保坂祐二

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保坂 祐二(호사카 유지、ほさか ゆうじ、1956年 - )は、1988年より韓国に在住、2003年韓国帰化した日系韓国人である。現在は世宗大学校教授であり、日本の朝鮮満州台湾に対する支配政策研究、竹島領有権問題分析、日韓文化比較研究が専門。

経歴[編集]

  • 1956年東京に生まれる。
  • 東京大学 工学部在籍中に『明成皇后殺害事件』(乙未事変)に関する内容に触れ、卒業後、なぜ日本は韓国を併合したのかという疑問を解決するため、韓国に留学。
  • 高麗大学校政治外交学科3学年に編入学し1年間修学。その後、高麗大学校大学院政治外交学科修士、博士課程を経て、政治学博士号を取得。
  • 1998年から世宗大学校の教員となる。(2014年現在は教養学部正教授<政治学専攻)
  • 2003年に韓国に帰化したが、その後も名前は日本式を使用している。
  • 2004年8月15日、韓国在住の日本人や日系韓国人としては初めて、ソウルの中心部に位置したボシン閣で、33回の打鐘に招待される。
  • 2005年12月25日、「韓国外交通産部長官賞」受賞。
  • 2007年8月21日、「世宗大学優秀教授特別賞」受賞。
  • 2008年12月、世宗大学校付設独島総合研究所の所長として就任。
  • 2009年9月、著書『我が歴史独島』が韓国刊行物倫理委員会により<9月の、読む価値のある本>歴史部門に選定される。
  • 2013年2月、韓国政府が独島領有権の研究と広報に対する功労を認定し、紅條勤政勲章を授与[1]
  • 2014年9月、世宗大学の正教授となる。
  • 2015年2月、日本国出身者としては史上初めて、韓国独立記念館理事(任期2年)に選出される。

⋆ 2015年8月、ラスク書簡に関するSSCI論文などが評価され、世宗大学から2度目の「優秀教授賞」が授与された。

  • その他の活動として、韓国日本言語文化学会副会長、大韓弁護士協会諮問委員、東北アジア歴史財団諮問委員、韓国外交部独島対策委員会諮問委員(以上、歴任)、東アジア平和研究所常任理事、韓国国会図書館諮問委員、韓国国会図書館広報大使、海洋博物館広報大使、東アジア平和学会会長、「祖国愛、独島愛」オーストラリア連合会顧問、世宗大学独島総合研究所所長、「獨島と東アジア(www.dokdoandeastasia.com)」サイト運営者(以上、現職)、など。

研究と主張[編集]

高麗大学校大学院では、福澤諭吉朝鮮開化派の相互関係研究、日本の植民地時代の朝鮮満州台湾に対する支配政策(特に、同化政策)を専攻した。日本の歴史認識を批判する発言が多い。

著書『日本に絶対やられるな』の序文において、「私は(中略)日本を愛していることを先ず述べておきたい。(中略)過去を正しく反省できなければ正しい未来など訪れるはずがない、という信念で日韓関係において過去は現在に通じ(中略)、(日韓の過去を研究する)ということは本人のアイデンティティーを見つける道でもある。」などと述べ、単純に自らを反日とする見方に異論を唱え、日本における良心的勢力進歩的知識人と同じような立場であるとしている。

侍文化と士(ソンビ)文化の研究[編集]

彼によれば

と、孫子の兵法、朱子学、さらに洋学国学が混合していく過程を文化の変遷として捉え、さらに明治期に侵略主義が台頭する背景に関して研究を進めている。韓国に関しては、儒者 ソンビの精神が朝鮮史を牽引した原動力と言う立場で研究を進めている。

吉田松陰研究[編集]

