コンテンツにスキップ

ノート:邪馬台国/過去ログ1

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。
過去ログ1 過去ログ2

用字について

「邪馬臺国」は確かに旧字です。
ウィキペディアの本来の方針では旧字は使うべきではないとされています。
ただ、以下の3点を理由に、あえて用いてみました。

  • 「ウィキペディアの方針」の実際の運用については、議論が継続した状態であると判断した
    Wikipedia:井戸端/臨時分室4をご参照下さい)
  • 記事名にならない場合、影響は記事内のみに収まると判断した
  • 魏志倭人伝において何と表記されているか(「邪馬臺国」の「臺」の字が何という字であるか)については、邪馬台国論議においては避けて通れない

ご意見がありましたらお願いいたします。 - Gombe 06:49 2003年5月19日 (UTC)

いちばん始めに邪馬臺国を書いた、おがです。古田武彦氏で有名な説で邪馬臺国か邪馬壹国(邪馬壱国)かという話が出てきます。魏志倭人伝も写本だけが残っているということなのですが、そこでの記述は「邪馬壹国(邪馬壱国)」となっており、実は邪馬台国ではなく邪馬壱国であるということを主張している方もいらっしゃるんです。単なる誤字か書き間違いか意識的に文字を変更したのか(臺=台は天の意味があるらしい)わかりませんが....。
なので、この辺りの論争を紹介するには旧字で紹介することも必要になるかと思い、旧字を入れておきました。旧字を使わなければ論争を紹介できるというわけではありませんので、外していただいても構いませんが、みなさんの意見を尊重したいと思います--おが 07:55 2003年5月19日 (UTC)
先程書いたことの趣旨は、邪馬台国の台を臺と書くなら、国も國と書くべきではないのかということでした。漢和字典を調べてみて気が付いたのですが、臺は台の旧字というだけではなくて、そもそも台と臺は異なる漢字なんですね。先程はどちらとも異なる漢字を書いてしまって失礼しました(あの漢字を使うと、ブラウザが参ってしまうみたいです。そのためにちょっと遅れてしまいました)。僕は邪馬台国論争には全然詳しくないのですが、おそらく漢字の発音が大変重要な問題なのだと推測します。したがって、百科事典として、この台は臺であるという情報を書くのは大変意味のあることだと思います。そういうわけで、臺という漢字を使うことに対しては僕は賛成です(JISの第2水準にも入っているみたいだし)。しかし、記事の中にそのことを書いてほしいという感想はありますが。
ここで書くべきことではないかもしれませんが、異体字の使用に関しては、ある程度寛容でもいいと思います。日夏耿之介が日夏こう之介となってしまったら、カルチャーショックだし、「咒文」が「呪文」になってしまうと、本人はおろか彼の読者も決して認めようとはしないでしょう。しかし、旧字でかかれたものにはなにもかも旧字を用いるというのにも反対です。森鴎外では品がなくてもしょうがありません。出でやる 08:17 2003年5月19日 (UTC)

出でやるさんのリクエストに沿って、おがさんの書かれていた説明を記事中に反映しました。:-)
ご意見をお聞かせ下さい。 - Gombe 02:30 2003年5月29日 (UTC)

Gombeさんありがとうございます。素晴らしいと思います :-)。--おが 06:52 2003年5月29日 (UTC)

おがさんの書かれたお手紙では僕は邪馬台国論争には全然詳しくないのですがとあります、邪馬台国について児島宮の担当が記した記載であり、 信用の是非は宮の存在であるのです、之までほとんどはっきりして、いなかった 歴史は何故なのかにつきるのです。 そこに価値がある事はまだ何方も気がついておられません、現段階では日本人すらはっきり解釈出来る方はまだ見えなかったのも根拠でしょう。だが現在大学や研究者に広く受け入れられるようになった のも、自賛ではなく、事実なのですから、まだ児島宮の実態も判断出来ない方の ご否定は段に残念で御座います。古代天皇の血を受け継ぐ家はあまりありません 然るに、当社は菊紋の本家としてお知らせする次第で御座います。

(↑この部分、2005年2月15日 (火) 20:38 (UTC) に219.162.189.110さんにより追記。以下の「編集内容の論拠の確認 (2004年12月)」の節に関連?) (←Gombeにより註記)


註:210.231.192.67さんによる 2005年8月20日 (土) 09:48(UTC)の編集は、台与の当日最新版から引いて追補したものであると思われますので、こちらにメモっておきます。 - Gombe 2005年8月21日 (日) 17:04 (UTC)



Wikipedia(ウィキペディア)の邪馬台国はうわぺの邪馬台国でしかありません。 それは邪馬台国とはが、うわべだけ、になっているのです。 うわべとは表の邪馬台国でしかありません、これでは日本の歴史もうわべの歴史になってしまっています。 きっと後悔するでしょう。古代史会員

邪馬台国に言及した文献について

よく知りませんが、「邪馬台国があったとされる根拠は魏志倭人伝のみに残されている。」も他の部分(や記事「台代」)の記述と比較すると、疑問ですね。邪馬台国の名称は他の書物にもあるんですよね?(これらは証拠とならないという意味?)多分、「位置に関する記述が魏志倭人伝のみ」という話なのかと思ったのですが。 Kozawa 02:42 2003年12月8日 (UTC)

当時執筆に加わった者ですが、自分でもいくつかの史料に当たった覚えがあるのですが、よく覚えていません(^^; ご指摘の部分については、「邪馬台国の位置に関する情報を記した史料は魏志倭人伝のみである」とでも書き直す方が、より妥当なんでしょうか。暫定的にはそれで良さそうな気がいたします。
北史東夷伝など(台与参照)については調べておきます。
- Gombe 12:08 2003年12月10日 (UTC)

調査すべき点、メモ:

  1. 魏志倭人伝以外に邪馬台国について記した史料が、本当はどれだけあるか
  2. それぞれの史料で、邪馬台国の位置についてどのように書いてあるか
  3. それぞれの史料で、「邪馬臺国(邪馬台国)」「邪馬壹国(邪馬壱国)」「臺與(台与)」「壹與(壱与)」いずれの表記を使っているか

- Gombe 12:15 2003年12月10日 (UTC)

上への回答になりますかどうか、有名どころの史料を…
- 2005年2月18日 (金) 18:06 (UTC)

魏志倭人伝以外に邪馬台国について記した史料が、本当はどれだけあるか それぞれの史料で、邪馬台国の位置についてどのように書いてあるか それぞれの史料で、「邪馬臺国(邪馬台国)」「邪馬壹国(邪馬壱国)」「臺與(台与)」「壹與(壱与)」いずれの表記を使っているか

①倭人伝以外の資料はたくさんあります  【シュメール神話】に基ずく『山海経』『晋書』『奈良の梨神話』  『桃太郎』『古事記の黄泉の国』日本の神話のすべてに記している  これは陰と陽の中心に神が存在している、三角形にある

②謎解きは三角形の秘密が日本人の正体となっている(児島)  http://www.progoo.com/rental/img_bbs2/bbs.php?pid=24747  位置に関しては、東夷が倭人の国と記している東北縄文人や殷の民族達     二度目の渡来は秦の始皇帝時除副一団の北部九州入り     伊都の平原と上げているのが真実、ここに王ありとも記してする

     ③卑弥呼も一族の)」「臺與(台与)」「壹與(壱与)」もこの時は魏の  国の勢力に押された女王とあり、現にこの時は男王は居た訳で、王とは  中国では皇帝を指している、倭国では巫女の王としているだけで、後漢  が滅亡するまでの期間に外国の高祖は女王と、そう呼んでいたのです    天皇や天子に至っては後継者は嫡男が継ぐのがしきたりである  女は王の身内から、選ばれるのがしきたりで、その子が幼少なれば  女親が天皇となるか、又はその身内から選ばれるのがしきたり也  女の産んだ男の嫡男しか天皇になれないのもしきたり、次男は臣也  血族とは女の嫡男が古代から受け継がれていて、以外は天子とはなり得  ないし、仮の天皇にしかならない

詳しくは掲示板にて公開中   http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html   http://www.progoo.com/rental/simple_bbs/bbs.php?pid=24509               担当   (児島)

編集内容の論拠の確認 (2004年12月~)

