武霊王

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武霊王(ぶれいおう、? - 紀元前295年、在位紀元前326年 - 紀元前298年)は、中国戦国時代の君主。(『史記索隠』に拠る)。粛侯の子。胡服騎射を取り入れて趙を軍事大国とした。

生涯[編集]

紀元前326年、粛侯が死に、趙侯の位を受け継ぐ。この時に武霊王はまだ幼かったので、粛侯時代の貴臣である肥義の意見を聞いた。

紀元前319年、この頃諸国は相次いで王号を称えるようになっていたが、武霊王は「趙にはその実質が無い」と言ってあくまで君と呼ばせていた(子の恵文王の時代から王号を使うようになり、父のにも王号を贈った)。

紀元前315年、隣国のが大混乱に陥り、君主不在の状態になっていた。武霊王は燕の公子職を招き、趙の後ろ盾を付けて燕の君主として立てようとしたが、燕では昭王が君主となった。

紀元前311年、武霊王は美女の夢を見て、その夢を回りに聞かせていた。これを聞いた呉広と言う男が、自分の娘の孟姚が夢の美女とそっくりであると思って武霊王に献上した。武霊王は大いに喜んで孟姚を寵愛した。孟姚が生んだ公子何が、後の恵文王である。

紀元前310年、郊外に野台を作ってそこから中山を眺めた。これらの国を征服する野望を見せたのである。

胡服騎射[編集]

胡服騎射

紀元前307年、野望を達成するための準備として胡服騎射を取り入れることを考える。それまでの中華世界の貴族戦士の伝統的な戦術は、3人の戦士が御者と弓射、による白兵戦を分担する戦車戦だった。それに対して北方遊牧民族は戦車を使わず、戦士が直接1頭の馬に乗って弓を放っていた。胡服騎射とは、この遊牧民族の戦法を真似ようというものであった。当時の大夫たちは裾が長く、下部がスカート状の服を着ていた。乗馬のためにはこれは非常に邪魔であり、胡服騎射には遊牧民の乗馬に適したズボン式の服装(胡服)を着る必要がある。

これを下問した所、肥義はすぐに賛成したが、武霊王の叔父の公子成はこれに反対した。中華思想が強く、遊牧民を「蛮夷」と呼んで見下し、直接馬に乗る事を蛮行と見なしていた当時では、肥義のように賛成する者の方が珍しく、公子成が反対したのも無理はなかった。しかし、武霊王は「かつては有苗に舞ひ、は裸国に袒ぐ」(舜は有苗の風習にあわせて踊り、禹は裸国の風習にあわせて服を脱いだ)と粘り強く説得を続け、胡服騎射を取り入れることに成功した。

同年、武王が没したので、燕にいた公子稷を送り込んで秦君とした。これが昭襄王である。

紀元前298年、それまで太子に立てていた公子章を廃し、公子何(恵文王)を太子に立てた後に位を譲ったが、自らは「主父」と名乗り、実質的な権力を握り続けた。

紀元前296年、それまで何度か攻撃して、半ば征服していた中山を完全に滅ぼし、版図に入れた。

紀元前295年、公子章に憐れみの心を起こして趙の北のの君として置こうと考えたが、これが公子章に恵文王に対しての反乱を決意させる。公子章は反乱を起こすが、失敗し主父の元へと逃げ込み、主父はこれを匿った。恵文王側の李兌と公子成は主父の館を包囲し、公子章はその中で死亡した。ここで反乱は終わったが、主父に対して兵を向けた格好となった李兌たちは後で主父に誅殺されることを恐れて館を遠巻きに包囲を続けた。館内では食料も尽き、主父自ら屋根の雀の巣から卵探す姿が見られるほどとなったが包囲は継続され、3ヶ月の包囲の後に主父は餓死した。

評価[編集]

司馬遷は「武霊王は後継を逡巡し、餓死したことで天下の物笑いとなった(為天下笑、豈不痛乎)」と厳しい評価を与えている。[1]

武霊王を題材にした小説[編集]

出典・脚注[編集]

  1. ^ 史記』「趙世家」
先代:
粛侯
の君主
前326年 - 前298年
次代:
恵文王