保坂は松陰が、兵学の思考方式を土台にして洋学水戸学国学などを吸収して行ったとし、朝鮮に対しては侵略主義者であったと主張している。(松浦武四郎も参照)松陰の弟子の一人であった木戸孝允は「竹島は(鬱陵島)日本の領土」と主張し、竹島(鬱陵島)開拓論を江戸幕府に建議して拒絶されている。保坂によれば長州藩では松陰や木戸孝允の影響で、鬱陵島を日本の領土ないし日本の領土にできる島々と考えていたため、長州藩閥が多く登用された明治政府内には外務省を中心にして、元禄時代の江戸幕府と朝鮮との交渉(竹島一件)を無視した形で鬱陵島に対する侵奪の意図が露骨に表れたと保坂は主張している。もともと保坂は元禄時代の江戸幕府が竹島一件において竹島(鬱陵島)と松島(独島)を一対として同時に放棄したと主張しており、明治政府は太政官の廃止(1885)以後に現在の竹島(独島)を侵奪する方向に動いたとしている。

福澤諭吉と朝鮮開化派研究[編集]

保坂は福澤諭吉文明開化論を分析し、内的開化論と外的開化論に区別している。内的開化論とは、日本人の知的レベルの上昇にその目的を置いたものであり、一方、外的開化論とは、内的開化を促進するための外的条件物であり、インフラ整備や産業興隆を国民に見せることによって人心を一新するというものである。この内外の開化論の目的は日本人の愛国心を向上させて外敵から国を守ることであると福澤は考え、これを朝鮮にも適用し、福澤の文明開化論が朝鮮の金玉均らを中心とする急進的開化派の開化路線の骨子となったと保坂は主張している。

日本帝国主義の同化政策研究[編集]

日本帝国主義朝鮮満州台湾への同化政策を、教育政策、同化理念、創氏改名、雑居政策、法的同化政策などに分けて研究している。アジア・太平洋戦争に関しては、今でもよく主張される白人支配からのアジア解放戦争という観点を批判し、戦争の目的(大東亜共栄圏の建設)はあくまでもアジア人の「皇化」にあったとする。そのモデルは満州で、満州国は初めは中国の王道主義を尊重して国家の理念としたが、次第に皇道主義の優秀性を説き、天照大神を祭る中心神社を建設し、最終的には天皇中心主義の国体を導入して日本の完全な支配下に置くことが日本帝国主義の目的であったと主張する。インドネシアなどは白人から民族を解放し民族主権を打ち立てたところで戦争が終結したが、戦争が長引いていれば満州と同じに皇道主義を注入したであろうと見る。朝鮮に対しては、日本国内で施行された30-50年前の法律を施行して常に内地との法的差別を置くことを通して、差別的統治を実行していたと主張する。同化政策の本質は差別固定的同化であったと主張している。

竹島問題研究[編集]

竹島問題に関しては、一貫して日本の主張を批判しており、竹島(韓国名:独島)は韓国領であるという立場をとっている。日本側が韓国側の主張の多くの部分を歪曲、または完全に隠蔽し、また日本側の竹島に関する領有権主張は表面的な事実を真実のように情報統制しているものであり、公開されない史料や真実があまりに多いと主張している。その代表的な例が1877年の太政官指令文の隠蔽と意図的な誤読、曲解であると主張する。特に同じ竹島問題の研究者である下條正男 拓殖大学教授(竹島問題研究所座長)が客観性を失っているとして、彼の主張を独自の根拠を挙げて批判している。例えば、下條が太政官指令文の中の「竹島外一島」をアルゴノートとダジュレーと主張していることに関して、保坂は太政官が竹島と松島をアルゴノートとダジュレーと見なしたという根拠は一切なく、指令文の内容や付図である<磯竹島略図>に示された竹島と松島は明確に鬱陵島と現在の竹島(独島)であるとして、下條が歴史的事実を意図的に隠蔽・誤読していると論文で主張している[2]。2011年、韓国人歌手キム・ジャンフンと独島を紹介するウェブサイト「TRUTH of DOKDO」(独島の真実)を開設した[3]。さらに2014年2月に保坂は新しいサイトである「独島と東アジア」を開設した。このサイトは、独島問題だけでなく慰安婦、靖国神社、憲法改正、集団的自衛権、その他についても記事、資料などを公開している[4]

