紀元前307年

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紀元前307年は、ローマ暦の年である。当時は、「カエクスウィオレンス共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元447年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世初期以降、この年は紀元前307年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法[編集]

できごと[編集]

バビロニア[編集]

エジプト[編集]

ギリシア[編集]

シチリア[編集]

  • シュラクサイ僭主アガトクレスは、拡大する領民の反乱を抑えるため、シュラクサイに戻らなければならなかった。カルタゴに残ったアガトクレスの軍は、すぐに壊滅させられた。
  • カルタゴの将軍ハミルカルは、シュラクサイの侵攻に失敗し、捕えられて殺害された。
  • セジェスタの町は、アガトクレスによって破壊された。

中国[編集]

  • 甘茂の宜陽を攻撃したが、5カ月経っても陥落させられなかったため、武王は甘茂を召還して軍を撤退させようとした。甘茂が息壌の盟約を武王に思い出させると、武王は大規模な援軍を編成して、甘茂を助けた。宜陽が陥落すると、韓の公仲侈が秦に入国して陳謝し、講和を願い出た。
  • 秦の武王は力比べを好み、力士の任鄙・烏獲・孟説らはみな大官に上った。この年の8月、武王と孟説は鼎を持ち上げる勝負をしていたところ、武王は脈が絶えて突然死した。孟説の一族はみな処刑された。武王には子がいなかったため、に人質として異母弟の稷(昭襄王)を擁立して即位させた。昭襄王の母の宣太后が朝政の実権を握り、武王の遺臣の樗里疾甘茂向寿公孫奭らが国政を運営した。
  • 武霊王中山国を攻撃し、房子に達した。武霊王は趙軍に胡服騎射を採用して、軍事の強化を図った。

哲学[編集]

誕生[編集]

死去[編集]