ふたりの息子のたとえ

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ふたりの息子のたとえ(ふたりのむすこのたとえ、英語: Parable of the Two Sons)は新約聖書マタイによる福音書(21:28-32)に登場する、イエス・キリストが語った神の国に関するたとえ話である。

キリストの洗礼祭壇画
ヘラルト・ダーフィット英語版(16世紀)

内容[編集]

概要[編集]

イエスはエルサレム神殿の祭司長、長老たちを前にして次のたとえ話を語った。

ある人にふたりの息子がいた。父は兄のところに行って、「きょう、ぶどう園に行って働きなさい」と指示した。すると、兄は「わかりました。参ります」と答えたが行かなかった。また、弟のほうにも「ぶどう園に行って働きなさい」と同じように指示した。弟は「いやです」と答えたが、あとで考えなおして、ぶどう園に出かけた。

イエスは祭司長や長老たちに「ふたりのうち、どちらが父親の望みどおりにしたのか」と尋ねた。彼らは「弟のほうです」と答えた。

「取税人や遊女のほうが、あなたたちより先に神の国に入る。ヨハネが義の道を説いて、取税人や遊女たちはヨハネを信じた。あなたがたはそれを見たのに、彼を信じようとしなかった」とイエスは彼らに言った。

聖書本文[編集]

<21:28>あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。

<21:29>すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。

<21:30>また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。

<21:31>このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。

<21:32>というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。 — マタイによる福音書 21:28 - 32口語訳聖書

解説[編集]

イエスがエルサレム神殿の境内で人々に教えていると、祭司長や長老たちが近寄って来て、「何の権威でこのようなことをしているのか。誰が権威を授けたのか」と言った。それに対してイエスは「では、わたしも尋ねる。それに答えたらわたしも答えよう。ヨハネの洗礼は天からのものか。人からのものか」と言った。祭司長や長老たちは相談し合った。「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と言われる。「人からのものだ」と言えば、周りにいる群衆はヨハネは神が遣わした預言者だと信じているので何をされるか怖い。そのため、「わからない」と答えた。イエスは「それなら、わたしも何の権威でこのようなことをするのか言うまい」と言った。[1]

群集から支持されているイエスと祭司長や長老たちとの間で神から与えられた権威をめぐって、厳しい緊張関係が生まれていた。イエスがエルサレムに入って、その緊張関係がさらに高まった[2]。その中でイエスはこのたとえ話を語った。

たとえ話の中で兄は祭司長や長老たち、ユダヤ人権力者を表し、弟は徴税人や娼婦たち、罪びとを表している。そして父親の「ぶどう園に行って働きなさい」という命令は預言者であるヨハネが勧めた洗礼を受け入れ、悔い改めること、神の命令に従うことを表している。[3]

イエスは神の教えの伝道を始める前に、洗礼者ヨハネのもとに行き、彼が授ける洗礼を受けていた[注釈 1]。またヨハネはイエスの登場に先立ち、ひたすら、神の民の悔い改めを説き、多くの民に洗礼を授けていた。これは、神のぶどう園を神のものとしてお返しするための浄化作業を意味していた。[4]

徴税人や娼婦たちは自分の罪を自覚し、ヨハネの悔い改めの洗礼を受け、考えを改めた。それに対し、祭司長や長老たちは心を頑なにし、ヨハネの洗礼を受けることなく、自分たちこそが神からの権威を授かっているのだと慢心を起こし、考えを改めようとしなかった。そのことをイエスはこのたとえによって批判している。[5][6]

このたとえ話の中心主題は、自分の罪を自覚して今までの生活を変えること、考え方を変えることである[7]。そのために必要なものは、心の柔軟性と心の謙虚さであろう[注釈 2]

ここで引用した聖書の本文は口語訳聖書であるが、口語訳聖書と新共同訳聖書では内容が異なり、兄と弟の発言が入れ替わっている。これは元の古代ギリシャ語のテキストが2種類あることに起因しているが[注釈 3]、イエスがたとえ話によって主張している意味に変わりはない。大正改訳聖書新改訳聖書は口語訳聖書と同様に考えを改めたのは弟の方となっている。また、明治元訳聖書フランシスコ会訳聖書は新共同訳聖書と同様に考えを改めたのは兄の方となっている。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ マタイによる福音書 3:13-17参照。
  2. ^ マタイによる福音書 11:29マタイによる福音書 18:2-4参照。
  3. ^ テキストは口語訳聖書がネストレ・アーラント第21版、新共同訳聖書が第26版。

出典[編集]

  1. ^ 場崎 洋(2011)、pp.246-247
  2. ^ 加藤常昭(2001)、p.238
  3. ^ 加藤常昭(2001)、p.242
  4. ^ 加藤常昭(2001)、pp.240-241
  5. ^ 加藤常昭(2001)、pp.242-243
  6. ^ 場崎 洋(2011)、pp.249-250
  7. ^ 加藤常昭(2001)、p.241

参考文献[編集]

  • 新共同訳新約聖書 日本聖書協会
  • 口語訳新約聖書 日本聖書協会
  • 新改訳聖書 いのちのことば社
  • 『新約聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注、中央出版社、改訂初版1984年。
  • 加藤常昭 『加藤常昭信仰講話3 主イエスの譬え話』 教文館、2001年2月10日初版発行。ISBN 4-7642-6357-2
  • 場崎 洋 『イエスのたとえ話』 聖母の騎士社、2011年3月25日初版発行。ISBN 978-4-88216-327-5

関連項目[編集]

外部リンク[編集]