竹島と松島の関係研究[編集]

  • 江戸幕府元禄時代に竹島(現在の鬱陵島)を放棄した事(竹島一件)について、日本では竹島(鬱陵島)と松島(現在の竹島)を一体と見なして朝鮮領としたとする資料はどこにもないとしているが、保坂は、江戸幕府が松島を「竹島之内松島」などと記載した公文書を発行していることや、1696年1月25日に鳥取藩が「松島は自国領でなくどこの藩の領地でもない」とする文書を幕府に送ったことを受けて、三日後に「竹島渡海禁止令」を下した事実、また松島への渡海免許は初めから存在しなかったと言う研究結果(2006、池内敏)などにより、江戸幕府は竹島と松島を一体と捉え朝鮮領としたとしている。「松島渡海免許」が存在しないため幕府は「松島渡海禁止令」を出す必要はなく、「竹島渡海免許」を否定する「竹島渡海禁止令」を出すだけで松島への渡海を同時に禁止したと見るのが妥当だと主張する。幕府は、「松島は竹島への渡海の途中にある島」という鳥取藩の返答を念頭においてそのように判断したと保坂は主張している。
  • また、1870年の「朝鮮国交際始末内探書」(外交資料館所蔵)と1877年作成の『公文録』「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」と『太政類典』「日本海内竹島外一島ヲ版図外ト定ム」(共に国立公文書館所蔵)という公文書には、元禄時代、つまり17世紀の末に竹島(鬱陵島)と松島(独島)は朝鮮の附属になり日本領土外となったと明確に記載され、竹島一件の時に独島がすでに朝鮮領になったことを明らかにしている。ここでいう「外一島」は『公文録』「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」付図の「磯竹島略図」で明確に松島(独島)であることが分かる[5]
  • 保坂は、日本の古地図においても長久保赤水の地図(1779)をはじめとして、常に竹島と松島は一対で描かれているとし、全ての日本人制作の地図で2島はいつも無色または同じ色で塗られているという事実があるとしている。さらに松島(現在の竹島)は松どころか樹木のない石の島であると主張。それにもかかわらず松島と呼ばれたのは、竹島(鬱陵島)の「竹」に対する相対的名称使用であり、このような名称使用も日本人が竹島と松島を一対(一体)と見ていた証拠であると彼は主張している。

林子平の地図と領有権研究[編集]

三国通覧輿地路程全図の竹嶋部分
  • 1785年に林子平が制作した「三国接壌之図(三国通覧輿地路程全図)」には当時の竹島(鬱陵島)とその横にある小島が朝鮮領土と記入されている。保坂は、林子平が地図を作成する際に長久保赤水改正日本輿地路程全図(1779)を元にしたとし[6]、子平の地図に記載された竹島(鬱陵島)のすぐ右横の小島は赤水の地図に記載された松島であり、子平の地図はこの二島を明確に朝鮮領土としているとしている[7]。これに対し、日本側は竹島(鬱陵島)のすぐ北東の小島を、位置的に鬱陵島から北東2kmにあるチュクソ島と主張しているが、当時、子平がチュクソ島まで認識していたという証拠は提示されておらず、日本側の推測に過ぎないと、彼は反駁している。
  • 2008年5月、「この地図は1854年に江戸幕府小笠原群島の領有権をアメリカと争ったときに使用された日本の公式地図である」と言う論文を発表した。『三国接壌之図(三国通覧輿地路程全図)』は、1854年に江戸幕府が小笠原群島の領有権をアメリカと争ったときに日本が公式の場で使用した地図であるが、島根県の竹島問題研究会が発表した最終報告書に「林子平の地図は領有権とは関係がない」とされていることに対して、竹島問題研究会は不勉強だとしている[8][9]

太政官指令文研究[編集]

