柳生厳包

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

柳生 厳包(やぎゅう としかね、寛永2年(1625年) - 元禄7年10月11日1694年11月27日))は、江戸時代前期の剣術家、新陰流第五世。柳生利厳(兵庫助)の三男で母・珠(利厳の継室)は島清興(左近)の末娘である。初名は厳知。通称は七郎兵衛、兵助、兵庫。号は連也斎。隠居後の別名は浦連也。

略歴・人物[編集]

幼少より剣術の才能に恵まれ、利厳の高弟、高田三之丞により指導を受ける。初めは母方の実家である島家を再興させる予定であったが、その才能が評価されて正室の子であった異母兄柳生利方をさしおき流派を継承する(尾張柳生家の家督は利方に譲られた)。流祖、上泉信綱より柳生宗厳(石舟斎)、柳生利厳と連なる新陰流の剣術を完成させたのは厳包であると言われている(六世は、尾張藩藩主徳川光友に伝授)。

著書に『御秘書』、『連翁七箇條』。柳生拵、柳生鍔を考案。愛刀は肥後守秦光代の作(拵えの形状から、籠釣瓶ともいう)とされる。ほかに秦光代には1尺4寸の片切刃鎬造の脇差を特注。これにはその形状と、連也斎が就眠中刺客に襲われた際、この脇差で片手斬りにしたことから「柳生の鬼包丁」の異名がある。また尾張藩お抱え刀工の伯耆守信高(3代)の作が残されている。さらに肥後守秦光代の師匠である江戸石堂派の対馬守常光に、常光唯一の郷写しの中脇差を特注しており、これは由来の鞘書きと共に徳川美術館に納められている。また、主君である徳川光友の命による初心者のための訓練法である「取り上げ使い」を開発するなど、後進の育成にも力を尽くした。

生涯を独身で過ごし、死後は遺言によって遺骨は熱田沖の海上に撒かれたという。

厳包の後、尾張柳生氏は、尾張藩の兵法指南役として明治維新まで仕えている。

伝説があり、1651年江戸城で催された「慶安御前試合」に兄、利方と共に参加。将軍、徳川家光に燕飛を上覧。後、柳生宗冬と試合を行って木刀で右拳を砕き勝利したとされる。その際柳生厳包により使用され、柳生宗冬の血痕が付着していると伝承される木刀が、尾張柳生家に伝えられている。もっとも、尾州柳生の印可をうけている人たちの話によると、宗冬と兵助の演じたのは「大転」と呼ばれた勢法、つまり型であって、兵助の使太刀の打ち込みが早すぎたため、宗冬の拳を傷つけたのではないかといわれている(今村嘉雄「図説日本剣豪史」)。

柳生厳包の登場する作品[編集]

小説[編集]

  • 隆慶一郎『慶安御前試合』
  • 津本陽『柳生兵庫助』
  • 五味康祐『秘剣・柳生連也斎』
  • 鳥羽亮『柳生連也斎 決闘十兵衛』『柳生連也斎 死闘宗冬』『柳生連也斎 激闘列堂』

映画[編集]

漫画[編集]