おそらく独自の研究結果の発表であるか、異説であるとしても十分な学術的説明が為されていない内容が、IP参加者の方から投稿されていましたので、こちらへ転記しておきます。(邪馬台国 2004年12月1日 (水) 11:11(UTC)における 219.162.194.90氏の編集)

邪馬台国は三世紀後半に存在する、然し卑弥呼は247年までの時期で 倭国と呼ばれる範囲内の伊都国の女王は倭王である。 倭国に始まる国々は卑弥呼以前の王は男が王と中国書物には記され、 100ヨコクあるとしている、卑弥呼は107年に女王になるがまだ倭国 全体を統治してはいない、この時30国と記す。 卑弥呼は戦乱中、それがもとで卑弥呼は亡くなった(247年)と記す。 台与は14歳になるも、女王に代えられ継ぐと記し、一時期間の事であり 直ぐに後代し男王が、中国晋帝に貢献し爵の拝受を受けたのはウガヤであり 妻は玉依姫で、伊都から出雲へ使いを出して、お前の土地(葦原水穂の国)と お前のところに社を建て、吾が土地(奈良の後の三輪山)にお前の神を祀る と交換条件を出し、これに大国主は子の事代主と相談し、あなたの意見に 何の異論もありませんと、語り伊都の王(中国夏王朝系と倭国王系の融合)に より生まれたのがウガヤフキアエズ、という。伊都の倭王ウガヤは妻と共に 大国主の土地に降臨(移る意味)して、中国文献によれば倭は名前がよくない からと、記し安邑(夏王朝の都名)に因み夜須(安)と命名した。 これにより、安は統治が一括し国々はこれに従った。これを邪馬台国という、 邪馬台国は時期が短い期間なので「記紀)には年代を記さず国名だけを記す。 まだ日本全土の統治ではなく夷(殷の時夷人)国(東北)等の統一までは神武東征を待たねばならない。(後半は祝詞参考)

転記は以上です。 - Gombe 2004年12月1日 (水) 11:46 (UTC)


12月1日と同様の記述がIP参加者の方から投稿されてゐましたので、こちらへ転記しておきます。(邪馬台国 2004年12月9日 (木) 08:19(UTC)における 61.207.255.233氏の編集。219.162.194.90と同じアクセスポイントです)

後期267年頃卑弥呼亡き後鵜茅葺合逗尊と玉依姫は伊都国から 高千穂の峰(山の峠、前原日向峠)を越えて、猿田彦が道案内を仕り早良に 出た、この後奴国(筑紫野市)を通り抜けて安国(大国主の土地、後の夜須をいう) に入りこの年安国を祝詞では平らけくと記す。 伊都の倭王から北部九州の統治者となった王は夜須に筑紫城(字松延)を建て、 この地で四人の子供をもうけた。 やがて三男のイワレ彦は父の死にともない墓を造る、名前を(平山稜)とした。 後の文献で『日下部文書』なる古代書によれば、一羽の鷹が舞い降り、水溜りから人の気配に驚き飛び立ったので、墓名を鷲尾と名付けたという。 字松延にも同じ由来が伝承していて、早鷹社がある。 やがてイワレ彦は周りの国の者達を集めて遠賀港から船出した。 この期間は短い期間の為記されていないが、中国は倭王の居る安国を山に囲まれていたので、邪馬台国と後に記した。270年頃までを邪馬台国という。                    鵜茅葺合逗尊を祀る社・児島宮

転記は以上です。 nnh 2004年12月9日 (木) 08:40 (UTC)


邪馬台国 2004年12月9日 (木) 08:46(UTC)における 61.207.255.233氏の編集を転記。変な所で文章が切れてゐるので、どこかからの転載の可能性もあります。

邪馬台国の王を祀る日本最初の社、その名は平山大明神から名付けられ、 平山宮という、起源は古く西暦270年創建された。 イワレ彦(後の神武)の城は筑紫城或いは筑紫宮と記録されている。 字松延にあり、神武東征により、松延は権力者がいなくなり、この地に 残った倭族が荒らしまわり、その形は消えてしまう。 やがて300年天皇神功皇后は地元の嘆願書に対し、天皇の土地を荒らす 不届き者がおり、成敗にでかけた、共に忠臣の武内宿根を伴い征伐に船で 出かけ港に着く、香椎から宇美(不彌国)を通り大宰府から山越えし、砥上 山の頂きから昔の話を思い出した、昔この地に筑紫城があるときいた

転記は以上です。nnh 2004年12月9日 (木) 09:23 (UTC)


12月1日と同様の記述は児島宮祭主が担当して記しました。これまでの 邪馬台国論はご指摘のように転載はしていません、著作権も邪馬台国に 関しては所持しており、歴博の諸氏の方にも連絡済でございます。 又柳田康男、西谷正、奥野正男、古田武彦氏にも承諾済です。

(ここまで60.40.217.208さん 2005年1月23日 (日) 09:42 (UTC)


邪馬台国ではなく、倭国が正しい発音である、然るに卑弥呼は倭国(卑人 の国、又は夷国の女王が正解)である。ホームページ掲示板(邪馬台国を 語る掲示板)(豊葦原国から邪馬台国夜須へ)で公開しています。 担当児島宮祭主天皇とはなんぞや・

(ここまで211.129.254.230さん 2005年1月 24日 (月) 00:06 (UTC)




【邪馬台国】 「邪馬台国の時期」と異物

邪馬台国は何時の時期になるのだろうと憶測は飛んでいるが、伊都前原井原遺跡 から三番目の王の墓が発掘されていて、この井原の異物がその墓の人物の時期を 見出す事ができる。それは木棺墓に秘められており、この時期の遺物は北部九州 全体の遺跡に見出せ特に竪穴住居、土壙、土壙墓、甕棺墓、木棺墓、石蓋土壙墓、箱式石棺墓、落し穴 主な遺物  弥生土器、土師器、須恵器焼塩、壷、鉄鏃、土錘、石製紡錘車、小形?製鏡、石包丁、石剣、刀子 等が特徴のようです。 これは倭国末頃から邪馬台国の間に見られる痕跡です。 方格規矩鏡(ほうかくきくきょう) 縁は平縁、鈕は半球形のもので、 規矩文の間に、玄武・白虎・青龍・朱雀の四神を配したものを 方格規矩四神鏡といいます。 福岡県井原遺跡、同県須玖遺跡、同県平原遺跡、夜須町鬼神山遺跡、 長崎県壱岐の 加良香美貝塚から伊佐座式といわれる土器に伴うことから、 弥生時代後期に位置し。方格規矩鏡には、さらに規矩文の間に霊獣 ・鳥文・過文などを入れた鳥文鏡や過文鏡などがあります。 ー韓・楽浪郡と交易した(原の辻貿易)ー 井原塚廻(いわらつかまわり)遺跡,初期須恵器段階の陶質・軟質の鳥足紋土器が出土している。 公開された方格規矩四神鏡は、中国・後漢製で直径十九センチ。一部は散逸していたが、四神の朱雀(すざく)や玄武の模様が確認され、両面に赤色顔料の朱が施されていた。弥生時代後期(一―二世紀)の遺構から出土。当時の権力者が所有していたとみられ、装飾用ガラス玉約百七十個とともに出土した。 楽浪土器は朝鮮国でき公孫氏が王の時頃になる。(武王からこの後始末された) 楽浪郡と帯方郡の消滅後に伊都の王は爵を皇帝から拝し邪馬台国へと時代はなる。 【児島宮刊行会著作】 掲載に関しては許可が必要ですが、児島宮と記されれば不要です。

(↑この部分、2005年2月19日 (土) 09:32 (UTC) に221.190.117.151さんにより追記) (←Gombeにより註記)


位置についてのノート

本文に「魏志倭人伝に書かれている方角表記や距離表記をそのとおりにたどると、日本列島のはるか南方の海中になってしまう」とある。 しかし、 魏志倭人伝には、

  • 帯方郡より一万二千里余り
  • 帯方郡より狗邪韓国までは七千里余り

と記載されている。 すなわち、 狗邪韓国から魏志倭人伝にいう邪馬壹国までは五千里ほどということになる。

帯方郡-狗邪韓国が韓半島内のことであり、 狗邪韓国が韓半島南岸付近であるとするならば。 帯方郡-狗邪韓国間の距離より短い五千里ほどで、 韓半島南岸から九州を通り越して「日本列島のはるか南方の海中」に到達するのは無理があるであろう。
※ 帯方郡が、 瀋陽や長春あるいはそれよりも遠方にあったとするなら、 別ですが。