  • 1877年太政官指令により「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」と決定し、太政類典第二編には「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」としていることに関し、太政官指令文の外一島に関する内容を分析した。太政類典の中では「竹島」について現在の鬱陵島の地勢に似た内容が書かれ、「松島」については周囲が約30(約3.3km)で竹や樹木が無く、魚と獣(アシカ)が取れるとしている。彼はこの点を上げ、この文書の中の「外一島」とは松島、すなわち現在の竹島(独島)であり、太政官が現在の竹島(独島)を朝鮮領土と認定したと主張する。さらに太政類典には、「松島」は「隠岐から竹島(鬱陵島)に行くとき、同一航路上にあり、隠岐から約80(地上の距離では約320km、しかし、後述のように彼は当時海上の距離としての里は現在の海里に近かったとしている)の距離である」と記されている文章を指摘しながら、17世紀以来日本人たちは多くの文書で隠岐と松島の距離を約70-80里と記してきたという文献的事実と、里を海里と理解した場合、80里は約148kmとなり実際の隠岐~竹島(独島)間の距離157kmに近くなることなどを指摘しながら、距離的にも「外一島(松島)」は現在の竹島(独島)であると主張する。(明治政府は1872年の時点で水路部により海上の1里を正確な1海里(=1.852km)とすることを決定しているが、保坂はその後の1877年のこの公的指令文の里も海里(浬)と解している。1905年1月28日に古来の松島を竹島と命名して島根県に編入することを決定した閣議決定文書には、隠岐と現在の竹島の距離を85浬<海里>と正確に書いている。)[10] 保坂は、太政官指令文の「外一島」が現在の竹島(独島)であることは、指令文に添付された地図である「磯竹島略図」が金沢教会の漆崎牧師によって発見・公開され、より明確になったとしている。(指令文添付の「磯竹島略図」は国立公文書館に保存されているもので、以前より研究者のネットで公開されている。)

鬱陵島と独島の名称変遷研究[編集]

  • 1882年に、鬱陵島検察使に任命された李奎遠が当時の韓国王高宗と対話した際、高宗は鬱陵島の側に于山島、松竹島などがあると指摘した。しかし李奎遠はこれに対し「于山島とは鬱陵島のこと」と答えたので、高宗は李奎遠の意見をいったん受け入れ「于山島、竹島(チュクド)、松島を総称して鬱陵島と言うのだ」と整理し直した。つまりこの時「于山島とはのいう松島である」というそれまでの朝鮮の島名の認識に変化が起きたと保坂は見ている。(保坂は、この松島は現在の竹島であり、当時日本で呼ばれていた松島が現在の竹島であることを高宗は朝鮮の文献を通して知ったとしている。)そして1900年、結果的に大韓帝国は松島という日本名を捨て、鬱陵島の住民たちが現在の竹島に使っていたとする「ドクソム」という言葉を韓国王朝だけでしか使われていない「石島」として鬱島郡に編入したとしている。1882年の移住以来、住民たちは「ドクソム」の音を用いた「独島」という名称を充てて使っていたため独島という名称が定着、鬱島郡守の深興澤が1906年に住民の呼び名である「独島」という名称を用いて議定府に報告したとき議定府でも独島を現在の竹島と認識したことから、「石島」=「独島」という認識は当時の大韓帝国では一般的なものであったとし、現在の竹島の名称が韓国で于山島からトクソム(ドクソム)、つまり訓で石島、音で独島に変化した経緯を彼なりに説明している[11]
    石島とは、石の島という韓国語のトルソム(ドルソム)、その方言のトクソム(ドクソム)、これを音読して、漢字を充て「独島(ドクド)」としたものであるという説(植民地時代の言語学者小倉進平の研究、シン・ヨンハ教授の研究など)を彼は支持している。また彼は独島は「独立した島」の意味ではなく「孤独な島」という意味としている。
  • 1900年10月25日の大韓帝国勅令41号において韓国政府は鬱陵島を中心にした鬱島郡を制定し、その管轄範囲を鬱陵島、チュクト、石島としたが、彼は上記の理由から石島とは独島(現在の竹島)であると主張する。彼は、鬱陵島近傍の「観音島」が島項、またはカクセ島(この名称は現在でも使用されている)という名称を持っており、この島を石島とした事実が無いこと、さらに鬱陵島に隣接している観音島は観音崎とも呼ばれ[12]、島とは見なされないこともあったという事実などから、石島とは現在の竹島(独島)であるとしている。日本の一部の学者たちは、観音島の名称が三つあって鬱陵島同様紛らわしいため、石でできた観音島を勅令では石島としたのではないかとしているが、保坂は鬱陵島のように、観音島も現実にある名前の中から一つを選ぶのが常識であるとして、日本の一部の主張は論理的に破綻しているとしている。

