宣太后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

宣太后(せんたいごう、? - 紀元前265年)は、中国戦国時代末期のの女公子での王太后。本名と両親は不明。姓は、別号を羋八子[1]恵文王の側室で昭襄王・涇陽君(公子巿)・高陵君(公子悝)の生母で義渠の戎王との間にも二子を成したと言われる[2]始皇帝嬴政の高祖母に当たる。

昭襄王の治世において権勢を奮った相国魏冄は異父同母弟で、左丞相の華陽君(羋戎)は弟である。昭襄王の治世前期に権勢を振るった宣太后・魏冄・羋戎を指して三貴[3]とも称される。

生涯[編集]

秦の太后に[編集]

紀元前325年に公子稷(後の昭襄王)を産む。この後、14年の間に恵文王との間に公子市(高陵君)と公子悝(涇陽君)を儲けた。

紀元前311年に恵文王が亡くなり、恵文后(魏夫人)の産んだ長子の嬴蕩が武王として秦王の座を継いだ。

紀元前307年には武王が若くして亡くなったが武王には正室・武王后との間に子がなかったため、彼の弟たちが秦の王位を巡って争うことになった。

武霊王の計らいで、代国宰相趙固によってに人質となっていた公子稷が趙を経由して秦に送り届けられた。多くの群臣が反対する中、異父同母弟である魏冄の支援により公子稷が昭襄王として秦王に即位することになったが、昭襄王は年若く、加冠の儀(成人の儀)を終えていなかったため、宣太后と魏冄・羋戎が秦の朝政を取り仕切ることになった。

紀元前306年から紀元前305年にかけて武王の後継者争いで敗れた昭襄王の兄弟で、恵文王の庶長子の公子荘(季君)が反対勢力をまとめて反乱を起こした(季君の乱または庶長荘の反乱)。

魏冄がこれを鎮圧し、昭襄王の兄弟で公子荘を始めとする叛いた者は皆滅ぼされ、反乱に加担した大臣や恵文王の正室・恵文后も処刑され武王后は故国のに追放(または自ら逃亡)された。

義渠の王を誘殺す[編集]

昭襄王が王位についた際、義渠の戎王が祝賀のため来朝した。宣太后はこの時戎王と私通し2人の子を儲けた。昭襄王は宣太后と義渠を滅ぼすための密謀を立て、昭襄王三十五年(紀元前272年)、宣太后は戎王を誘い出して入秦させると甘泉宮に呼び出し、そこで戎王を殺害させた。

秦は直ちに義渠へ兵を送るとこれを滅ぼし、義渠の故地に隴西郡北地郡上郡を置き、長城を築いて異民族の侵入を防いだ[4][5]

登場作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 史記』穣公列伝。八子は秦の後宮における位階
  2. ^ 後漢書』巻八十七 西羌
  3. ^ 戦国策』秦策三
  4. ^ 『史記』匈奴列伝「秦昭王時,義渠戎王與宣太后乱,有二子。宣太后詐而殺義渠戎王於甘泉,遂起兵伐残義渠。於是秦有隴西、北地、上郡,築長城以拒胡。」
  5. ^ ただし、宣太后が義渠戎王と私通した事と、後に謀殺した件については年齢や始皇帝母趙姫の類話などの見解から創作と見る説もある。『史記』匈奴列伝疏証29P参照