となった[1]

現代

その後1931(昭和6)年に法奥沢村は単独で十和田村に改称、1955(昭和30)年には単独で町制を施行して十和田町となった。

一方、奥入瀬川の下流域にあたる地域(三本木原)は後述する稲生川の開削によって、幕末から近代にかけて急速に発展し、不毛の台地から都市へと成長した。三本木原に生まれた都市は、1910(明治43)年には三本木町、1955(昭和30)年には三本木市となった。

三本木市は翌1956(昭和31)年に十和田市に改称したため、そのあと約20年間、「十和田市」(旧三本木)の隣に「十和田町」(旧法奥沢)があるという状況が続いた[注 2]。十和田町は1975(昭和50)年に十和田湖町に改称し、同名の市町村が隣接する状態が解消した。

2005(平成17)年に、十和田湖町は十和田市に合併した。これにより、いまの法量地区は「十和田市(大字)法量」となった。

人口の推移

  • 1878(明治11)年 - 1046人(155戸)[1]
  • 1891(明治24)年 - 1346人(259戸)[1]
  • 1909(明治42)年 - 1542人(200戸)[1]
  • 1955(昭和30)年 - 2628人(344世帯)[1]
  • 1978(昭和53)年 - 2182人(488世帯)(3月31日現在)[4][注 3]
  • 1985(昭和60)年 - 1904人(446世帯)(3月31日現在)[5]
  • 1995(平成07)年 - 1673人(424世帯)(3月31日現在)[6]
  • 2005(平成17)年 - 1380人(399世帯)(3月31日現在)[7]
  • 2015(平成27)年 - 1064人(372世帯)(3月31日現在)[8]

地誌

奥入瀬川の中流にあたる法量地区では、奥入瀬川の河岸段丘で縄文土器を伴ったいくつかの縄文遺跡が発見されている。上流側から、淵沢川付近の善蒼寺遺跡、方貝沢遺跡、熊ノ沢川に面する長沢遺跡である。方貝沢では平安時代のものとみられる土師器の断片もみつかっているものの、いずれも詳しい調査は行われておらず不詳である。また、中世以降の砦跡も多くあり、淵沢、方貝沢、長沢のほか、中里、山屋、川代、鳥谷附などがその代表例である。これらはもともと蝦夷の館だったと言われている。これらのうち長沢の武家館跡は河岸段丘上に4曲輪を伴うもの規模の大きなものであり、そこがかつて要害の地であったことを示唆している。ただし、誰がその館に入っていたかなどはわかっていない[1][2]

法量信仰と法量神社

南部地方では水神龍神のことを龗神(おがみ)と呼んで信仰するのが盛んだった。この信仰をめぐって「法霊」あるいは「法量」という名の修験者に関する伝承がある。この修験者は南部地方を中心に東北各地を回って歩いたとされていて、日照りの年に雨乞いを行い、自らの命と引き換えに龍と化して雨を降らせたとされている[9]

この修験者を祀る代表的な神社とみなされているのが八戸市にある法霊山龗神社(おがみ神社)と、法量にある法量神社である[9]。「法霊」ないし「法量」は、ほかにも「法領」「豊量」などの表記があり、東北地方にこれに由来するとみられる地名、神社が散見される[9]

また、水神と竜に関する伝承としては、この地方では「南祖坊」に関する伝承も広くみられる。南祖坊(南蔵坊とも)は「十和田湖の主」とされていて、竜神と同一視される[10][11]。南祖坊は、秋田の八郎潟の主と戦って十和田湖の主の座を勝ち取り、人びとの信仰を集めるようになった。その伝承には様々なバリエーションがあり、中には南祖坊が八戸出身であるとするものもある。[12][11]

樹齢1100年と言われ、国の天然記念物になっている法量のイチョウは、南祖坊が自ら植えたものとも伝えられている。それによれば、この大イチョウが立っている場所には、かつて「善宗寺」(または「善正寺」)があり、その神木だったとされている[13][14][1][2]

学術的には、十和田湖を形成した十和田湖火山(十和田湖カルデラ)の火山活動は平安時代まで続いていたことがわかっており、これらの信仰と火山・十和田湖の形成に関連があるものと推定されている[2]

稲生川の開削と三本木原の開拓

奥入瀬川の下流域には、八甲田火山十和田湖火山がつくりだした広大な火山灰台地になっており、「三本木原」と呼ばれていた。三本木原は水に乏しいうえにやませが吹き付ける過酷な環境で、近世までは稲作に適さない不毛の地とされてきた[15]