日本・朝鮮地図、ラスク書簡、日韓基本条約、その他[編集]

  • 2005年4月、『日本の古地図にも独島はない』(子音と母音)を韓国で出版し、竹島の記載されていない日本の古地図や竹島を日本の版図外とした太政官指令文などを公開した。竹島研究には、民族主義的感情を排除した、客観的な資料発掘が重要であるとしている。
  • 2006年10月、日本人制作による古地図の写本2点を公開した。1点は1882年制作の『朝鮮國全圖』(註:この地図に描かれた竹島と松島は、川上健三がその著書(1966)で鬱陵島と現在の竹島(独島)であることを認めている。)、もう1点は1883年に制作の『大日本全圖』。松島が『朝鮮國全圖』に記され、『大日本全圖』には記されていないことから、日本はこの時、松島が朝鮮国の一部である事を認めていたとし、同月、鬱陵島の独島博物館を訪問し、この2つの地図の写本を寄贈している[13]
  • 2008年2月22日、日本人制作の『新撰朝鮮国全図』(1894)(註:この地図は前述の『朝鮮國全圖』に彩色しただけの地図である。)と、『朝鮮変乱詳細地図』(1894)を公開した。2点とも、現在の鬱陵島と竹島が韓国本土と同じ色で塗られ、日本列島とは領土的に区別されていることを指摘した[14][15][16]
  • 現在、彼の所属する世宗大学に「歴史と韓国の領土」という科目を自ら開設し、1学期間にわたって竹島領有問題に関する日本側主張と韓国側主張を比較しながら講義している。韓国の公的機関や、各種団体の講演会に講師として招請される機会が多く、またさまざまな機会に、マスコミなどによって日韓関係、竹島領有権問題についての意見を求められることが多い。彼の所属する大学だけでなく、他大学の学生たちもしばしば彼の研究室を訪れ、竹島問題や日韓関係に関する彼の意見を聞いているという。
  • 彼は2008年7月の竹島に関するアメリカの地名委員会による表記に関わる騒動について、「日本は静かに、しかし執拗に米国(政府)側の核心人物に対するロビー活動を続けてきたが、韓国はそうでなかった」、韓国はただ「<独島は韓国が実効支配している地域であり、それをよく分かってほしい>という水準にとどまっていた」と述べている。また、「日本は‘竹島は日本固有の領土’と主張しているが、‘中立的領土’と表記され、当惑し」、「それで(日本の)主要日刊紙が報道を2-3日ほど先に延ばした」と主張している[17]
  • 保坂は、韓国漫画家協会の要請により、韓国の代表的な漫画家であるイヒョンセと共に、<独島への愛>というマンガを原作者として5日にわたって連載した。掲載は2008年10月20日から24日まで行なわれ、朝鮮日報の文化面のトップ記事として載せられた[18][19][20][21][22]
  • 2009年2月23日、保坂は、于山島に峰が描かれた朝鮮時代の古地図2点を公開。彼はこのような地図によって于山島が鬱陵島の東2kmに位置する峰のないチュクトではなく確実に独島であり、韓国が朝鮮時代にも独島に対する領有意識を明確に持っていたことが証明されるとした[23]
  • 2012年、保坂は、1965年の日韓基本条約と同日に締結した『日本国と大韓民国との間の紛争の解決に関する交換公文』に、「両国政府は別に規定がある場合を除き両国間の紛争であり外交上の経路を通じて解決できない問題は両国政府が合意する第三国による調整によりその解決を図る」と規定されていると主張し、日本が1965年以後に国際司法裁判所(ICJ)に提訴することは「理にかなっていない」という見解を明らかにした[24]
  • 2012年5月、保坂は、外務省が主張する内容ー即ち1951年8月に米国はラスク書簡を在米韓国大使館に送付し、「独島は1905年以降日本の島根県隠岐島の所管であり、それ以前に韓国が独島を領有したことも、独島に対して領有権を主張した事実もない」ことを理由に挙げて、独島を事実上日本の領土であると認めたという内容に関して「ラスク書簡は、他の連合国との間で合意された内容ではなく、米国の独断により韓国政府に送られた秘密文書であるため、米国の見解とは看做されたとしても決してサンフランシスコ条約の結論には成り得ない文書」であるとし、ラスク書簡が独島を日本領土とした文書という日本側の見解は全くの事実誤認と歪曲であることを、米国の他の秘密文書を引用して証明したと主張した[25][26]
  • 鬱陵島と独島に関する日本での名称の混乱の本質は、日本が鬱陵島と独島の歴史を忘却し、独島を領有していなかった証拠と主張している。1883年から日本の海軍省水路部が発行を始めた日本政府の公式文書である『水路誌』では、独島を朝鮮東岸に所属する「リヤンコールト列岩」と紹介し、その歴史に関して幕末以前の歴史を記せず、「此列岩ハ1849年仏国船『リヤンコールト』号初テ之ヲ発見シ」と記して、独島が初めて1849年にフランス船によって発見されたと明記している。[27] これらの事実は、19世紀の中ごろには日本が幕末以前の独島の歴史に関して忘却したことを示しており、それは当時日本が独島を領有していなかった証拠であると主張している。[28]

