上都路
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上都路(じょうとろ)は、中国にかつて存在した路。モンゴル帝国および大元ウルスの時代に現在の内モンゴル自治区シリンゴル盟南部及び河北省承徳市一帯に設置された。
路名はこの地に大元ウルスの夏営地たる上都開平府が設置されたことに由来する。
歴史
[編集]金代の桓州を前身とする。元来、この地方はキタイ(契丹)人の住まう地域であり、チンギス・カンの金朝侵攻が始まると真っ先に投降してその配下に入った。モンゴル高原の南限にあたる桓州一帯はモンゴルの華北侵攻の拠点とされ、華北方面軍司令官に任じられたムカリが駐蹕した。以後、桓州一帯にはムカリ率いる軍団(後に「五投下」と総称される)の遊牧地となり、特にジャライル部のムカリ家・ウルウト部のジュルチェデイ家がここを幕地とした。後にムカリの孫のスグンチャクは上都西方の「アルチャト」に本営を置いている[1]。
第4代皇帝モンケの治世に入ると、モンケの次弟クビライが東アジア方面の司令官に抜擢された。クビライは妻チャブイを通じて「五投下」の諸侯と姻戚関係にあり、五投下の勢力圏たる灤河上流のドロン・ノールに自らの本拠地を置いた。その後、モンケの死によって即位したクビライは1260年(中統元年)にドロン・ノールの本営を「開平府」と改名し、更に1264年(中統5年)には「上都」の名前を与えた。
大元ウルスの朝廷では遊牧生活に由来する季節移動が行われ、大カーンは毎年夏営地たる上都と冬営地たる大都を往復し、上都と大都をつなぐ一帯が大元ウルスの巨大な「首都圏」と位置づけられていた[2]。
朱元璋が明朝を建国すると、常遇春率いる遠征軍によって上都路は陥落し、開平衛が設置された。 [3]
管轄県
[編集]上都路には11県、6州、1府が設置されていた[4]。
1県
[編集]1府
[編集]4州
[編集]脚注
[編集]- ^ 杉山2004,137-138頁
- ^ 杉山2004,168頁
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「上都路、唐為奚・契丹地。金平契丹、置桓州。元初為札剌児部・兀魯郡王営幕地。憲宗五年、命世祖居其地、為巨鎮。明年、世祖命劉秉忠相宅於桓州東・灤水北之龍岡。中統元年、為開平府。五年、以闕庭所在、加号上都、歳一幸焉。至元二年、置留守司。五年、升上都路総管府。十八年、升上都留守司、兼行本路総管府事。戸四万一千六十二、口一十一万八千一百九十一
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「[上都路]領院一・県一・府一・州四、州領三県、府領三県・二州、州領六県。警巡院」
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「県一。開平。上」
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「府一。宣寧府、唐為武州。遼為徳州。金為宣徳州。元初為宣寧府。太宗七年、改山東路総管府。中統四年、改宣徳府、隷上都路。至元三年、以地震改宣寧府。領三県・二州。三県。宣徳、下。倚郭。至元二年、省本府之録事司並龍門県併入焉。二十八年、又割龍門去属雲州。宣平、下。順聖。下。本隷弘州、今来属。二州。保安州、下。唐新州。遼改奉聖州。金為徳興府。元初因之。旧領永興・縉山・懐来・礬山四県。至元二年、省礬山入永興。三年、省縉山入懐来、仍改為奉聖州、隷宣徳府。五年、復置縉山。延祐三年、以縉山・懐来仍隷大都。至元三年、以地震改保安州。領一県:永興。下。倚郭。蔚州、下。唐改為安辺郡、又改為興唐県、又仍為蔚州。遼為忠順軍。金仍為蔚州。元至元二年、省州為霊仙県、隷弘州。其年、復改為蔚州、隷宣徳府。領五県:霊仙、下。霊丘、下。飛狐、下。定安、下。広霊。下」
- ^ 州四。興州、下。唐為奚地。金初為興化軍、隷北京、後為興州。元中統三年、属上都路。領二県:興安、下。至元二年置。宜興。中。至元二年置」
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「松州、下。本松林南境、遼置松山州。金為松山県、隷北京路大定府。元中統三年、升為松州、仍存県。至元二年、省県入州」
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「桓州、下。本上谷郡地、金置桓州。元初廃、至元二年復置」
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「雲州、下。古望雲川地、契丹置望雲県。金因之。元中統四年、升県為雲州、治望雲県。至元二年、州存県廃。二十八年、復升宣徳之龍門鎮為望雲県、隷雲州。領一県:望雲」
参考文献
[編集]- 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
- 箭内亙『蒙古史研究』刀江書院、1930年