また、 一里は 430m よりも遥かに短い距離を指していることとなる。
※ 一里 = 430m で計算してしまうと、 七千里≒3000km となり、 帯方郡はロシアにあったことになってしまいます。

- 2005年2月20日 (日) 11:35 (UTC)

日本語読み

「邪馬一國」(日本語読みはともに「やまいちこく」)と書かれているが、これは伝写の誤りまたは字の書き換えで、「邪馬臺國」(日本語読み「やまたいこく」)が正しいとされており、これが学界の定説となっている。

上記の証明はどのようにされたのでしょう?私の知る限りではありませんが。--202.157.10.22 2006年9月26日 (火) 05:16 (UTC)


邪馬台国の位地

銅鐸による説があります。銅鐸のページへ

簡単に説明しますと、弥生時代頃に遡る銅鐸の文化は、邪馬台国に在ったのでしょうか?  かの有名な魏志倭人伝にもその記述がありませんよね。

そこで、やはりの国、邪馬台国は九州地方に在ったんじゃないでしょうか?

また、近畿には、銅鐸文化を持った王族があって、結局、の勢力が勝った。 日ノ本の国の建国神話に似ていますがね・・・でも実際、中国のは存在してたんですから。信じたくもなります。

銅鐸自身が、未だ不明なので、辻褄の合う仮説に過ぎませんが・・・燈之守刹那 23:06 2006年11月20日 (UTC)

石原洋三郎氏

国会議員だった方が、邪馬台国問題についても言及されているようなのですが、その人のページを見ても、著書も論文名も出てこないので、その人の名を借りたのではないかと疑っています。石原氏のページを編集された方が、この邪馬台国の記事でも、北史の記述を援用していろいろと加筆されているのですが、すでに1970年代はじめに古田説のなかで述べられた「東西五月行、南北三月行」をあたかも新事実のように述べられたり、三国志と梁書や北史を同列に扱われていたりされています。少なくとも石原氏の著書や論文を挙げていただかないと、無用な加筆だけがふえるのではないでしょうか。 --ねこぱんだ会話2016年9月28日 (水) 12:23 (UTC)

『邪馬台国について「九州に存在する」ことが明白となっている』旨の記載について

あちこち(邪馬台国古墳時代高天原魏志倭人伝邪馬台国九州説 )で邪馬台国について『「九州に存在する」ことが明白となっている』又は『「九州内に存在する」ことが明白となっている』との記載ですが、これはノート等で合意が得られている記述なのでしょうか? 私が知る限り、邪馬台国の位置論争については今でもメディアや学説では完全決着がついていないのではないですか? それなのにこのような記述をWikipediaですることは、百科事典においてふさわしくないように思えます。

ところで、件の記載をしている利用者:Stonenameさんと利用者:Stonenamesakaは同一人物ですか? 個人的にはWikipedia:チェックユーザー依頼にかけてみたいのですが? --TempuraDON会話2016年9月29日 (木) 11:23 (UTC)

チェックユーザーはどちらでもかまいませんが、利用者:Stonenameさんと利用者:Stonenamesakaさんとの記述のもとになっているはずの論考を提示してもらわなければ、独自研究として除去すべきだと思うのですが。 --ねこぱんだ会話2016年9月29日 (木) 13:02 (UTC)
横より失礼します。利用者:Stonenameさんの記述で問題なのは、「北史「……」の概念提示により、「文献上は、九州に存在する」ことが明白となっている」という学説は誰のものであるのかが明示されていないことです。第一にこれが明示できないと(「『北史』に書かれております」だけでは不可)、Wikipediaのルール上、独自研究になってしまいます。言い換えれば、「『北史』等の記述「……」から文献上九州に存在することは明白」と主張している学者および著書を情報源として明示する必要があるということです(「Wikipedia:独自研究は載せない」の「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」を参照)。また第二に、Wikipedia上で「それが明白である」と記述できるためには、日本史・邪馬台国に関する概説書や通史の大部分に、「『北史』等の記述「……」から文献上九州に存在することは明白」と記述されている必要があります。通説レベルでそのような主張がなされていることを明らかに出来なければ、Wikipedia上では「学説の一つ」扱いにしなければなりません。--Joffed会話2016年10月2日 (日) 11:16 (UTC)

回答です。『邪馬台国について「九州に存在する」ことが明白となっている』旨の記載について

⇒⇒⇒「文献上の明白」ですね。遺物の発見が望まれます。

尚、ウィキペディアの「邪馬台国」では、畿内説の基本論拠は「文献上」の根拠はありません。一方、九州説の基本論拠は「文献上」、中国の正史で「邪馬台国」の記述がある北史の中から、旅程日数に関しての弱点は解消されております。今までの議論の積み上げから12,000里はもともと「九州説」の根拠とされておりました。「文献上」は、北史においては『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。』とあり、続けて『又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都。』と説明しております。北史では、倭国の領域を「東西五月行、南北三月行」と説明した上で、続けて、邪馬臺國への行程を「南へ二月」(水行二十日、水行十日、陸行一月)と説明しております。北史では「東西五月行」の概念がある中で「東」とは言っておりません。

ウィキペディア「邪馬台国」の中では、下記の基本論拠から「文献上」は九州になるとの意味です。下記はウィキペディア「邪馬台国」の基本論拠です。「文献上」に着目して、基本論拠の記事に注目してください。畿内説に「文献上」の基本論拠がない一方、九州説に「文献上」の基本論拠があり、かつ文献上の弱点も解消され、「文献上においては九州」となっております。


●また、従来ですと「末羅国」や「伊都国」や「奴国」や「不弥国」などは「九州」と考えられております。「南」へ水行20日、「南」へ水行10日、陸行1月だけですと、確かに九州の南、太平洋の「沖縄県付近」の可能性はあると思います。 しかし、南北三月行の概念(出典元は北史・隋書)や12,000里(出典元は魏志・北史他)の概念があれば、九州の南「沖縄付近」までは行かない、ということです。方角は「南」(出典元は魏志・北史・梁書)

●逆に、教えて下さい。九州に到着しない文献上の理由を。それとも太平洋のど真ん中、沖縄に行く?文献上の理由を。


邪馬台国畿内説

邪馬台国畿内説には、琵琶湖湖畔、大阪府などの説があるが、その中でも、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が、下記の理由により有力とされる。

  1. 箸墓古墳の付近から出土した土器の考古学的年代決定論で、その始期や変革期が倭人伝の記述と合致するというデータがあること。[1]
  2. 吉備、阿讃播など広範な地域起源の文化に起源を求めうる前方後円墳が大和を中心に分布するようになり[2]古墳期の時代が下るにつれて全国に広がっていること(箸墓古墳ほか)。
  3. 北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。[3]
  4. 日本書紀神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けている。『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現し、『隋書』では、都する場所ヤマトを「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と同一視していること[注釈 1]

逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。

  1. 倭国の産物とされるもののうち、弥生後期までの鉄や絹は北九州からのみ出土する。
  2. 弥生後期までの銅鏡や刀剣の出土量は北九州のほうが圧倒的に多い。
  3. 「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗が温暖な南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されている。
  4. 「魏志倭人伝」の記述は北部九州の小国を詳細に紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国出雲国の仔細には全く触れられておらず、近畿圏まで含む道程の記述が全く欠けている。
  5. 一大率は北部九州に所在する伊都国に常に「駐」したと倭人伝にあり、畿内から伊都国まで大きな距離があるのが不自然。
  6. 「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北九州の国より南側にあること。[注釈 2]

