和智恒蔵

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和智 恒蔵
生誕 1900年7月24日
死没 (1990-02-02) 1990年2月2日(89歳没)
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
最終階級 海軍大佐
除隊後
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和智 恒蔵(わち つねぞう、旧姓・大野、1900年7月24日 - 1990年2月2日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍大佐で、硫黄島では海軍警備隊司令を務めた。二男三女の父。僧名は恒阿弥。

経歴[編集]

和智熊太の養子となる。横須賀中学を経て、1922年6月、海軍兵学校50期)を卒業。海軍大学校選科学生の時に、東京外国語学校にてスペイン語を学んだ。この学生時代の休暇中に陸軍騎兵第一連隊付になり、馬術を修める[1]1931年1932年の二度、海軍通信学校高等科学生として学ぶ。「大泊」航海長、「那珂」通信長などを歴任。1934年11月、第三艦隊付となり上海に駐在して特務機関に勤務。その後は、東京無線電信所付兼軍令部出仕(大和田傍受所長)、東京通信隊分隊長兼軍令部出仕、練習艦隊参謀などを務める。1940年11月には、メキシコ公使館付海軍武官補佐官になり、L機関長として、諜報活動を行った。

太平洋戦争開戦後の1942年ニューヨークに呼び集められ、8月に第1回交換船として用意されたスウェーデン船籍「グリップスホルム」で野村吉三郎と共にニューヨーク港を出て、南アフリカ南東海岸のポルトガル領ロレンソ・マルケス港で、「浅間丸」に乗り換え、昭南市(シンガポール)に上陸した後、空路で帰国した。

帰国後は軍令部第4部第9課員として各地の司令部を回って、アメリカの情勢を解説した。硫黄島警備隊司令を拝命し、1944年3月に同島に赴して、海軍中佐として1362名の部下を持つ。大佐に昇進するが、作戦について口論したことが原因で、1944年10月15日付けで横須賀鎮守府付として内地に転属になる。帰国後、熱海での休養の後、1944年12月、南西方面艦隊司令部付となり、フィリピン大使館武官を経て、1945年2月15日に海軍水雷学校教官として長崎県川棚に赴任する。同年3月より第5特攻戦隊第32突撃隊司令に転任して、鹿児島本土決戦に備える。終戦を迎えると残務整理にあたる。鹿児島に駐留したアメリカ海兵隊第8連隊第1大隊の隊長に硫黄島への渡航の許可を申し出た。

1946年4月25日から9月まで巣鴨プリズンに拘禁された。戦争から生還したことに責任を感じて出家し、天台宗の僧侶になる。硫黄島協会を設立して、慰霊と遺骨収集に生涯を捧げた。

親族[編集]

  • 兄 大野太熊(海軍中佐)

出典[編集]

  1. ^ 『硫黄島いまだ玉砕せず』(文春文庫)p.36

参考文献[編集]

外部リンク[編集]