放蕩息子のたとえ話

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放蕩息子のたとえ話(ほうとうむすこのたとえばなし)は新約聖書ルカの福音書(15:11)に登場する、イエス・キリストが語った神のあわれみ深さに関するたとえ話である。

このたとえ話は、「完全なる小品、短編物語中の最高傑作、福音書の中の真珠」[1]とも言われる。

内容[編集]

ある人に二人の息子がいた。弟の方[2]が親が健在なうちに、財産の分け前を請求した。そして、父は要求通りに与えた[3]

そして、生前分与を受けた息子は遠い国に旅立ち、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。大飢饉が起きて、その放蕩息子はユダヤ人が汚れているとしている豚の世話の仕事をして生計を立てる。豚のえささえも食べたいと思うくらいに飢えに苦しんだ。

父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。彼は我に帰った。帰るべきところは父のところだと思い立ち帰途に着く。彼は父に向かって言おうと心に決めていた。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と。ところが、父は帰ってきた息子を見ると、走りよってだきよせる。息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった。

父親は、帰ってきた息子に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開いた。それを見た兄は父親に不満をぶつけ、放蕩のかぎりを尽くして財産を無駄にした弟を軽蔑する。しかし、父親は兄をたしなめて言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(口語訳新約聖書 ルカ 15:11

この物語の主題は、神に逆らった罪人を迎え入れてくださる神のあわれみ深さである。登場する「父親」は神を、「弟」(放蕩息子)は罪人である人間を、「兄」は律法に忠実で善良な人を指しているといわれる。

弟のために開かれた盛大な祝宴を喜べず、父親に不満をぶつける兄の姿を、律法に忠実な人が陥りやすいファリサイ派の精神、傲慢さを表しているとする読み方もできる。この読み方によれば、兄をたしなめる父親のことばはファリサイ派のパン種(偽善)[4]に注意しなさい、という人々への警告とも読み取れる。[5]

脚注[編集]

  1. ^ 『実用聖書注解』1115ページ
  2. ^ 弟は独身で推定17-20歳と考えられる。『実用聖書注解』1115ページ
  3. ^ 申命記21章17節の規定によると、兄2に対して弟は1の割合で相続できることになっている。
  4. ^ ルカによる福音書(12:1)
  5. ^ 場崎 洋 『イエスのたとえ話』170-175頁。

参考文献[編集]

関連項目[編集]