かつて、畿内説の重要な根拠とされていたが、今は重要視されていない[要出典]説は以下である。

  1. 三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説 - しかし、既に見つかったものだけでも400枚以上になること、中国社会科学院考古学研究所長王仲殊が「それらは漢鏡ではない」と発表したことなどから、九州説の側からは「三角縁神獣鏡は全て倭で複製されたもので、卑弥呼の鏡ではない」との議論が提案された。なお2015年に中国において少数の三角縁神獣鏡が発見された事から、オリジナルが漢鏡であるという説もある。
  2. 邪馬台国長官の伊支馬(いしば)と垂仁天皇の名「いくめ」の近似性を指摘する説 - 大和朝廷の史書である記紀には、卑弥呼の遣使のこと等具体的に書かれていない。田道間守の常世への旅の伝説を、遣使にあてる説もある。

邪馬台国九州説

邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、熊本県の阿蘇神社を中心とした阿蘇カルデラ[4]、宮崎県の西都原古墳群など、ほとんど九州の全域に渡って諸説が乱立している。その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある[注釈 3]。 一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権の関与はないとするものがある[注釈 4]現代では古田武彦などによる九州王朝説がある[注釈 5]

邪馬台国が九州にあったとする説は、以下の理由等による。

  1. 帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では短里説をとれば邪馬台国の位置は九州地方北部にかぎられること[注釈 6]
  2. 九州北部に比定される伊都国から、邪馬台国への行程において、投馬国や邪馬台国への旅程日数を合算しても「2カ月」であり、方角が「南」であるため。(北史・隋書・旧唐書・新唐書とも、倭国は南北の旅程が3カ月はかかると述べており、「南行2月」は九州内部に収まるため[注釈 7]
  3. 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること[注釈 8]

逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。

  1. 魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくく[注釈 9]奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸といった規模の集落は、当時の日本の人口から考えて大きすぎるとする説がある。しかし例えば奴国は1世紀に後漢に朝貢し金印を授与される程の人口と国力があったのでこの説は当たらないとする意見もある。
  2. 中国地方や近畿地方に、大きな規模の古墳や集落が存在していること。これらの古墳築造の開始時期は4世紀以降とする説が有力だが、放射性炭素年代測定などの結果では一部は3世紀中葉に遡るという解釈も出ていること[5]

かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは以下のものである。

  1. 近畿地方から東海地方にかけて広まっていた、銅鐸による祭祀を行っていた銅鐸文明を、「魏志倭人伝」に記載され、『日本書紀』にも著される(剣)、鏡、勾玉の、いわゆる三種の神器を祭祀に用いる「銅矛文明」が滅ぼしたとされる説。
    しかし、発掘される遺跡の増加に伴い、「銅鐸文化圏」で銅矛や銅剣が、吉野ヶ里遺跡のような「銅矛文化圏」で銅鐸やその鋳型が出土したことから、今ではあまり重要視されなくなっている。
  2. 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土していること[注釈 10]

かつて、九州説の弱点とされていたが、今では弱点とされていないものは以下のものである。

  1. 旅程記事について、南行二月でも九州内に収まる。北史隋書では『其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。』と記載されており、倭国は南北の旅程が3カ月はかかると考えられている。北史・梁書・魏志では、南至投馬国水行20日+南至邪馬台国水行10日・陸行1月=「南行2月」であり、倭国の領域内に収まっている旅程日数(南北三月行の範囲内)[注釈 11]である。尚、倭国について、旧唐書では『依山島而居。東西五月行、南北三月行』、新唐書でも『島而居、東西五月行、南北三月行』と説明している。
⇒かつては、次のように弱点として考えられていた。「連続読みでは九州内に収まりきらないので、放射線式の読み方に従う必要がある。」
「①畿内説の中にも放射式の読み方を採用している論者がいるので、これ自体は九州説の決め手ではない。」
「②放射線式読み方が正当化されるには、「到」「至」の使い分けがされているときは、そのように読むべきであるという当時の中国語の決まりがなければならないが、魏志倭人伝の内容をほぼ引き写している梁書では、そのような使い分けはされておらず、使い分けに特別な意味があったとは思えない。」
「③仮に放射線式の読み方を受け入れると、邪馬台国は伊都国の南水行十日陸行一月の行程にあるが、九州を大回りして水行し南下する意味に捉えたとしても、邪馬台国の位置が中南部九州内陸にあることとなり、後の熊襲の地に邪馬台国があり、その南に狗奴国が存在することになる。これについては、南水行十日陸行一月は楽浪郡からの距離であるとの説がある。」

邪馬台国の所在地

北史においては『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。』とあり、続けて『又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都。』と説明している。北史では、倭国の領域を「東西五月行、南北三月行」と説明した上で、邪馬臺國への行程を「南へ二月」と説明している。そのため、「末盧國」から「北史」の記述どおりに日数、方角、距離を辿ると、邪馬台国は「九州内」に所在することになる。末盧國から東南~南方面[注釈 12]に、2000里、二月行で邪馬台国。

また、魏志倭人伝[注釈 13]を、忠実に厳密に読んだ場合、「邪馬台国」は九州内に収まる。魏志倭人伝では、方角と旅程日数が『南至投馬國水行二十日 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月』、総距離は『自郡至女王國 萬二千餘里』と記載されている。総距離は、12,000里であり、旅程日数が2月でも、総距離はあくまでも12,000里である。帯方郡から末盧國までは、10,000里であるため、末盧國から邪馬台国までは残2,000里である。帯方郡から不弥国までは10,700里であるため、不弥国から邪馬台国までは残1,300里となる。連続式で、魏志倭人伝の記述を、厳密に忠実に読むと、不弥国から邪馬台国までの方角・日数・距離は「南」へ「2月」、「残1,300里」となる。2月かかるが、距離はあくまでも「残1,300里」である。(厳密に解釈すれば、約22里/日の行程スピードである。)魏志倭人伝における邪馬台国の所在地は、厳密に忠実に読んだ場合、「九州内」となる。

尚、隋書においては、『古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里』と述べているが、倭国の領域について『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。』と説明している。[注釈 14]

ウィキペディア「邪馬台国」の中では、「文献上、九州に存在する」内容となっております。

  1. ^ 『纏向:奈良県桜井市纒向遺跡の調査』(奈良県立橿原考古学研究所編1976)など
  2. ^ 『日本列島における国家形成の枠組み』寺澤 薫(纏向学研究センター研究紀要2013所収)など
  3. ^ 寺澤 前掲など
  4. ^ 石原洋三郎邪馬台国阿蘇カルデラ台地説
  5. ^ 理化学的年代に懐疑的な研究者も少なくない。年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、まだ専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成され、正確データの公表すらなされておらず追試検証が行われていないためである。放射性炭素年代測定法にしても、測定資料をとることは遺物を損傷することでもあり機材も必要なので追試検証は行われない。
  1. ^ 九州説では、書紀の編纂に当たった当時の大和朝廷が、参照した中国の史書(魏書、後漢書など)にある古代国家の記述を書紀に組み入れたにすぎないとする。
  2. ^ これに対して、北九州の国々の行程を表記するにあたっても、すでに60度ほど南にずれているからもともと正確ではない、あるいは、倭国が会稽東冶の東海上に南に伸びて存在するという誤った地理観に影響されたものである混一疆理歴代国都之図[1]」の影響下にある地図には、日本を右回りに傾かせて描かれたものがある(「日本地図」の項目も参照のこと)などの意見がある。ただし混一疆理歴代国都之図については、15世紀に原図を作った朝鮮人が「行基図」を誤って右回りにはめ込んだにすぎず、古くからの地理観とはいえないと主張する説や、他に15世紀以前に日本を右回りに回転させたと証明できる地図が存在するわけでもなく、『隋書』では正しい地理観に基づいて行程を記述しているので、根拠とはしがたいという反論がある。
  3. ^ 後者の東遷説は神武東征をその事実の反映と見る立場が多いが、『隋書』の記述がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性があるとして、神話を根拠とすることは受け入れがたいとする意見もある。神武東征とは関係ないとする説もある。
  4. ^ 一部で誤解が流布しているが、江戸時代後期の国学者による「偽僣説」(九州勢力が朝廷を僭称したとする説。本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』など)は九州勢力が独自に外交を行ったとはしているものの、あくまで「邪馬台国は大和、卑弥呼は神功皇后」であって、九州勢力はそれを僭称したのだという説である。
  5. ^ 日本列島を代表する王朝は一貫して九州にあり、白村江の戦い以降に衰亡したとする説。一部を除いて学術論文として発表された説ではなく、学会では議論の対象とされていない。
  6. ^ 三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし、山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではなく、単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとする。九州王朝説を唱えた古田武彦は、「正確を期するため同じ行程を距離と掛かる日数とで二重に標記している」とする読み方を提唱している。
  7. ^ 北史「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海」、北史「又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都」、石原洋三郎によれば、“南北三月行”をはじめ、古代中国人の感覚として、旅程日数が誇大に記載されているとのこと。
  8. ^ 畿内説の中には狗奴国を東海地方とする説がある。この説では狗奴国を桑名加納[要曖昧さ回避]久努国造久能などの東海地方に当てる説、狗古知卑狗を菊川と関係付ける説がある。畿内説の内藤湖南は、彼が邪馬台国の時代に近いと考える景行天皇の時代に、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから狗奴国を熊襲、「狗古知卑狗」を菊池彦に当てている。そうすると、ここでは方角が正しいことになるが、彼は狗奴国に関する記述は旅程記事とは別系統に属するから、問題はないという。吉備説・出雲説・東四国説では狗奴国を河内の勢力と見ている。
  9. ^ 九州説ではに圧力をかけるための厚遇であったとする。また前述の古田武彦は、公孫氏政権からいちはやく魏に乗り換えた功績に対する厚遇であるとする。
  10. ^ 3世紀当時、すでに甕棺は稀にしか用いられていない。
  11. ^ 石原洋三郎によれば、九州北部から“南”へ二月進んでも、未だ九州内に収まっているとのこと。九州の福岡県北岸から、鹿児島県の南岸までが三月行という古代中国人の旅程感覚が読み取れるためである。
  12. ^ 「方向感覚」では東~南。
  13. ^ 三国時代後の西晋陳寿が著者。現在、残っている最古の原本は南宋の時代に作成されたと言われている紹興版。
  14. ^ 隋書『倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居』とあり、魏志倭人伝の「狗邪韓国~末盧國」の距離と同様、朝鮮から日本までの距離を「水陸三千里」としている上で『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。』と説明している。

