喜多源逸

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喜多 源逸(きた げんいつ、1883年明治16年)4月8日 - 1952年昭和27年)5月21日)は、日本の工業化学者である[1][2]

経歴・人物[編集]

奈良県の生まれ[2][3]。京都市の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)卒業後、上京し東京帝国大学工科大学(現在の東京大学大学院工学系研究科・工学部)応用化学科に入学する[2][3]1906年(明治39年)に同大学を卒業後は[2][3]、翌1907年(明治40年)に同大学の講師を経て1908年(明治41年)には同大学の助教授に昇格した[1][2]1916年大正5年)に京都帝国大学(現在の京都大学)に転勤し[2][3]、同大学の理工科大学(現在の京都大学大学院工学研究科・工学部)の助教授として活動し後に研究のため欧米に留学する[2][3]。その後帰国し1922年(大正11年)から1943年(昭和18年)に定年により退官するまで同大学の教授として活動した[1][2]

同大学に勤務中は教鞭を執る傍ら油脂化学繊維[1][2]燃料[1][2]ゴム等の多くの資源の研究に携わり[1][2]、特にビスコースに関係する研究や強力人造繊維製造法[2]、人造石油製造法[2]アセチレンからの合成ゴム製造に関する研究に携わったことで一躍名を馳せ[2]農学博士を取得や1939年(昭和14年)には日本化学会会長を務めた[3]。また1930年(昭和5年)には京都大学化学研究所の所長も務め[2][3]、後に理化学研究所の研究員としても活動した[2]。定年退官後は浪速大学(現在の大阪府立大学)の初代学長や1949年(昭和24年)には再度日本化学会会長を務め[2][4]、晩年は京都大学燃料化学科の開設や日本化学繊維研究所の創立にも携わり日本学士院の会員ともなった[3][4]

親族[編集]

妻の喜多襄(きた じょう、1883年9月、奈良県生まれ)はヴァイオリニスト、音楽教師。前田喜久蔵の妹[5]1901年(明治34年)に東京音楽学校本科専修部を卒業し[6]、同校助教授を務めた[7]

著書[編集]

  • 『油脂化学及試験法』(1932年
  • 『最近工業薬品製造法』(1916年)
  • 『有機製造工業化学』(1913年)- 田中芳雄との共著[2]

関連書籍[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 喜多源逸”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社). 2024年2月4日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 喜多源逸”. 日本大百科全書(小学館). 2024年2月4日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 喜多 源逸”. 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ). 2024年2月4日閲覧。
  4. ^ a b 喜多源逸”. 精選版 日本国語大辞典. 2024年2月4日閲覧。
  5. ^ 人事興信所 編「喜多源逸」『人事興信録』 上(15版)、人事興信所、1948年、キ11頁。NDLJP:2997934https://dl.ndl.go.jp/pid/2997934/1/186 
  6. ^ 大蔵省印刷局 編「東京音楽学校卒業證書授与式」『官報』5405号、日本マイクロ写真、1901年7月10日、185-186頁。NDLJP:2948704https://dl.ndl.go.jp/pid/2948704/1/5 
  7. ^ 東京音楽学校 編「第8 職員」『東京音楽学校一覧 従大正5年至大正6年』東京音楽学校、1916年、63頁。NDLJP:941208https://dl.ndl.go.jp/pid/941208/1/36 

外部リンク[編集]