コンテンツにスキップ

海外出身の武士の一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。海ボチャン (会話 | 投稿記録) による 2016年1月6日 (水) 05:04個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (記事題名がJPOV的であるのでいずれ改名提案必須となるが、ひとまず細部を編集)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

帯刀するウージェーヌ・コラッシュ

海外出身の武士の一覧(かいがいしゅっしんの日本のぶしいちらん)では、日本国外で出生し、日本の武家の一員となった人物を列記する。

定義

海外出身とは、武士が活躍した平安時代から江戸時代にかけて日本国の勢力が及んでいた日本列島の外で生まれた人物を指すこととする[1]

武士の定義については諸説あり、また時代によって定義は変わってくるが、本項では以下のように取り扱う。

  • 武家の家臣となり、士分の扱いを受けた人物。士分の制度が確立されていない江戸時代以前の場合、戦に参戦するなど武人として仕えながら、知行・扶持米を与えられる・苗字帯刀を許されるなどのちの士分と同様の待遇を受けていた人物。
  • 武家の役職(リストで挙げられているものとしては旗本小姓茶坊主がある)に就いた人物。
  • 帯刀(長刀と短刀を腰に提げる)が主君またはそれに準じる人物から認められていた人物。

したがって、このリストには以下のような人物は含まれない。

  • 親が海外出身であるが、自身は日本で出生した場合。
  • 武家に仕えてはいるが、儒学者医者など他の職業として雇われ、なおかつ士分として扱われた記録がない人物。
  • お雇い外国人として武家と協力関係にあったが、士分を与えられず、また武士と同様の生活を送ってもいない人物。

また、以下の人物は武士であった可能性のある人物として別表で扱う。

  • 海外で出生した可能性がある人物。
  • 実在が学術的に広く疑問視されている人物。
  • 武家の家臣だが、武人であったかは不明な人物。
  • 知行・扶持米を頂いているが、正式に武人として家臣であったかは不明な人物[2]

海外出身の武士

来日年順に並べる。

出身国
(現在の国名)
出生名 来日前の役職 来日年 日本での名前 主君、もしくは主君に準じる人物。 日本での役職、功績
ポルトガル領モザンビーク
(モザンビークの旗 モザンビーク)[3]
不明 イエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノの従者[4] 1579年 弥助[5] 織田信長[5]
織田信忠[5]
扶持持ち[6]。信長の道具持ち[7]甲州征伐[6]本能寺の変[5]に従軍。
李氏朝鮮[8] 金如鉄[9] 翰林学士の息子[9] 1592年[8] 脇田直賢[8] 前田利長
前田利常[8]
前田光高
前田綱紀
1000石。大坂夏の陣に従軍。御小姓頭、金沢町奉行[8]
李氏朝鮮[10] 朴好赫[10] 慶州の小城主朴好仁の長子[10] 文禄の役(1592-1593)後に長宗我部氏に従い来日[10] 朴長次郎→
(秋月長左エ門[11])[10]
長宗我部氏[10] 長宗我部の児小姓。長宗我部氏没落後は土佐で父とともに豆腐商になる[10]
李氏朝鮮[12] 梁夢麟[12] 朝鮮出身の梁千頃の子[12] 1597年?[12] なし? 脇坂安治[12] 安治の茶坊主[12]元和三年(1917年)に刷還使に従い帰国[13]
李氏朝鮮[14] 不明[14] 朝鮮の部将曽清官の一子[14] 1598年[14] 曽我清官[14] 中川秀成[14] 150石。秀成の小姓[14]
ハプスブルク領ネーデルランド
(オランダの旗 オランダ)
ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン 航海士、リーフデ号に乗船[15] 1600年[16] 耶楊子 徳川家康
徳川秀忠
旗本[15][17]。50人扶持[18]朱印船貿易を行う。
イングランドの旗 イングランド ウィリアム・アダムス 航海士、リーフデ号に乗船[15] 1600年[16] 三浦按針 徳川家康
徳川秀忠
旗本[15][18]。250石。通訳者、船大工としても活躍。
プロイセン王国? ジョン・ヘンリー・スネル[19] プロイセン領事書記官[19] 1866年以前[19] 平松武兵衛[20] (松平容保) 和装し、帯刀していた[20]会津藩軍事顧問奥羽越列藩同盟への武器提供。
フランスの旗 フランス ウージェーヌ・コラッシュ フランス海軍士官 1868年以前[21] なし (榎本武揚) 蝦夷共和国に協力。宮古湾海戦に参加。