--以上の署名のないコメントは、Stonename会話投稿記録)さんが 2016年9月29日 (木) 20:48 (UTC) に投稿したものです。

利用者:Stonenameさんにこたえていただきたいのは

利用者:Stonenameさんにこたえていただきたいのは、きわめて単純なことです。岩波文庫(手元にあるのは1985年5月16日発行の第43刷新訂版です)の『魏志倭人伝 他3篇』のp36で、解説者は以下のように述べています。「結論的にいえば、『北史』は『梁書』『隋書』に、『南史』は『宋書』『梁書』によっており、その文字の校定以外にはなんら史料価値をみとめることができない。いわば正史中もっとも史料的価値のひくいものである。ことに『北史』のごときは、『隋書』の裴〔世〕清の記事を誤写し、清より清にいたる百二十一字を脱落しているほどである」と。そうした『北史』の記事を使おうというのは、たしかに〈新しい〉説であろうかと思います。ですから、その説は、いつ、だれが、どこ(どういう媒体)で主張されたものかを書いていただきたいだけです。それがなければ、利用者:Stonenameさんの独自研究とみなされて、除去されるだけです。それだけなのですよ。あと、署名をおねがいしますね。 --ねこぱんだ会話2016年9月30日 (金) 14:40 (UTC)
よみやすくするため少しいじりました。 --ねこぱんだ会話2016年10月1日 (土) 01:19 (UTC)
引用エラーをなくすためにいじりました。 --ねこぱんだ会話2016年10月1日 (土) 01:25 (UTC)

書籍について

ご質問〈北史の記述を援用して邪馬台国は南2か月のところにあるはずだ。いつ、だれが、どこ(どういう媒体)で主張されたものかを〉と主張してるのはどなたで、それはどういう書籍か論文になっているのか)について回答をさせて頂きます。

答え⇒⇒⇒「北史」にそのまま書かれております。 「北史」『又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國』

『南水行二十日。南水行十日、陸行一月。』

北史『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。』

北史『計從帶方至倭國、循海水行、歴朝鮮國、乍南乍東、七千餘里、始度一海。又南千餘里、度一海、闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名末盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都』

北史『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。』

『北史』(ほくし)は、中国の北朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、 その子の李延寿によって完成されたそうです。

答え⇒⇒⇒「隋書」にそのまま書かれております。

隋書『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海』

隋書『倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居』魏志『始度一海、千餘里至對馬國。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。又渡一海、千餘里至末盧國』

「3000里」は一緒。

隋書『古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里』魏志『自郡至女王國萬二千餘里』 

「12000里」も一緒。


距離は魏志倭人伝と隋書は、同等に記載されております。

隋書『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海』隋書『夷人不知里數、但計以日。』 魏志『自郡至女王國萬二千餘里』隋書『古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里』魏志『始度一海、千餘里至對馬國。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。又渡一海、千餘里至末盧國』隋書『倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居』


『隋書』(ずいしょ)は、二十四史の一つで第13番目にあたります。中国史の中における隋代を扱った歴史書です。 唐の魏徴と長孫無忌らが唐の太宗の勅を奉じて勅撰を行った。編纂には顔師古や孔穎達らが参加した。 何度も同じことですが、回答をさせて頂きます。

⇒⇒⇒尚、私の質問には、一度も回答を頂いておりません。ご回答をお願い致します。

●また、従来ですと「末羅国」や「伊都国」や「奴国」や「不弥国」などは「九州」と考えられております。「南」へ水行20日、「南」へ水行10日、陸行1月だけですと、確かに九州の南、太平洋の「沖縄県付近」の可能性はあると思います。 しかし、南北三月行の概念(出典元は北史・隋書)や12,000里(出典元は魏志・北史他)の概念があれば、九州の南「沖縄付近」までは行かない、ということです。方角は「南」(出典元は魏志・北史・梁書)については?

●逆に、教えて下さい。九州に到着しない文献上の理由を。それとも太平洋のど真ん中、沖縄に行く?文献上の理由を。

●教えて下さい。九州説以外の文献上の根拠は?

●教えて下さい。岩波文庫(手元にあるのは1985年5月16日発行の第43刷新訂版です)の『魏志倭人伝 他3篇』のp36について ねこぱんださんは「後世の史料を使うのはいかがなものかと」とおっしゃっておられましたが、1985年は、「後世」ではないでしょうか?私は「後世」でも良いとは思っておりますが、いかがでしょうか?

●教えて下さい。北史と岩波文庫(手元にあるのは1985年5月16日発行の第43刷新訂版です)の『魏志倭人伝 他3篇』の史料価値はどちらが高いのでしょうか?

(署名していただけないのは残念ですが)上に書いたように、私は岩波文庫の『魏志倭人伝』の編者である、和田清石原道博両氏による解説(これは旧版から基本的にいっしょです)で、「倭国関係では北史の記事は価値がない」ことを学びました。今までに見聞きした邪馬台国関係の研究でも、そのことは共通認識だと思っていました。その点でいえば、北史よりも影印がついている岩波文庫の方が史料価値は高いと思いますよ。けれども、利用者:Stonenameさんの加筆は、「北史にも価値がある。論拠に使える」という立場からなされているように読めます。「北史にも価値がある。論拠に使える」ことを、どこから学ばれたのでしょうか。それを教えていただきたいのです。もし、「自分で思いついた」とおっしゃるなら、独自研究となって、Wikipediaに載せることはできません。教わったのだとしたら、いつ・だれに・どこで(書籍なり論文なり)で教わったのかをお書きください。私の知らないことですから、勉強してみたいです。 --ねこぱんだ会話2016年10月1日 (土) 15:40 (UTC)

「北史にも価値があること」について

李延寿(り えんじゅ、生没年不詳)は、中国の唐の歴史家。祖籍は隴西狄道(現在の甘粛省臨洮県)だが、代々相州(今の河南省安陽市)に住んだ。李大師の子。 延寿の父の大師は、隋末に竇建徳に仕えて礼部侍郎となり、竇建徳の滅亡後に甘粛に流されたが、後に赦された。大師は編年体の南北朝通史の執筆を構想して、編纂を開始していたが、志半ばで628年に死去した。延寿は父の未成の南北朝通史を引き継ぎ、16年かけて『南史』80巻、『北史』100巻を完成させた。659年に正史として公認された。当時の中国王朝に正史として公認され、現在では24史の一つとなっております。中国王朝に正式に認められております。

⇒⇒⇒私の質問には、まったく、答えて頂けないのでしょうか?