その他[編集]

力道山大山倍達張本勲金田正一といった朝鮮半島出身、または在日朝鮮人への関心から、さらに韓国に関心を持った。力道山の弟子たちや力道山の夫人とは、現在、個人的な交流があるという。力道山の夫人、田中敬子の著書『力道山の慟哭』(2005)の韓国版を韓国で出版する際、手伝ったと言う。また力道山の第1弟子の琴音とも交流がある。

その後、日本における民族差別の問題に関心を持ったため、彼の論文には、在日朝鮮人に関するものもいくつか含まれている[29]

著書[編集]

日本と韓国向けには数冊の訳書がある。著書は韓国国内向け、英語圏向けのものである。

<著書>

  • 『日本に絶対やられるな』(2002、ダプゲ)
  • 日本帝国主義の民族同化政策分析 ~朝鮮、満州、台湾を中心に~』 (2002、J&K)
  • 『現代日本の政治と社会』(2005、メボン、共著)
  • 『日本の古地図にも独島はない』(2005、子音と母音)
  • 『Dreaming of Seventy Million Dok-do's』(2005、図書出版多層<英文>、共著)
  • 『日本の歴史を動かした女性たち』(2006、文学手帖
  • 『朝鮮の士(ソンビ)と日本の侍』(2007、キムヨンサ)
  • 『日本右翼思想の基底研究』(2007、ポゴサ、共著)
  • 『33人の叫び』(2007、独島を愛する協議会、共著)
  • 『独島領有権に対する韓日及び周辺国の認識と政策比較研究』(2007.韓国海洋水産開発院、共著)
  • 『竹島問題研究会の最終報告書批判-日本側絵図に対する批判的考察』(2008.韓国海洋水産開発院)
  • 『我が歴史独島ー韓日関係史から見た独島』(2009、冊問)
  • 『大韓民国-独島』(2010、冊問)
  • 『大韓民国-独島教科書』(2012、ヒューイノム)

