堀正平

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ほり しょうへい

堀 正平
生誕 1888年12月2日
大分県別府市
死没 (1963-12-27) 1963年12月27日(75歳没)
広島県呉市
国籍 日本の旗 日本
出身校 大日本武徳会武術教員養成所
肩書き 剣道範士大日本武徳会
剣道九段全日本剣道連盟
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堀 正平(ほり しょうへい、1888年明治21年)12月2日[注 1] - 1963年昭和38年)12月27日[1])は、日本剣道家段位範士九段。

大日本武徳会武術教員養成所卒業。著書『大日本剣道史』は剣道史研究の名著として知られる。また、吉川英治の小説で宮本武蔵が注目される以前に『宮本吉岡決闘之地』の石碑を私費で建立した。

経歴[編集]

少年期[編集]

大分県別府に生まれる。父・堀政太郎は江戸時代には楊心流柔術の師範であったが、維新後は駄菓子屋を営んでいた。1894年(明治27年)、熊本県阿蘇郡小国村に移住し、12歳から父より剣術を学ぶ。1903年(明治36年)、旧中津藩士・丸山伝八より神一刀流剣術を学ぶ。

大日本武徳会入所[編集]

1905年(明治38年)、父と死別。剣術家を志し、京都大日本武徳会本部剣術部の講習生となる。1906年(明治39年)、大日本武徳会武術教員養成所に入所。持田盛二大島治喜太と並び「三勇士」と謳われる。1907年(明治40年)、西日本各地を廻る武者修行の旅に出る。1908年(明治41年)、武術教員養成所を卒業する。

剣道指導と武者修行の旅[編集]

その後、宮崎県立延岡中学校の剣道教師となる。1910年(明治43年)、武者修行の旅に出て、北陸地方関東地方を廻る。1912年大正元年)、石川県に移り、第四高等学校金沢医学専門学校の剣道師範、武徳会石川支部教師となる。1914年(大正2年)5月、佐々木翁と結婚。1914年(大正3年)、武者修行の旅に出る。

1915年(大正4年)、教職を辞し、南禅寺僧堂に入り参禅する。1921年(大正10年)、武者修行の旅に出て、有信館明信館水戸東武館北辰堂などを巡る。同年、妻・佐々木翁、死去。

1927年(昭和2年)、海軍呉鎮守府の剣道師範となり、呉海兵団海軍兵学校横須賀海軍砲術学校でも剣道を指導する。1932年(昭和7年)、最後の武者修行の旅に出る。島根県鳥取県岡山県を廻る。

1936年(昭和11年)、広島県呉市道場「剣道考古館」を開く。

1944年(昭和19年)、武徳会居合制定委員となる。

1945年(昭和20年)7月、空襲により自宅と道場を焼失。

天覧試合出場記録[編集]

1929年(昭和4年)、御大礼記念天覧武道大会に指定選士として出場。檜山義質宮崎茂三郎志賀矩を破るが、準々決勝植田平太郎に敗れる。堀はこれまで、古流の斬る剣術とスピードと技巧を中心にする現代剣道の狭間に立って悩んでいたが、この頃から新たな境地が開けたという。

1940年(昭和15年)、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会に指定選士として出場。加藤七左衛門浅子治郎森末弘雅を破るが、準々決勝で津崎兼敬に敗れる。

戦後[編集]

太平洋戦争終戦後、C級戦犯指定を受け、公職追放される。

1952年(昭和27年)、公職追放を解除される。

1963年(昭和38年)12月27日、呉市の自宅で死去。京都市左京区の墓地に葬られる。

段位称号[編集]

人物・エピソード[編集]

宮本吉岡決闘之地

京都市左京区一乗寺下り松に、『宮本吉岡決闘之地』とする石碑があるが、これは堀が1921年(大正10年)に私費で建てたものである。吉川英治の小説『宮本武蔵』が書かれる前のことで、村の人たちはこの碑を建てることに疑問を抱いていたという[2]

当初は寂しい村で訪れる者も少なかったが、吉川英治の新聞連載や、1942年(昭和17年)の片岡千恵蔵主演映画『宮本武蔵・一乗寺決闘』で宮本武蔵が有名になってからは、村人も観光に熱心になり、「武蔵饅頭」などという土産も売られる名所となった[3]

著書[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『剣道事典 技術と文化の歴史』367頁では12月20日。

出典[編集]

  1. ^ 『剣道事典 技術と文化の歴史』367頁。
  2. ^ 稲垣浩『日本映画の若き日々』、毎日新聞社
  3. ^ 稲垣浩『ひげとちょんまげ』、毎日新聞社刊

参考文献[編集]