幕末の南部藩家老新渡戸傳新渡戸稲造の祖父)は、法量から水路を拓き、三本木原の開拓に乗り出した。当初の目論見では、三本木原に近い熊ノ沢川から水路を築く予定だったが、水量が乏しく効果が期待できないため、奥入瀬川本流の中流部から引水することになった。この水路は、法量で奥入瀬川から2本の水路で導水し、標高200mの山の尾根2本をトンネルで貫き、中里川と熊ノ沢川を地下水路で潜り抜けるもので、大変な難工事となった[15]

1855(安政2)年に工事が始まり、1859(安政6)年に水路は三本木原に到達し、稲生川と命名された[注 4]。これにより三本木原の開拓が始まり、一帯には広大な放牧地が生まれて日本を代表する馬産地となり、いわゆる南部駒の産地として知られるようになっていった。軍馬が重要視されていた太平洋戦争期までは、陸軍の軍馬補充部三本木支部が置かれており、これは全国の軍馬補充部のなかで最大のものだった[注 5]。一方、冷涼な気候のため稲作は思うような成果を挙げられず、もっぱらアワヒエなどの雑穀を生産するに留まった[15]

三本木原には京都を模した整然とした区画がつくられ、これがいまの十和田市中心部の区割りとなっていった。この区割りは後に札幌を建都した島義勇が参考にしたと伝えられている[16]。稲生川の開削はその後も続けられ、着工から111年目の1966(昭和41)年に海に到達した。稲生川は2014年に国際かんがい排水委員会(International Commission on Irrigation and Drainage)により、かんがい施設遺産に登録された。

奥入瀬川の利用

かつて法量村などの奥入瀬川の村は米の収穫は乏しく、ワラビなどで食料を補っていた。江戸時代後期からは、奥入瀬川から水路を開削し、流域への灌漑に利用するようになった。これは左右両岸で行われ、左岸にあたる法量村では天保年間(1830-1844)に堰が築かれたとの記録がある。その後、前述の稲生川が法量地区から開削されて三本木原の開発が始まった。近代以降は水路開発と同時に耕地整理も行われ、30年余りをかけて一帯は畑作地帯から水田地帯へと変わっていった[2]

明治中期には、奥入瀬川に発電所を建設する計画が持ち上がったが、景勝地である十和田湖や奥入瀬渓流の破壊につながるとして反対され実現しなかった。昭和に入ると電力需要が増加し、数ヶ所の発電所が建設された。発電所が齎す固定資産税によって村の財政は大いに潤い、老人医療費の無料化などの政策が行われた。また、これを原資に1960年代から70年代にかけて、奥入瀬川と蔦川合流地点の焼山地区周辺に温泉の開発が行われた。一帯には十和田湖温泉スキー場などもつくられ、焼山温泉、十二里温泉、川の上流にある蔦温泉猿倉温泉なども含めて十和田湖温泉郷と称している。奥入瀬川の両岸に宿泊施設などがあるほか、右岸(地名の上では奥瀬地区となる)には民俗資料館などがある[17][18][2]

  • 十和田湖温泉スキー場[17]

名所旧跡

インフラ情報

公共機関

かつての十和田湖町の官庁施設は奥入瀬川の右岸にあたる奥瀬地区にあり、その周辺に十和田市役所支所、消防署、郵便局、公民館、図書館、小学校(法奥小学校)、中学校(第一中学校)などが集中している。隣接する沢田地区には県立高校がある。

法量地区には、1874(明治7)年に法量小学校が設置された。これは後に奥瀬の小学校と合併し、1902(明治35)年に法奥小学校となった。一方、1890(明治23)年には尋常高等小学校の分教場(淵沢分教場)が片貝沢に開設され[2]戦後は「奥入瀬小学校」・「奥入瀬中学校」となってピーク時には児童数150名が在籍していた。しかし、少子化と校舎の老朽化により、中学校は1978(昭和53)年、小学校は2010(平成22)年度で閉校となった[19]。2013年4月現在、法量地区の全域は法奥小学校と第一中学校の学区となっている[20][21]

交通網

奥入瀬川に沿って国道102号が通じており、十和田市中心部と十和田湖畔をつないでいる。蔦川の合流地点で国道103号が分岐し、蔦川に沿って蔦温泉、谷地温泉を経由して八甲田山へと通じる。山間部では七戸黒石方面を結ぶ国道394号と一部重複区間となっている。一方、103号は八甲田山の裾野を越えて最終的には青森市中心部まで続いている。