海外出身の武士であった可能性のある人物

武家の家臣であり、知行地を与えられていた人物。
  • 金宦…200石。もとの名は良甫鑑。文禄の役の際捕虜となった朝鮮二王子の侍臣であったが、加藤清正を慕い近習となる。清正の死後殉死[22][23]
  • 李元宥…100石。もとの名は李聖賢。朝鮮の王族の血筋で、全羅道節度使李福男の一子。慶長の役の際捕虜となり、御伽衆として毛利氏に仕える[24]
武家から扶持を与えられていた人物。
  • 朴好仁…文禄の役で長曾我部氏に従い来日。息子は長曾我部氏の児小姓となる。関ヶ原の戦い後長曾我部家没落により浪人となり、父子ともども豆腐商となり、山内一豊治下でも豆腐商を続ける。のちに父は加藤嘉明、さらに福島正則のもとに身を寄せるが、朝鮮への刷還使に従い帰国。豆腐商の頃から一豊から扶持を頂き、また正則のもとにいたときも扶持と屋敷を頂いていた[10]
その他武士であった可能性がある人物
  • 山科勝成…イタリア出身で、蒲生氏郷に仕えたとされるが、実在性に疑問が呈されている[25]
  • 川崎清蔵…もとの名は達越。字は宗歓。朝鮮からの漂流民で、鍋島直茂に仕える。文禄・慶長の役で日本側の間諜として活躍したあと、御用商人となり、唐人町(佐賀)を創始した[26][27]。士分として召し抱えられたかは不明。
  • 允福…朝鮮の軍官慎忠義の息子で宦官であったが、朝鮮役の際捕虜となり来日。徳川家康に寵愛され、宮裏の任にあったと記述があり、小姓の役をさせられていたのではないかと推測される[28]
  • 岡田半左エ門…幼少時朝鮮役で毛利元政に召し連れられ側近にいたが、喧嘩沙汰を起こし相手を傷つけたため追放された[29]。士分として召し抱えられたかは不明。
  • 名前不明…蜂須賀氏の船手の大将森志摩守は朝鮮の将士を家臣にしていたと伝わる[30]
  • 渡辺士式出身で、浅野氏に医学をもって仕えたと言われるが[31]、士分として召し抱えられたかは不明。子の渡辺式重は武士。

その他の逸話

江戸期の随筆耳袋』巻一の記述として、柳生家門番に朝鮮から日本へ亡命したものがおり、自分の身を嘆いた漢詩をきっかけに200石を与えられ、侍になった(士分を与えられた)話がある。氏名についての記述はないが、『耳袋』が記述された18世紀時点においても、子孫は仕えていると記述されている。

