ティンキャン大聖堂

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ティンキャン大聖堂

ティンキャン大聖堂 (英語: Tin Can Cathedral; ウクライナ語: Бляшана Катедра) は北米における最初の独立したウクライナ教会である。セラフィム教会の中心で、カナダ、ウィニペグ市で創立され、ヨーロッパのどの教会にも属していない。

ウクライナからのカナダへの移民は1891年、主にオーストリア-ハンガリー州、ブコビナガリツィアから到着し始めた。ブコビナからの新移住者は東方正教会、ガリツィアからは東方カトリックであった。どちらもビザンチン儀式に親しんでいた。1903年までにはカナダ西部へのウクライナからの移民人口は宗教家、政治家、教育者などの注目を集めるほどに大きくなった。

原則[編集]

ウイニペグにおけるウクライナ・コミュニティーの中心的な人物はシリル・ゲニック(1857-1925)であった。彼はガリツィアの出身でリヴィーウのウクライナ・アカデミック高校を卒業し、チェル二ツィー大学で短期間法律を学んだ[1]。ゲニックはウクライナの「フォックス・ミキタ」[2]の著者で文学部門でノーベル賞候補に挙がったことのあるイワン・フランコの友人である。フランコの当時の聖職者に対する辛辣な皮肉や社会主義的傾向はゲニックと分かち合ったと思われ、ゲニックはフランコの結婚式のベストマンであった。土地制度の改革と共に聖職者集団の解雇は教会階層と共謀して土地管理を維持する不在地主の束縛から小作農民を解放する一つの方法であった。カナダに到着したゲニックはカナダ政府によって雇用された最初のウクライナ人であり、移民代行人として入植者を農場に案内した。ゲニックのいとこイワン・ボドラグ(1874-1952)とボドラグの友人、イワン・ネグリッチ(1875-1946)はコロメア地方のべレズィーブ村の出身で、ガリツィアでは小学校の教師の資格があった[1]。これらの3名はウクライナコミュニティーのインテリの核を成し、三人組と知られていた。この3名の中で最年長のゲニックだけが結婚していた。彼の妻ポーリーン(旧姓ツルコスキー)は司祭の娘で、学のある女性で3人の息子と3人の娘があった[3]

他の主要人物はセラフィム司教で、実名はステファン・ウストボルスキーである。ウストボルスキーはサンクトペテルブルクのロシア聖教会会議によって聖職を剥奪されてしまった。しかし彼の経歴は個人的な理由でアトス山に旅し、司教であると主張する聖アンフィムによって任命された時から始まる。当時ロシア聖教会会議とロシア皇帝がロシア正教会を制御しようともがいており、聖アンフィムは皇帝に対する恨みからウストボルスキーを任命した。(少なくともこれが彼が新世界へ持ってきた話である)[4] 司教として任命されていたセラフィムは北米に旅しフィラデルフィアのウクライナ人司教の所に短期滞在した。彼がウイ二ペグに到着した時にはロシア正教会やその他の誰に対しても忠誠心はなかった。平原に住むウクライナ人はキリスト教の起源から続いている伝統により彼を巡業聖職者として受け止めた[5]

結果的にティンキャン大聖堂の創立となったイベントに参加したもう一人の人物はマカリイ・マルチェンコである。マルチェンコは助祭、又は先唱者として彼にとってなじみ深い教会礼拝でセラフィムを助けた。彼はセラフィムと共に米国から到着した。ローマ法王と直にコンタクトがあった西部カナダのローマカトリック教区の長であったランジェヴァン大司教がセント・ボニフェス地区にいた。彼は司祭たちがウクライナ人口のニーズに応えるためには適切以上であると判断した[6]。他の参与者はウイ二ペグ長老派教会マニトバ・カレッジ学長、ドクター・ウイリアム・パトリック、マニトバ州自由党、北米ロシア正教会宣教会の長、ティーホン司教とロシア正教会宣教師達である。

イベント[編集]

一つの事件が次のドラマを引き起こしたとすると、マニトバ州議員の一人、ジョセフ・バーニエーが1902年にローマ教会の下でローマと共有しているギリシャ・ルーシ人(ウクライナ人はルーシ人とも言われた)の土地を社団法人の制御下にする示唆を入れた条例を紹介した時かもしれない[7]。ランジェヴァン大司教は「ルーシ人はプロテスタントのようであってはいけない。教会に土地を引き渡してカトリックとして自己を証明しなくてはならないと司祭、司教から独立している個人、平信徒の委員会に宣言した[8]。平原のウクライナ人口はロシア正教会宣教師にとって魅力があった。その当時ロシア正教会は米国における宣教活動に年10万ドルを費やしていた[4]。また長老派教会がウクライナコミュニティーの若者に関心を持ち、マニトバカレッジ(現在のウイ二ペグ大学)に出席するよう招待した。そこでは教師、(後に独立したギリシャ教会牧師)[9] になりたい若いウクライナ人のため特別クラスが開かれた。ドイツ語の堪能なカレッジ学長のドクター・キングがドイツ語で候補者、ボドラグとネグリッチのインタビューを行った。ゲニックが学業成績書をポーランド語から英語に訳した。彼らは北米最初のウクライナ人大学生となった。マニトバカレッジは当時マニトバ大学の一部であった。