<訳書>

  • 『独島・竹島、韓国の論理』(2005、論創社
  • 朝鮮戦争』(2007、論創社)
  • 『独島=竹島論争』(2008、ポゴサ)
  • 『植民地朝鮮の開発と民衆-植民地近代化論、収奪論の超克』(2008、明石書店)

脚注[編集]

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  1. ^ 独島広報の貢献者らに勲章授与 韓国政府 聯合ニュース(201年2月15日)
  2. ^ 「竹島問題研究会の<竹島問題に関する調査研究最終報告書>の問題点~太政官指令文に対する下條正男の見解を中心に~」(韓国語)(2008.1『日本文化研究』第25集、東アジア日本学会編)
  3. ^ 統合ニュース 2011/09/23 14:23 KST 歌手キム・ジャンフン、独島紹介のウェブサイト開設[1]
  4. ^ http://www.dokdoandeastasia.com 参照
  5. ^ http://www.dokdoandeastasia.com 参照
  6. ^ 韓国日語日文学会論文「林子平図と独島」<ハングル>(『日語日文学研究』第58集2巻)(2006.8)
  7. ^ 林子平が地図を作成する際に長久保赤水改正日本輿地路程全図(1779)を参考にしたということは、下條も著書『竹島は日韓どちらのものか』(2004)で記載している。
  8. ^ 日本、米国との領有権争いに独島=朝鮮領地図を使う 日本、‘独島は朝鮮領土’地図の提示で小笠原群島を獲得中央日報
  9. ^ 日本、独島=朝鮮領明記の地図、米国との領有権争いに使用 「独島=朝鮮領と明記の地図、日米領土紛争で使用」朝鮮日報
  10. ^ 精密性の要求される独島研究 (中央日報)
  11. ^ 韓国海洋水産開発院、「干山島と石島の実証的研究から見た日本の独島領有権主張」<ハングル>、『独島領有権に対する韓日及び周辺国の認識と政策比較研究』第5章(2007.12)
  12. ^ 『竹島=独島論争』(内藤正中他、2007)
  13. ^ [2] 『「独島は韓国領」…保坂祐二教授、19世紀の日本地図公開』 (朝鮮日報) 2006年10月25日
  14. ^ [3]“独島=韓国の領土”立証する日本古地図発見…保坂祐二教授 その(1) (中央日報)
  15. ^ [4]“独島=韓国の領土”立証する日本古地図発見…保坂祐二教授 その(2) (中央日報)
  16. ^ (朝鮮語)[5] 朝鮮変乱詳細地図 (京郷新聞) 2008年2月23日
  17. ^ [6] 保坂教授『米核心人物を観光させる日本のロビー活動にやられた』中央日報日本語版2008年7月30日
  18. ^ [7] 朝鮮日報2008年10月20日
  19. ^ [8] 朝鮮日報2008年10月21日
  20. ^ [9] 朝鮮日報2008年10月22日
  21. ^ [10] 朝鮮日報2008年10月23日
  22. ^ [11] 朝鮮日報2008年10月24日
  23. ^ [12] 『「于山島が独島」…19世紀の「海東輿地図」を分析』中央日報日本語版2009年2月23日
  24. ^ [13] 東大出身の保坂教授、「日本のICJ提訴は理にかなっていない」2012年08月14日08時31分 中央日報日本語版
  25. ^ [14] The Korea Times 2012年05月08日
  26. ^ [15], Yuji Hosaka, "Is the so-called ‘Rusk Letter’be a Critical Evidence of Japan’s Territorial Claim to Dokdo Island?",「Journal of Eastasia and International law」2014; Volume 7(1),145-159.
  27. ^ 『寰瀛水路誌』第2巻第4編,p.397,「朝鮮東岸及諸島」
  28. ^ 保坂祐二著『大韓民国 独島』(韓国語版)pp.110-137.
  29. ^ 「在日コリアンの法的地位」(1999、『平和研究』、高麗大学校平和研究所)、「日本の定住外国人政策」(2002、『民族研究』、教養社会)など。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]