青森県道では、熊ノ沢川に沿って八甲田山中へ向かう県道40号、奥入瀬川右岸の旧十和田湖町中心部から熊ノ沢川、深持を経て七戸へ至る県道118号が通じている。このうち一部区間は40号と118号の重複区間である。

このほか、自転車専用道としての県道256号(田代平高原自転車道)が山間部に一部敷かれているが、全通していない。

その他

郵便番号は034-0303。

脚注

注釈

  1. ^ 奥瀬氏は小笠原氏の傍流で、室町中期から当地に入って奥瀬氏を名乗っていたとされる[2]
  2. ^ さらに、十和田湖に面した秋田県鹿角郡でも1955年に「十和田町」(現鹿角市)が誕生、「青森県十和田市」「青森県十和田町」「秋田県十和田町」が隣り合う事態となった。
  3. ^ 昭和52年度以前は「大字法量」ではなく、大字の区域が異なるため割愛。
  4. ^ これを記念して、新渡戸家に生まれた子に「稲造」と名付けられたのが新渡戸稲造である。
  5. ^ 三本木の軍馬補充部は、もっぱらウマの育成を行っていた。「生産」は隣接する七戸町奥羽種馬牧場(現在の独立行政法人家畜改良センター奥羽牧場)が担っていた。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 角川日本地名大辞典2 青森県』p848-849「法量」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 角川日本地名大辞典2 青森県』p1136-1140「十和田湖町」
  3. ^ a b c 日本歴史地名大系2 青森県の地名』p187-188「法量村」
  4. ^ 十和田市 定住自立圏推進係 「十和田市の統計資料 住民基本台帳に基づく十和田市の人口及び人口動態表」 昭和53年3月31日現在 (PDF) 2016年1月10日閲覧。
  5. ^ 十和田市 定住自立圏推進係 「十和田市の統計資料 住民基本台帳に基づく十和田市の人口及び人口動態表」 昭和60年3月31日現在 (PDF) 2016年1月10日閲覧。
  6. ^ 十和田市 定住自立圏推進係 「十和田市の統計資料 住民基本台帳に基づく十和田市の人口及び人口動態表」 平成7年3月31日現在 (PDF) 2016年1月10日閲覧。
  7. ^ 十和田市 定住自立圏推進係 「十和田市の統計資料 住民基本台帳に基づく十和田市の人口及び人口動態表」 平成17年3月31日現在 (PDF) 2016年1月10日閲覧。
  8. ^ 十和田市 定住自立圏推進係 「十和田市の統計資料 住民基本台帳に基づく十和田市の人口及び人口動態表」 平成27年3月31日現在 (PDF) 2016年1月10日閲覧。
  9. ^ a b c 『青森県百科事典』p834-835「法量信仰」
  10. ^ 『青森県百科事典』p946「竜神信仰」
  11. ^ a b 『青森県百科事典』p651「十和田湖信仰」
  12. ^ 『青森県百科事典』p673-674「南祖坊」
  13. ^ 青森県庁 文化財保護課 あおもりの文化財 法量のイチョウ 2015年12月17日閲覧。
  14. ^ 青森県観光国際戦略局誘客交流課・公益社団法人 青森県観光連盟 アプティネット(青森県観光情報サイト)法量のイチョウ 2015年12月17日閲覧。
  15. ^ a b c 日立ソリューションズ・クリエイト・世界大百科事典第2版 コトバンク「三本木原」による。2015年1月11日閲覧。
  16. ^ 日本経済新聞 2014年7月26日付(夕刊)「青森・十和田 新渡戸記念館」
  17. ^ a b 社団法人十和田市観光協会 十和田湖温泉スキー場2015年1月28日閲覧。
  18. ^ 社団法人十和田市観光協会 焼山周辺のご案内2015年1月28日閲覧。
  19. ^ 十和田市 広報とわだ 2011年4月号奥入瀬小学校閉校 106年の思い出を胸に (PDF) 2016年1月11日閲覧。
  20. ^ 十和田市 学務係 「小学校学区表」 平成25年4月1日現在 (PDF) 2016年1月11日閲覧。
  21. ^ 十和田市 学務係 「中学校学区表」 平成25年4月1日現在 (PDF) 2016年1月11日閲覧。

参考文献

関連項目