ホセ・マヌエル・オチョトレーナ
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名前 | ||||||
ラテン文字 | José Manuel Ochotorena | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | スペイン | |||||
生年月日 | 1961年1月16日(63歳) | |||||
出身地 | サン・セバスティアン | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1979-1984 | カスティージャ | 76 | (0) | |||
1982-1988 | R・マドリード | 29 | (0) | |||
1988-1992 | バレンシア | 105 | (0) | |||
1992-1994 | テネリフェ | 12 | (0) | |||
1994-1995 | ログロニェス | 20 | (0) | |||
1995-1996 | R・サンタンデール | 1 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
1989-1990 | スペイン | 1 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ホセ・マヌエル・オチョトレーナ・サンタクルス(José Manuel Ochotorena Santacruz、1961年1月16日 - )は、スペイン・サン・セバスティアン出身の元同国代表サッカー選手、現サッカー指導者。ポジションはゴールキーパー (GK)。
経歴
[編集]選手
[編集]クラブ
[編集]レアル・マドリードの下部組織出身で、レアル・マドリード・カスティージャに登録されていた1981-82シーズン後半にトップチームデビューした。トップチームでレギュラーの座を獲得するには1985-86シーズンまで待たねばならなかったが、同シーズンはリーグ戦とUEFAカップの2冠に輝いた。1986-87シーズンはセビージャFCから移籍してきたGKフランシスコ・ブーヨにポジションを奪われた。
1988年夏にバレンシアCFに移籍し、1988-89シーズンには最少失点率を誇ったゴールキーパーに与えられるサモラ賞を受賞した。3シーズンの間堅実なプレーを続けたが、レアル・マドリード戦で退場処分を受けると、その後バレンシアCFでは二度と公式戦で出場機会を与えられなかった。1992年にはCDテネリフェに移籍し、1994-95シーズンはCDログロニェスでプレーしたが、セグンダ・ディビシオン(2部)降格となった。1995-96シーズンはラシン・サンタンデールに在籍したが、1試合の出場にとどまり、1996年に現役引退した。
代表
[編集]1989年9月20日、ア・コルーニャで行われたポーランドとの親善試合でアンドニ・スビサレッタに代わって途中出場し、スペイン代表デビューを果たした。1990年にはイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップの出場メンバーに選ばれたが、出場機会はなかった。結果的にデビュー戦が唯一の出場となった。
指導者
[編集]現役を引退後はバレンシアCFとスペイン代表でゴールキーパーコーチを務め、2004年7月、ラファエル・ベニテスがリヴァプールFCの監督に就任する際にイングランドに渡った[1]。2007年7月にはリヴァプールFCのコーチにハビ・バレーロが就任したため、自身はバレンシアCFのコーチに復帰した[2]。
所属クラブ
[編集]選手
[編集]- 1979-1984 レアル・マドリード・カスティージャ
- 1982-1988 レアル・マドリード
- 1988-1992 バレンシアCF
- 1992-1994 CDテネリフェ
- 1994-1995 CDログロニェス
- 1995-1996 ラシン・サンタンデール
指導者
[編集]タイトル
[編集]クラブ
[編集]- レアル・マドリード
- リーガ・エスパニョーラ : 1985-86, 1986-87, 1987-88
- コパ・デ・ラ・リーガ : 1984-85
- UEFAカップ : 1984-85, 1985-86
個人
[編集]- サモラ賞 : 1988-89
脚注
[編集]- ^ Anfield's new boot room boys UEFA.com、2005年8月12日
- ^ Aurélio doubt for Reds Sky Sports
外部リンク
[編集]- ホセ・マヌエル・オチョトレーナ - BDFutbolによる個人成績
- National team data
- Stats and biography at CiberChe