なぜ署名を拒否されるのかがわかりませんが、「北史は正史だが倭国のことでは使えない」と私も含めた今までの論者が言っていることに対して、「北史は正史です」では返事になっていないことはおわかりだと思います。独自研究なのか、どなたから教わったのか、はっきりさせていただけないのでしょうか。なお、古田武彦さんは、『失われた九州王朝』のなかで、隋書の「南北三月行」について、沖縄を含めた行程を提示しています。九州からはみでることは前提になっています。 --ねこぱんだ会話2016年10月2日 (日) 14:21 (UTC)

「どなたから教わったのか、はっきりさせていただけないのでしょうか。北史にも価値があること」について

南史『倭國、其先所出及所在、事詳“北史”』

南史』(なんし)は、中国の南朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。李延寿(り えんじゅ、生没年不詳)は、中国の唐の歴史家。祖籍は隴西狄道(現在の甘粛省臨洮県)だが、代々相州(今の河南省安陽市)に住んだ。李大師の子。延寿は、太宗に仕えて、太子典膳丞・崇文館学士を務めた。『隋書』や『晋書』の編纂に参与して、御史台主簿となり、直国史を兼職した。最後は符璽郎に任ぜられ、修国史を兼任して、まもなく死去した。他に『太宗政典』30巻があった。中国王朝が認めた歴史書です。中国歴代王朝が認めた歴史書二十四史の「正史」の中の「南史」です。「三国志」も二十四史の一つで、「正史」です。よろしくお願い申し上げます。

ねこぱんださんは「後世の史料を使うのはいかがなものかと」とおっしゃっておられましたが?⇒⇒⇒⇒

もう一度いいます。「わたしは●●さんの『▲▲』という本(論文)(発行元と年月)を読んだら、北史が論拠とされていたので、Wikipediaの編集に参加しました」の空欄を埋めていただければいいのです。そうでなければ、独自研究です。わたしのいう『後世の史料』とは、北史のことです。それ以外の意味は含んでいませんので。 --ねこぱんだ会話2016年10月2日 (日) 22:59 (UTC)

(ご参考です)24史「北史倭国伝」の“邪馬台国”

倭國在百濟 新羅東南 水陸三千里 於大海中依山島而居 魏時 譯通中國三十餘國 皆稱 子 夷人不知里數 但計以日 其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢 東高西下 居於邪摩堆 則魏志所謂 邪馬臺者也 又云 去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里 在會稽東 與儋耳相近 俗皆文身 自 云太伯之後 計從帶方至倭國 循海水行 歴朝鮮國 乍南乍東 七千餘里 始度一海 又南千餘里 度一 海 闊千餘里 名瀚海至一支國 又度一海千餘里 名末盧國 又東南陸行五百里 至伊都 國 又東南百里 至奴國 又東行百里 至不彌國 又南水行二十日 至投馬國 又南水行十 日 陸行一月 至邪馬臺國 即倭王所都

朝鮮國→無記載「南」

無記載→一支國「無記載」

一支國→末廬国「無記載」

末廬国から「邪馬台国」「南~東南」方面へ

中略

明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海 中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經 十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。
後十日、又遣大禮哥多毗從二百餘騎、郊勞。既至彼都、其王與世清。來貢方物。此後遂絶

百済→対馬「無記載」

都斯麻國→一支國「東」

一支國→竹斯國「無記載」

竹斯國筑紫→秦王國「東」

竹斯國以東 「邪摩堆」へ

南史(24史の南史が北史に太鼓判)

『倭國、其先所出及所在、事詳“北史”』

「倭国、その先祖の出た場所や所在については北史が詳しい。」李延寿の南史(発行元:唐659年)

何回おなじことをいえばいいのでしょうか。「わたしは●●さんの『▲▲』という本(論文)(発行元と年月)を読んだら、北史が論拠とされていたので、Wikipediaの編集に参加しました」の●●と▲▲を埋めてください。私の場合はこうなりますので、この方式でおねがいします。それ以外の回答ならば、独自研究とみなして除去します。「わたしは和田清さんと石原道博さんの『魏志倭人伝』という本(岩波文庫、初版1951年の後刷本を1973年に購入)を読んだら、北史は論拠にはできないとされていたので、Wikipediaにそういう立場で編集に参加しています」です。何の予備知識もなしで南史を読んだとはどうしても考えられませんので。先の引用でも、南史の史料価値もないと、和田さんと石原さんの本には書いてありましたよ。 --ねこぱんだ会話2016年10月5日 (水) 09:07 (UTC)
『北史』にも『南史』にも「文献的に九州に存在することは明白」という記述はありません。これら史書の記述を論拠に「文献的に九州に存在することは明白」と主張する著者と文献(書籍もしくは論文)を明示しないと独自研究です。その二次資料も、素人かどうか判別不能な人の著作ではなく、歴史学(日本古代史)の学界で認められた研究業績のある専門家によるものである必要があります。--Joffed会話2016年10月6日 (木) 02:29 (UTC)

⇒⇒ご回答が遅くなり、申し訳ございません。現段階では、いったん、休戦。しばらくお時間下さい。誠に申し訳ございません。

石原道博さんの魏志倭人伝、読みました

●石原さんによれば、『宋書』『梁書』『隋書』をおそうた『南史』『北史』の新史実なく、史料価値はほとんどない。と記載されておりますが、同時に『宋書』『隋書』を選んで『晋書』『南斉書』『梁書』『南史』『北史』を選ばなかったのは、後者の事実はほとんどみな前者の中に含まれているので、いたずらに反復に陥るのををさけるために避けたのである。と記載されております。

⇒⇒解釈としては、同じことが記載されているので、反復をさけるため避けたのであり、ということであり、基本的には、『宋書』『梁書』『隋書』と比較して新史実がないから、+アルファの史料価値部分がないと受け止めました。そもそもは、『宋書』『梁書』『隋書』とは同等であり、逆に、『宋書』『梁書』『隋書』がなく、『北史』だけしか存在しなければ、史料価値は高いものでしょう。 そもそも北史の編纂にあたった李延寿は、『隋書』や『晋書』の編纂にもあたった人物です。石原さんの解説を読めば、『北史』と『隋書』は同じ内容なので、同じく記載されている部分は同等の史料価値とみております。(石原さんは反復をさけるため、+アルファの部分がないから)と言っております。 『北史』は中国歴代王朝が認めた歴史書二十四史の「正史」です。「三国志」も二十四史の一つで、「正史」です。

●なお、ねこぱんださんは、『失われた九州王朝』のなかで、隋書の「南北三月行」について、沖縄を含めた行程を提示しています。九州からはみでることは前提になっています。とおっしゃいました。

魏志倭人伝を、読んだ際には、近畿説の文献上の根拠はない、と、上記の基本論拠の中において、お認め頂いたものと受け止めました。

ねこぱんださんは沖縄説の論者なのかと思います。ただ、南北三月行、『各至於海』と記載されておりまして、南の海に至るまで三月行です。南岸に到達するまでが三月行です。新唐書や旧唐書ではさらに島にいることを強調して「居島、東西五月行、南北三月行」と説明しています。

●”方角”と”距離”を論拠として、文献的に九州に存在することを主張している論者や書籍は多く存在しています。「12,000里」と方角「南」は「九州内」と多くの論者が言っています。 さらに、北史では”旅程日数”のあいまいさが解決。北史に関しては、李延寿さんの南史という歴史書(発行元:唐659年)を読んだら、「倭国、その先祖の出た場所や所在については北史が詳しい。」と太鼓判を押して言っております。 石原さんは、北史の価値そのものを否定しておりません。「新史実なく」と断っております。

●ところで、ねこぱんださんは、後世の史料を使うのはいかがか?とおっしゃっておりました。私は「良いと思っております」が、なぜ、後世の石原さんの史料を持ち出すのでしょうか?矛盾です。お教え願います。  600年代からすれば、2000年前後はもっと後世では?

