全日空松山沖墜落事故
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![]() 同型機のYS-11 | |
出来事の概要 | |
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日付 | 1966年11月13日 |
概要 | 原因不明 |
現場 |
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乗客数 | 45 |
乗員数 | 5 |
負傷者数 | 0 |
死者数 | 50 (全員) |
生存者数 | 0 |
機種 | 日本航空機製造・YS-11 |
運用者 |
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機体記号 | JA8658 |
出発地 |
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目的地 |
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全日空松山沖墜落事故(ぜんにっくうまつやまおきついらくじこ)は、1966年(昭和41年)11月13日に発生した全日本空輸が運航する国産旅客機YS-11による墜落死亡事故(航空事故)である。
1966年には日本国内において旅客機の墜落事故が多発しており、この年5回目の事故であった。また全日空にとってもこの年2回目の墜落事故でもあった。当時の運輸省による事故調査委員会は本件に関する究明調査を行ったが、最終的に事故原因の特定に至らなかった。
事故の概要[編集]
1966年11月13日、大阪国際空港発松山空港行き全日空533便として運航されていた日本航空機製造YS-11(機体記号:JA8658)は、松山空港へ陸側から着陸しようとした。当日は雲が低く垂れ込めていた上に霧雨が降っていた状況で、視界も含め天候が良くなかった。その上当該機は、当日のダイヤが乱れていた事で松山空港の当時の運用終了時間である午後8時を過ぎてしまった。このため、松山空港滑走路の照明が再点灯されるのを待つために、広島県の呉市上空から向かわずに山口県の岩国市上空を経由して、時間稼ぎをしたために少し遠回りしていた。
午後8時28分になり着陸したが、滑走路1,200mの半ば(滑走路端から460m地点)付近に接地してオーバーランの危険が生じたために、着陸をやり直す着陸復行を行った。ところが、フラップと主脚を格納した533便の上昇は通常より鈍く高度230~330ftまで上昇した後、降下に転じ左旋回の姿勢のまま松山空港沖2.2kmの伊予灘(瀬戸内海)に墜落した。この事故で、運航乗務員2名・客室乗務員3名・乗客45名の計50人全員が犠牲となった。機体は海面激突時の衝撃により粉砕された状態であった。
事故機は製造番号2023号機(通算23番機)で、この年の5月6日に初飛行し、5月28日に全日空に引き渡された機体で事故までの飛行回数1076回・飛行時間1068時間25分であり、約半年で墜落したことから航空会社に引き渡されたYS-11としては最も短命であった。
事故調査[編集]
当時は旅客機にブラックボックス(コックピットボイスレコーダーとフライトデータレコーダー)を搭載していなかったこともあり、事故調査委員会は墜落原因を特定することが出来なかった。調査報告書は、速度計の誤読あるいは故障等の推測原因を検討した上で、パイロットのミスを示唆している。当初、松山便ではフォッカー F27「フレンドシップ」を使用する予定だったが、機体のやりくりが付かずに予約客も多かったために大型のYS-11へ機体が変更されていた。その結果、事故機の機長は当初の予定に入っていなかった運行の為に過労気味であったとされ、そのために着陸復航を余儀なくされたというものである。また機械の構造欠陥や故障が発生した痕跡が発見されず、操縦席の風防に着いた水滴もしくは計器の誤読のために操縦ミスをした可能性も指摘されたが、これは操作手順に幾分遅れがあったためである。事故原因については様々な憶測が出たものの、最終的な判断は出せなかった。
事故機の機体の95%が回収され、この事故調査では様々な面で検証が行われた。機長の操縦席に副操縦士の鼻毛が付着していたため、副操縦士が機長席に座っていた疑惑があったが、大阪で機長が機長席に座っていたことを整備士が目撃していたことから、墜落時の衝撃で副操縦士の顔面が機長席の計器に激突したものと断定された。また運航乗務員の遺体の血液からアルコール反応があったために飲酒していた疑惑もあったが、後に条件さえ揃えば死亡後血液がアルコール発酵することが科学的に証明されたため、この飲酒疑惑は無いと判断された。
