萬昌院功運寺
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萬昌院功運寺 | |
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山門 | |
所在地 | 東京都中野区上高田4-14-1 |
位置 | 北緯35度42分45秒 東経139度40分43.3秒 / 北緯35.71250度 東経139.678694度座標: 北緯35度42分45秒 東経139度40分43.3秒 / 北緯35.71250度 東経139.678694度 |
山号 | 龍寶山[注釈 1](りゅうほうざん) |
院号 | 萬昌院 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 |
昭和23年(1948年)(萬昌院功運寺として) 萬昌院は天正2年(1574年)、 功運寺は慶長3年(1598年) |
開基 | 今川長得、永井尚政 |
正式名 | 龍寶山萬昌院功運禪寺 |
別称 |
久寶山萬昌院 龍谷山功運禪寺 |
文化財 | 吉良上野介の墓、今川家の墓 |
法人番号 | 4011205000251 |
萬昌院功運寺(ばんしょういんこううんじ)は、東京都中野区上高田にある曹洞宗の寺院。山号は龍寶山(りゅうほうざん)。
歴史
[編集]元々は萬昌院という寺と功運寺という別々の寺であったものが、1948年に合併してできた寺である[1]。
萬昌院
[編集]萬昌院は山号を久寶山(くほうざん)といい、天正2年(1574年)の創建と伝えられる。開基は今川長得(一月長得)、開山は仏照円鑑禅師(喚英長応)[1]。
長得は戦国大名今川義元の三男であり、長得の兄今川氏真もはじめは萬昌院に葬られた。また、今川家と先祖を同じくする一族であり、江戸時代初期には極めて近い姻戚関係にあった吉良家の菩提寺にもなっている。
もともとは江戸城半蔵門近くにあったが、その後市谷田町、筑土八幡町(いずれも現在の新宿区)と幾度かの移転を繰り返した。1914年に現在地に移転してきたが、1917年に火災により本堂・書院などが焼失してしまった。
功運寺
[編集]功運寺は山号は竜谷山(りゅうこくさん)といい、慶長3年(1598年)の創建である。開基は永井尚政、開山は黙室芳誾禅師。永井尚政は将軍徳川秀忠のもとで老中を務めた人物で、功運寺は永井家の菩提寺となっている[1]。
創建当初は江戸城桜田門外にあったが、三田(芝三田功運町)に移り、1922年に当地に移転してきた。その後、戦後の1948年に萬昌院と功運寺が合併し現在に至っている。本尊は、釈迦如来坐像。
施設・史跡
[編集]墓地
[編集]- 糟屋武則(戦国武将、賤ヶ岳の七本槍の一人)の墓(武則の墓は自身の居城・加古川城跡である兵庫県加古川市の称名寺にもある)
- 水野成之(旗本、旗本奴として著名)の墓
- 吉良家の墓
- 小林央通、清水義久の墓[2]
- 今川家の墓
- 萬昌院を開いた今川長得などの墓や供養塔がある。
- 永井家の墓
- 栗崎家の墓
- 江戸時代の外科医・栗崎家三代(道喜・初代道有・二代道有)の墓。なお、二代栗崎道有は松の廊下で斬られた吉良義央を治療している。
- 大関増業(下野黒羽藩主、国学者)の墓
- 初世歌川豊国(浮世絵師)の墓
- 林芙美子(小説家)の墓
1960年までは当寺院内に江戸時代の町奉行・大岡忠相の墓もあったが、大岡家の菩提寺であった神奈川県茅ヶ崎市の浄見寺に移転した。
拝観は日中の時間帯のみ無料。
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本堂
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吉良家四代の墓
施設
[編集]当寺院が母体となって隣接してある幼稚園「まこと幼稚園」を運営している。