●北史にも邪馬台国は登場します。邪馬台国は邪馬台国です。日本で言う『古事記』・『日本書記』のようなものではないでしょうか?邪馬台国への行程は「魏志」「梁書」「北史」に登場します。その点はどのようにお考えなのでしょうか?お教え願います。

・礼儀正しく、新人を歓迎しよう

署名一つまともに出来ない方に「礼儀正しく、新人を歓迎しよう」などといわれるすじあいはないのですが、編集強行はひどいですね。でも、石原洋三郎さんの説を記述されているようですので、端的におうかがいします。「石原洋三郎は●●(書名もしくは論文名、発行年月日)のなかで、以下のように主張している」の●●を埋めてください。それがなければ独自研究としてすべて除去します。主語は「石原洋三郎」ですよ。おまちがえなく。 --ねこぱんだ会話2016年10月13日 (木) 13:33 (UTC)

⇒⇒⇒私の質問にご回答、お願い致します。尚、北史倭国伝で記述した「邪馬台国」は原文です。原文を消す方がおかしいです。

南史『倭國、其”先所出”及”所在”、事詳北史』について

私は、何度もねこぱんださんの●●と▲▲について、ご質問にお答え申し上げております。

尚、南史においては、『倭国の”先祖の出た場所(出身場所)”と、及び、”所在地”については北史に詳しい事が記載されております。』と説明されております。

北史では、場所について『阿蘇山』の説明と、邪馬台国への道程が記述されております。 原文に記載されている、事実です。

あなたが原文を読んで考えて記述したことを、Wikipediaでは独自研究と呼びます。それは、除去の対象となります。原文そのものも同様です。あなたは自分で独自研究だとお認めになったので、除去しますよ。もうこれ以上の議論はいりません。なお、わたしは昔は古田武彦さんの本を読んでなるほどと思っていましたが、いまは小路田泰直さんの意見に、なるほどと思っているというところです。 --ねこぱんだ会話2016年10月14日 (金) 13:35 (UTC)
利用者:ねこぱんださんの意見に賛同します。これ以上、利用者:Stonenameさんが強行姿勢を示すようなことがあれば、署名をしないことも加えた上でブロック依頼をしたほうがいいかもしれないと思っています。--TempuraDON会話2016年10月14日 (金) 13:43 (UTC)
利用者:ねこぱんださんTempuraDONさんの意見に賛同します。Wikipediaのルールを理解できない・守れない人にこれ以上の編集を許す必要はないと思います。--Joffed会話2016年10月14日 (金) 22:10 (UTC)

●●さんの『▲▲』は何度も答えております

今までも、どんどん削除して頂き、ありがとうございます。

まったく、考えていないですよ。南史『倭國、其”先所出”及”所在”、事詳北史』と記載されており、北史では「阿蘇山」が記載されています。これを考えているとは言わないです。

南史では、『倭國、其”先所出”及”所在”、事詳北史』と記載されていて、北史では「邪馬台国への行程」と「阿蘇山」が記載されている。(考えている余地なし)

⇒⇒⇒わたしは●●さんの『▲▲』という本(論文)(発行元と年月)を読んだら、北史が論拠とされていたので、Wikipediaの編集に参加しました」の●●と▲▲を埋めてください。の条件を満たしておりますが、なぜでしょうか? お教え願います。

⇒⇒⇒そして、私の質問には一切、答えていないのはなぜでしょうか?お教え願います。

⇒⇒⇒北史倭国伝の原文のみを記述して、削除するのは、なぜでしょうか?「意見や思考は」入っていないですよ。

・善意を前提にしよう。

ねこぱんださん。例えば、下記を例にも教えて下さい。

注意書きで記載されておりますが、 『情報源を明記することと独自研究を避けることは、密接に関わり合っています。独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。』

情報源・・・南史『倭國、其”先所出”及”所在”、事詳北史』北史・・・『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海』『水行二十日、水行十日陸行一月』『阿蘇山』


(記載例) 北史では、『その国境、東西五月行、南北三月行、各至於海』と説明しております。そして邪馬台国への行程として、水行二十日、水行十日陸行一月と説明しております。 南史では、『倭国の先祖の出た出身場所、および、どこにあるのかについては、北史が詳しい』と説明しております。北史では『邪馬台国への行程』と『阿蘇山』が説明されております。(参考文献:魏志・北史・南史) ⇒⇒⇒どの部分が独自研究なのでしょうか?

⇒⇒⇒また、以下の原文が削除される理由はなぜなのでしょうか?「邪馬台国」ウィキペディアのページなのに?邪馬台国の原文が削除されます。

倭國在百濟 新羅東南 水陸三千里 於大海中依山島而居 魏時 譯通中國三十餘國 皆稱 子 夷人不知里數 但計以日 其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢 東高西下 居於邪摩堆 則魏志所謂 邪馬臺者也 又云 去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里 在會稽東 與儋耳相近 俗皆文身 自 云太伯之後 計從帶方至倭國 循海水行 歴朝鮮國 乍南乍東 七千餘里 始度一海 又南千餘里 度一 海 闊千餘里 名瀚海至一支國 又度一海千餘里 名末盧國 又東南陸行五百里 至伊都 國 又東南百里 至奴國 又東行百里 至不彌國 又南水行二十日 至投馬國 又南水行十 日 陸行一月 至邪馬臺國 即倭王所都
私やねこぱんださんが言ってきたことの主旨を全く理解していないようですね。『北史』や『南史』の記述は原典資料です。それらの記述から直接「邪馬台国は文献上は九州にあるのは明白」と主張したら、Wikipediaのルール上それは独自研究となるのです(利用者:Stonenameさんの行為は「Wikipedia:独自研究は載せない」の「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」です)。ねこぱんださんが仰っている「●●さんの『▲▲』という本(論文)」というのは、現代の日本古代史や考古学の学界で研究者として研究実績があると認められた人および著作のことです。これらの人や著作が「『北史』や『南史』の記述から邪馬台国は文献上は九州にあるのは明白」と主張していることを証明できない限り、Wikipediaに載せることはできません。従って李延寿の『北史』や『南史』そのものを持ち出しても(当然その他の正史の記述を持ち出しても)無意味です。--Joffed会話2016年10月14日 (金) 22:10 (UTC)
利用者:Stonenameさん、あなたの主張のどこが問題であるかは、簡単に言えばこういうことです。
「南史では、『倭國、其”先所出”及”所在”、事詳北史』と記載されている」「北史では「邪馬台国への行程」と「阿蘇山」が記載されている」従って「邪馬台国は文献上は九州にあるのは明白である」
「従って」以下の記述が「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」(独自研究)であり、Wikipedia上でのルール違反に当たります。--Joffed会話2016年10月15日 (土) 00:23 (UTC)
利用者:Stonenameさんの問題は、上に書いていることで十分であり、ねこぱんださんも議論を続けるつもりはないとのことなので、これ以上書く必要はありませんが、一つ付け加えると、『北史』(『隋書』も同様)には「邪馬台国に阿蘇山がある」と記してはいません。『北史』(『隋書』も同様)で「有阿蘇山」という記述は「至(隋の)開皇二十年」の後にあります。ですからこれは「隋代の倭国」についての記述であって、魏の時代の邪馬台国についての記述ではありません。従って「隋代の倭国に阿蘇山がある」とは言えても、「魏の時代の邪馬台国に阿蘇山がある」ということは文献上からも言えません。--Joffed会話2016年10月15日 (土) 02:15 (UTC)


Joffedさん、早速のご回答を頂きまして、誠にありがとうございます。ただ、一方において、Joffedさんのご回答も私にとりましては、難解であったということです。

ウィキペディアでの説明では、『情報源を明記することと独自研究を避けることは、密接に関わり合っています。独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。』とあります。私はこれに従って、「邪馬台国」について今まで記述してまいりました。

(あくまでも、一例ですが) 情報源・・・南史『倭國、其”先所出”及”所在”、事詳北史』 南史では、『倭国の、その先祖の出た場所(出身地)、および、その所在(どこにあるのか)については北史に詳しいことが記述されております』との説明です。(ただ単純に現代語訳しただけです) 北史では、詳しく説明されている場所は、『阿蘇山』、および、邪馬台国への行程詳しく記述されております。(ただ、事実を記したのみです) 参考文献は「北史」と「南史」です。