柳田邦男によれば、航空局の楢林壽一主席飛行審査官は、片方のプロペラ(イギリス・ダウティ・ロートル社製)がエンジン本体から大きく離れた所で発見されており、事故機のエンジンの一つが停止もしくはプロペラが破損脱落したために、上昇姿勢が維持出来なくなり墜落したと主張したが、採用されなかったという[1]。
事故の影響[編集]
事故の発生した1965年(昭和40年)前後には、関西圏の新婚旅行先として松山の道後温泉が選ばれることが多く、また当日は日曜日で大安吉日でもあり、新婚旅行に向かうカップルが12組(24名)と犠牲者の半数近くにのぼっていた。このことは世間に強い衝撃を与えた。そのうえいずれのカップルも婚姻届の提出を済ませておらず法的には夫婦ではなかったため、航空会社と遺族との損害賠償交渉が難航した。これを受けて法務省は、婚姻届を早期に提出するように励行する広報を出した。また犠牲者の中には海流に流されて遺体が発見されなかった者が少なくなかったため、付近の海域で取れた海産物に風評被害が生じて一時期売れ行きが悪かったという。なお、本事故の犠牲者を悼む慰霊碑が松山市の正宗寺に建立されている[2]。
事故を契機に松山空港を始めとする地方空港の滑走路の拡張・拡幅工事が進められることになり、松山空港も現在では海面を埋め立てるなどして滑走路が2,500mまで延長されている[3]。この松山事故を受けた事故対策として策定・実施された地方空港拡張事業が、図らずも地方空港のジェット機による旅客便発着を可能とする効果をもたらすことともなった。
また1年に2度の全員死亡事故を起こした全日本空輸は乗客からの信頼を完全に喪失し経営困難に陥り、責任を取る形で社長の岡崎嘉平太は翌1967年に社長を辞任、フラッグキャリアの日本航空から社長以下大量の人員と株主第2位に至るまでの莫大な金銭的な支援を受けて、1970年代に至るまで日本航空と運輸省の下で経営再建を受けることになった[4]。
二重遭難事故[編集]
事故から2日後の11月15日、各方面のヘリコプターが遺体捜索を行っていたが、松山空港北方の愛媛県北条市(現在は松山市)粟井沖において大阪府警のヘリコプター"あおぞら一号”(ベル47G2型機、機体記号JA7062)と全日空のヘリコプター(ベル47D1型機、JA7012)が正面衝突し、双方の操縦士ら4名も犠牲になった[5][6]。双方とも捜索に集中するあまり気付くのが遅れたと見られている。なお警察機関が導入したヘリコプターで初めての事故喪失であった。
備考[編集]
- 533便は欠番扱いにはならず、2023年2月現在は羽田空港-高松空港線において使用されている[7]。
- 2023年8月現在、全日空機が起こした最後の単独死亡事故である。
- 死亡した乗客への補償額は、1人当たり800万円と国内航空会社の事故では過去最高額となった[8]。
1966年(昭和41年)の五連続事故[編集]
日本では1966年(昭和41年)に5件の航空事故が発生した。本事故は5件目であった。
- 全日空羽田沖墜落事故 - 東京湾羽田沖、2月4日。
- カナダ太平洋航空機墜落事故 - 羽田空港、3月4日。
- BOAC機墜落事故 - 富士山麓、3月5日。
- 日本航空羽田空港墜落事故 - 羽田空港、8月26日。
- 全日空松山沖墜落事故 - 松山沖、11月13日。
出典[編集]
- ^ 柳田邦男、1987、『続・マッハの恐怖』、新潮社
- ^ “四国見聞録 松山市・全日空機墜落事故から50年 今も「原因不明」のまま 犠牲者・遺族の無念忘れず「空の安全」を/四国”. デジタル毎日. 毎日新聞社. (2016年12月8日) 2018年2月8日閲覧。
- ^ 『松山空港エコエアポート協議会「松山空港周辺環境計画」』(PDF)(プレスリリース)国土交通省 。2018年5月11日閲覧。
- ^ 立花隆『田中角栄研究―全記録』 上下、講談社〈講談社文庫〉、186頁。
- ^ 毎日新聞 1966年11月15日朝刊
- ^ 第52回国会 衆議院 運輸委員会 第5号国会会議録検索システム、2016年10月11日閲覧。
- ^ “Flight history for All Nippon Airways flight NH533” (英語). Flightradar24. 2023年2月18日閲覧。
- ^ 「遭難者補償 上積み額が問題」『中國新聞』昭和46年7月5日15面
参考文献[編集]
事故調査報告書[編集]
- 「全日本空輸株式会社,日本航空機製造式YS-11型,JA8658」『日本航空学会誌』第18巻第196号、日本航空学会、1970年、196-206頁。
書籍[編集]
- 特定非営利活動法人災害情報センター編『鉄道・航空機事故全史』 日外選書Fontana シリーズ 2007年
- 柳田邦男「続・マッハの恐怖」新潮社 1987年
- デイビット・ゲロー 著、清水保俊 訳『航空事故―人類は航空事故から何を学んできたか?』イカロス出版、1997年5月1日。ISBN 9784871490993。