脚注・出典

  1. ^ 琉球王国蝦夷蝦夷地を含むかは議論があるかもしれないが、2015年8月時点のリストでこれらの土地の出身の武士は確認されていない
  2. ^ 父が幕府の侍医で、自身は儒学者ながら500石を得た荻生徂徠のように、武人以外も知行を得る例があるため
  3. ^ Histoire Ecclesiastique Des Isles Et Royaumes Du Japon, 第 1 巻、p.444.”. 2013年6月22日閲覧。
  4. ^ ジアン・クラッセ、「日本西教史」上巻、太陽堂書店、1925年、384頁”. 2015年8月4日閲覧。
  5. ^ a b c d 村上直次郎; 柳谷武夫(訳)『イエズス会日本年報 上』雄松堂出版〈新異国叢書〉、2002年。ISBN 484191000X 
  6. ^ a b 松平家忠、「家忠日記」、文科大学史誌叢書第2巻、吉川半七、1897年、54頁”. 2015年8月4日閲覧。
  7. ^ 『織田信長という歴史 『信長記』の彼方へ』、勉誠出版、2009年、311-312頁。
  8. ^ a b c d e 笠井純一、「家伝 金(脇田)如鉄自伝[翻刻解説」、金沢大学教養部論集. 人文科学篇、1990年、一頁]”. 2015年8月4日閲覧。
  9. ^ a b 笠井純一、「家伝 金(脇田)如鉄自伝[翻刻解説」、金沢大学教養部論集. 人文科学篇、1990年、7頁]”. 2015年8月4日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g h 内藤 雋輔『文禄・慶長役における被虜人の研究』東京大学出版会、1976年。 ,746-748頁
  11. ^ 豆腐商時の名
  12. ^ a b c d e f 内藤 雋輔『文禄・慶長役における被虜人の研究』東京大学出版会、1976年。 ,101頁
  13. ^ 内藤 雋輔『文禄・慶長役における被虜人の研究』東京大学出版会、1976年。 ,121頁
  14. ^ a b c d e f g 内藤 雋輔『文禄・慶長役における被虜人の研究』東京大学出版会、1976年。 ,723-724頁
  15. ^ a b c d 森良和、「メルヒオール・ファン・サントフォールト」、2014年、82頁”. 2015年8月4日閲覧。
  16. ^ a b 森良和、「メルヒオール・ファン・サントフォールト」、2014年、81頁”. 2015年8月4日閲覧。
  17. ^ Corr, Adams the Pilot: The Life and Times of Captain William Adams. Pp.158
  18. ^ a b 『家康の家臣団: 天下を取った戦国最強軍団』、山下昌也、学研プラス、2011年
  19. ^ a b c Hirohisa Kawaguchi,HENRY SCHNELL AND JAPANESE IMMIGRATION TO THE UNITED STATES,347頁”. 2015年8月4日閲覧。
  20. ^ a b Hirohisa Kawaguchi,HENRY SCHNELL AND JAPANESE IMMIGRATION TO THE UNITED STATES,348頁”. 2015年8月4日閲覧。
  21. ^ "Une aventure au Japon", by Eugene Collache, p.49
  22. ^ 金宦さん之墓”. 2015年12月4日閲覧。
  23. ^ 内藤 雋輔『文禄・慶長役における被虜人の研究』東京大学出版会、1976年。 ,726-725頁
  24. ^ 可児弘明、「孟二寛とその後裔」、『史学』 2006、2006年、三田史学会、99頁”. 2015年8月4日閲覧。
  25. ^ 辻善之助、「海外交通史話」、1930年、内外書籍、450-464頁”. 2015年8月4日閲覧。
  26. ^ 内藤 雋輔『文禄・慶長役における被虜人の研究』東京大学出版会、1976年。 ,734-735頁
  27. ^ 40宋歓と唐人町”. 2015年12月3日閲覧。
  28. ^ 内藤 雋輔『文禄・慶長役における被虜人の研究』東京大学出版会、1976年。 ,67頁
  29. ^ 内藤 雋輔『文禄・慶長役における被虜人の研究』東京大学出版会、1976年。 ,759頁
  30. ^ 内藤 雋輔『文禄・慶長役における被虜人の研究』東京大学出版会、1976年。 ,754頁
  31. ^ 可児弘明、「孟二寛とその後裔」、『史学』 2006、2006年、三田史学会、101頁”. 2015年8月4日閲覧。

関連項目

この一覧は未完成です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています