罪の女

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罪の女(つみのおんな)は日本語で定着した言葉ではないが、英語で the Sinner と大文字で書くと、「悔悛した罪深い女」となる。またマグダラのマリアと関連づけられることがある。由来はカトリック教会において、ルカによる福音書に登場する「罪深い女」がマグダラのマリアと同一視されたことによる。ヨハネによる福音書に登場する 姦通の女も混同されることが多い。他方、正教会にはこのような同一視は存在しない。

香油の女[編集]

罪深い女[編集]

この町に一人の罪深い女がいた。イエスファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏を持ってきて、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。 — ルカ7:37-38(新共同訳による)。強調引用者。

イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。

そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。

イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。

ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。

シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。

それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。

あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。

あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。

それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。

そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。

すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。

しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

— ルカ7:39-50 ルカによる福音書(口語訳)7:39 

口語訳新約聖書(1954年)では「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。」と訳されている。しかし、フランシスコ会訳新約聖書では「彼女の多くの罪がゆるされたのは、彼女が多くの愛を示したことでわかる。」と訳されている。この部分について、フランシスコ会訳新約聖書は次のように注釈している。

~本節は一般に「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされている」とか、「この人の罪、その多くはゆるされた、多く愛したのだから」と訳されている。これによると、罪の女は愛を示したがゆえにゆるされたことになる。しかし、本訳のように、ゆるしが愛の原因であるとするほうが、たとえ話とその結論(47節)とが一致する。すなわち、罪の女はイエズスに愛を示す以前に、教えを聞き、罪を痛悔し、罪のゆるしを受けていた。これが愛と感謝の行為となって現れた、とするほうが、話全体からより適切な解釈と言えよう。~[1]

共同訳新約聖書(1987年)でも、フランシスコ会訳新約聖書と同様に「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」と訳されている。

ベタニアのマリア[編集]

よく似たエピソードは他にも福音書に登場する。 ベタニアの無名の女性がイエスの頭に香油を注いだ [2]。 あるいはベタニアのマリアがイエスの足に香油を注ぎ、イエスの足を自らの髪で拭った[3]。 イエスに香油を塗る行為は、イエスがキリストメシア=油を注がれし者)として祝福されること、あるいは近く来たるべき喪葬を暗示している。

イエス自身が「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」<マルコ14:8>とベタニアのマリアの行いを賞賛している。  マタイ 26:6 マルコ 14:3 ヨハネ 12:1

マグダラのマリア[編集]

安息日の前日に十字架上で亡くなったイエスの遺体を、アリマタヤのヨセフが引き取り、亜麻布でくるみ墓の中に納めた。マグダラのマリアがその場所を確認した上で、イエスの喪葬の目的で安息日が明ける、週の初めの早朝にマグダラのマリアヤコブとヨセの母マリアサロメの三人あるいは四人が香料と油を用意して墓に行った[4]。  マルコ 16:1 ルカ 24:1

混同と回復[編集]

香油にまつわるこれら3人の人物を、591年、グレゴリウス1世は同一人物とした。「罪深い女」とマグダラのマリアを同一視するもうひとつの理由は、彼女が「七つの悪霊を追い出していただいた」[5]と紹介されていることにもよる。この「七つの悪霊」を、グレゴリウス1世は七つの大罪に当てはめた[要出典]

このため、マグダラのマリアベタニアのマリアと、また「罪深い女」と同一視され、「罪の女」(the Sinner)と大文字で書かれる異名を受けることとなった。悔悛した罪人(つみびと)の代表であるばかりでなく、女性の、とくに性的不品行に結びつけられ、娼婦をも意味することがあった。

マグダラのマリアは更生した娼婦の守護聖人となり、13世紀には娼婦や性的なトラブルに遭った女性の保護あるいは更生施設として[要出典]、聖女マグダラのマリアの名を冠した修道院がヨーロッパ各地に設立される。「magdalene」と小文字で書く聖女の名は、こうした更生した娼婦を意味することともなった[要出典]。 映画にもなった『マグダレンの祈り』は、アイルランドに最近まで存続していた聖メアリー・マグダレン修道院を舞台とする。

カトリック教会では、1969年、パウロ6世の下で見直された「ミサの朗読配分」において、聖女マグダラのマリアの日に読むべき聖書の一節を、これまでのルカによる「罪深い女」の節から、ヨハネによる福音書を用いて、マグダラのマリアが復活したイエスと出会う場面[6]に変更した。わずかながら聖女の名誉回復の一歩となった。

「罪深い女」、ベタニアのマリア、マグダラのマリアを同一人物としたのは、もともとカトリックに特有の伝承であったので、現在、これらを同一人物とする教派はほとんど無いことになるが、長年の伝統は欧米に、また日本にも、根強く残っている。

2006年3月に米国カトリック司教会議(USCCB)が開設したウェブサイトJESUS DECODEDによれば、マグダラのマリアは、上記「罪深い女」やベタニアのマリアとは別人の、イエス・キリストの「特筆すべき弟子の一人」(a prominent disciple)としている。 いっぽうCatholic Encyclopedia[1]は、これらを同一人物とする論を掲げている[要検証 ]

フランシスコ会訳注『新約聖書』ではマルコ(14:3)の「ベタニアで香油を注がれる」の節に対する注釈で『この女はラザロの姉妹マリア(ヨハネ12.1~3参照)。このとおりの記事はルカ福音書にはないが、これに似たような記事がある。すなわち、罪の女が痛快と愛の心からイエズスの足を涙で洗って香油を注いだことが、書き記されている(7.36~50)。そしてこの事の起こった家の主人の名前は、ルカ福音書も本書と同じく「シモン」となっている。しかし、いろいろな理由からこの類似した二つの記事は同一の出来事に関するものではないであろう。』と注釈しており、注釈者たちが三人の女性はそれぞれ別人であると解釈している事が容易に読み取れる。[7]

姦通の女[編集]

ヨハネによる福音書第8章3節-11節にあらまし次のような記述がある。

イエスを試すために、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来た。律法では石打ちの死刑に値する。イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言った。これを聞いた者は全員、自分が罪を犯したことがあると知っているので、誰も女に石を投げることができず引き下がった。また、イエスも女の罪を許した。  ヨハネ 8:3

罪を犯しながらイエスに許されるこの女もまた、マグダラのマリアに重ねられることも多い。 キリストを描いた映画には好んでこの逸話が挿入される。たとえば『偉大な生涯の物語』(1965年)は、これをマグダラのマリアを紹介するシーンとして使っている。このため、この女性こそマグダラのマリアであると誤解する人が多いが、これが教義として教えられてきたわけではない。

「姦通」の語は新共同訳による。

また、キリストを題材とした絵画でこのシーンを描いたものも多い。ハン・ファン・メーヘレンによる「キリストと悔恨の女」もこのシーンを題材としたものである。

脚注[編集]

  1. ^ 『新約聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注。<ルカ7:44> 213頁-215頁。
  2. ^ マタイ26:6-13,マルコ14:3-9
  3. ^ ヨハネ12:1-8
  4. ^ マルコ16:1, ルカ24:1
  5. ^ マルコ16:9, ルカ8:2
  6. ^ ヨハネ20:1-2, 11-18
  7. ^ 『新約聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注。マルコ(14:3) 167頁注(3)。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 新共同訳新約聖書 日本聖書協会
  • 口語訳新約聖書 日本聖書協会
  • 『新約聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注、中央出版社、改定初版1984年。