また、「情報の合成」に関しても、難解です。関連性のない独立したAとBをつなぎ合わせたものではありません。あくまでも南史では「北史に詳しいことが記述されております」と記載されており、南史と北史は関連性のあるAとBであります。 また、私は温故知新のつもりで、ウィキペディアに書き込みをしました。新たに発表したものではなく、あくまでも、既に南史・北史・魏志など他、既に記述(公表)されているものを、その資料に記された内容を記述しただけのつもりであります。 私が初めて言ったのではなく、北史・南史・魏志で既に説明している内容であります。(参考文献・・・南史『倭国の、その先祖の出た場所(出身地)、および、その所在(どこにあるのか)については北史に詳しいことが記述されております』、北史で詳しく説明されている場所は、『阿蘇山』です。)(私は、温故知新のつもりで、現代語訳・記入しただけです。参考文献も明示しております。) 他にも例えば、倭国の領域は、東西五月行、南北三月行で、それぞれ海に至ります。帯方郡から邪馬台国への総距離は「12000里」です。方角は不弥国から「南」です。旅程日数は水行20日に、水行10日陸行一月です(南北三月行の範囲内です)。(参考文献:北史・魏志など)

また、TempuraDONさんの説明も難解であります。邪馬台国の記述に関して、私が原文を加筆したことよりも、むしろ、邪馬台国の原文を削除した人の方が、私にはおかしいと思う訳であります。邪馬台国の原文を加筆したら、処分されるのは?理解不能。むしろ、何度も邪馬台国の原文を削除する方がおかしいのでは?と思うのであります。あるいは、私が記入したものに対し、参考文献を明示しているのに、削除する方がおかしいのでは?と思うのであります。 ⇒⇒⇒(参考例)以下の原文が削除される理由が、不明です。「邪馬台国」のページなのに?

倭國在百濟 新羅東南 水陸三千里 於大海中依山島而居 魏時 譯通中國三十餘國 皆稱 子 夷人不知里數 但計以日 其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢 東高西下 居於邪摩堆 則魏志所謂 邪馬臺者也 又云 去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里 在會稽東 與儋耳相近 俗皆文身 自 云太伯之後 計從帶方至倭國 循海水行 歴朝鮮國 乍南乍東 七千餘里 始度一海 又南千餘里 度一 海 闊千餘里 名瀚海至一支國 又度一海千餘里 名末盧國 又東南陸行五百里 至伊都 國 又東南百里 至奴國 又東行百里 至不彌國 又南水行二十日 至投馬國 又南水行十 日 陸行一月 至邪馬臺國 即倭王所都

非常に摩訶不思議で難解であります。平行線です。しばらくの間、この難解(困難)に対して、考察は、してみようと思います。皆さんには、何度も、お付き合い頂き、お返事を頂いたことには感謝申し上げます。 秋も深まって参りました。ねこぱんださんも「これ以上、議論を続けるつもりはない」とのことでありますが、ねこぱんださんにもよろしくお伝え願います。

私がずっと言っているのは、Wikipediaのルールについてです(「Wikipedia:独自研究は載せない」の「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」)。あなたのどこが問題であるか、これまで散々指摘されていますし、あなた以外の議論に参加した人はみな理解できています。あなたがWikipediaのルールを理解できないというのならば、それはあなたが自分の非を認められないか、人の話をまともに聞いていないか、日本語読解能力が無いかのどれか(あるいは全部)です。どちらにしてもルールを理解できるまでWikipediaに書き込むのはやめなさい。こちらもこれ以上議論する気はありませんし、同じ事を繰り返すようでしたら、しかるべき所に通報することでしょう。--Joffed会話2016年10月16日 (日) 23:42 (UTC)
繰り返しますが、阿蘇山と邪馬台国は文献上無関係です。邪馬台国から400年近く後の「隋代の倭国」に関する『北史』(及び『隋書』)の記述「有阿蘇山」が邪馬台国と関係ないこと(従って記事に取り上げるまでもないこと)は明白です。--Joffed会話2016年10月17日 (月) 06:05 (UTC)

Joffedさん ご回答、誠にありがとうございます。ちなみに南史の『倭國、其”先所出”及”所在”、事詳北史』と北史の「阿蘇山」の記述を関連付けて説明したのは、このノートの議論の中での最終版のみです。 邪馬台国の編集部分では、記述しておりませんし、あくまでも「南北三月行」「水行20日」「水行10日陸行一月」を記述して、南北三月行の範囲内ですね。ということを視点にて説明したところです。これは情報の合成ではないです。 また、終盤は、邪馬台国の原文を書き込んだだけです。削除するのはいかがなものでしょうか。と伺ったところです。よろしくお願い申し上げます。 いろいろとありがとうございます。

コメント 会話には署名を残していただき、会話を読み易くするためにインデントを利用してください。よろしくお願いします。--青鬼よし会話2016年11月6日 (日) 02:35 (UTC)

  • 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) 石原道博編訳 岩波文庫』P17によれば、『北史』は新史実なく(魏志や隋書と同様の記述がなされているので)、資料価値は低いとしていますが、「資料価値が全くない」とは言っておりません。(又、新史料がある場合は、価値が高いと述べています。南北三月行の概念は新たに検証されるべき価値の高い事項です。)又、P36文字の校訂以外なんら価値はないとは言いつつも、魏志や隋書などの説明で、度々、北史が活用されています。このことは、検証可能性があることを示しています。P31、P36によれば、『隋書』は『魏略』『魏志』『後漢書』と『宋書』『梁書』とを参考にしながら、総合的に記述されているとのことで、北史は『梁書』・『隋書』によっているとのこと。P17によれば、『三国志』と『後漢書』、『宋書』と『南斉書』、『晋書』『梁書』と『隋書』、『南史』と『北史』の四グループに考えられるが、その記述内容はお互いに密接な関係を持っている点が特徴と述べております。石原道博氏によれば、北史は、史料価値が第一等である『三国志』と『後漢書』、『隋書』によって記述されていることになります。
  • 小学館大辞泉によれば、「公正・詳密な記述で史料的価値が高い。」とあります。
  • 精選版 日本国語大辞典によれば、「詳密な記述で史料価値が高い。」とあります。
  • ウィキペディアの「北史」でも史料価値が高いとされています。
  • ウィキペディアの「北史倭国伝」でも史料価値が高いとされています。

--Stonename会話2019年12月18日 (水) 05:38 (UTC)

長い間、待たせて頂きました。ご理解を頂いたものと受けとめさせて頂きます。 --Stonename会話2020年4月2日 (木) 03:15 (UTC)

ねこぱんださんより、「いつのまにか自費出版されていたのですね。存じ上げず、失礼しました。論争するつもりはないですが、「南北三月」は佐渡から土佐です。昔の日本は、陸奥は東、薩摩は西としてとらえられています(東山道と西海道という名称をみればわかります)。佐渡は北陸道、土佐は南海道に属します。それは現実の地理感覚ではないのかもしれませんが、認識としてそうなっていますので。」とのこと。

『論争するつもりはない』とのことで、ありがとうございます。中立的な観点をはじめとするWikipedia三大方針に意を用いて、今後とも取り組んで行きたいと思います。 ありがとうございます。--Stonename会話2020年4月16日 (木) 20:26 (UTC)

論争はしませんが、むだな記述は除去したほうがいいでしょう。北史が三国志をなぞっていることをわざわざ比較する意味はどこにあるのですか。 --ねこぱんだ会話2020年5月3日 (日) 12:36 (UTC)


ねこぱんださんへ、申し訳ありませんが、下記をご覧頂けますよう、お願い致します。 ありがとうございます。

Stonenameノート

--Stonename会話2020年5月4日 (月) 07:08 (UTC)

「邪」のピンインについて

この記事では現代中国語の「邪馬台国」の「邪」のピンインがxie2とされているが、実はye2と読む場合がある。特に名前の一部にされる場合。例えば名剣の鋳造者である「莫邪」の正しい読みは「mo4 xie2」ではなく、「mo4 ye2」とされている。 --以上の署名の無いコメントは、175.33.109.71会話/Whois IPv4IPv6)さんが 2017年3月23日 (木) 12:22 (UTC) に投稿したものです。