内部ティンキャン大聖堂, 1905

ゲニック、ボドラグ、ネグリッチはコミュニティーの確保に急いだ[10]。彼らはセラフィムを呼んだ。彼はヨーロッパのいかなる教会からも独立し、平原のウクライナ新移住者の魂を張り合う他のいかなる宗教グループに忠誠を示さない教会を設立するために1903[11] 年4月ウイ二ペグに到着した。 彼らの意向を満たしてセラフィムは正ロシア教会(ロシア正教会ではなく)を立ち上げ、自分がその長となり、ウクライナ人を懐柔した。この教会はセラフィム教会とも呼ばれた。彼は教会員に彼らが親しんでいる東方正教会の儀式典礼を提供し、先唱者、助祭を任じた。そして1903年12月13日、マニトバとプリチャード・アベニューの間のマグレゴー・ストリートの東側の小さい骨組みの建物(ホーリーゴースト教会と呼ばれていたかもしれない)が正式にセラフィムによって祝福され、礼拝のためオープンした[12]。1904年11月に彼はその悪名高い金属や木の断片で作られた「ティンキャン大聖堂」をキング・ストリートとステラ・アベニューに建て始めた[13]。カリスマ的なセラフィムは50名の司祭と数多くの助祭、その多くは文盲、を任じ、彼らは司祭の義務を各入植地で果たし、独立した正説と教会地所の理事所有を説いた。2年間のうちにこの教会は6万人近くの信者がいると公表した[14]

アルコールによる様々な軽率な行動や問題で、[10] 彼はウイ二ペグに招待したインテリの信用を失い、ボドラグらは教会員を失わずに彼を除去するべくクーデターを起こした。セラフィムはサンクトペテルブルクに行き評価を得ようし、またロシア聖教会会議から盛況のセラフィム教会のために助成金を得ようとした。彼の留守の間に既にマニトバカレッジの神学生であったイワン・ボドラグとイワン・ネグリッチは将来的には長老派教会のモデルに移行することを基に長老派教会から助成金の保証を得ていた。1904年の晩秋、セラフィムはロシアから帰還したが、何の助成金も持って来なかった[15]。帰還後裏切りを発見し、即刻この背信に関与した全ての司祭を破門した。彼は地元新聞にあたかも犯罪者のように背信した部下の名前を胸に横書きした写真を載せた[16]。彼自身と彼の司祭全員がロシア聖教会会議から破門されたとの言葉を受け取った時、彼の復讐は止み1908年にウイ二ペグを去り、戻ることはなかった[14]

結果[編集]

この社会的、精神的な小さな危機的状況が平原を襲った時、ウクライナ系カナダ人コミュニティーは立ち上がった。

セラフィム教会の反逆者の一人、イワン・ボドラグが独立教会の新しい長となった。彼は長老派の影響で福音主義のキリスト教を説き、彼なりにかなりのカリスマ的司祭であった。彼は1950年代まで生きた。独立教会の建物はプリチャード・アベニューとマグレゴー・ストリートの角に位置し、セラフィムの最初の教会は破壊されたが、長老派教会の助成金によって建てられた二番目の建物はウイ二ペグのノースエンド、レイバー・テンプルの向かいに今でも立っている[17]

ランジェヴァン大司教はウクライナコミュニティーをローマカトリックの傘下に融合しようと尽力した。 彼は聖ニコラスのバシリウス教会を設立し、ベルギー人の司祭、アキリー・デレアーその他を連れて来た。彼らは旧スロベニア教会のミサを読み、ギリシャ儀式に従ったをまとい、ポーランド語で説教をした。この教会はウイ二ペグのノースエンド、マグレゴー・ストリートの聖ブラドミア・オルガの独立ウクライナカトリック大聖堂の向かいにあった。このような競争はウクライナ系カナダ人の子供たちにとってウクライナ語を学ぶ大きな機会を提供した[16]

当時ローマカトリックは保守党と結びついていて、ウクライナ人はランジェヴァン大司教とは関連がないことを知っていた自由党はカナダで最初のウクライナ語の新聞、Kanadiskyi Farmer (カナダの農家)に助成金を出した。そしてその編集長は他でもないイワン・ネグレッチであった。

セラフィムは1908年に消えたがUkrainskyi Holosウクライナの声(現在もウイ二ペグで発行)新聞に彼のその後が書かれている。1913年ごろまでブリティッシュ・コロンビア州で鉄道労働者に聖書を売っていた、そして他の異説はロシアに帰ったと。

セリル・ゲニックは長女と息子の一人と共に米国、ノースダコタに移ったが、しばらくしてウイ二ペグに戻り、1925年に亡くなった。

マカリー・マルチェンコはセラフィムが去った後、セラフィム教会の新司教と名乗ったばかりでなく、総主教、教皇、首長王子と宣言した。そして我が身を守るため、又はえこひいきのないようにとローマ法王とロシア聖教会会議を破門にした[14]。彼は1930年ごろまで地方のウクライナコミュニティーに行き、コミュニティーが望んでいた東方儀式を提供していたとの記録がある。

脚注[編集]

  1. ^ a b Martynowych, Orest T. Ukrainians in Canada: The Formative Period, 1891-1924. Canadian Institute of Ukrainian Studies Press, University of Alberta, Edmonton, 1991, page 170.
  2. ^ Franko, Ivan; Kurelek, William; Melnyk, Bohdan (1978). Fox Mykyta. Tundra Books, Montreal. ISBN 0887761127.
  3. ^ Hryniuk, Stella. Dictionary of Canadian Biography Online, www.biographi.ca/EN/009004-119.01-e.php?id_nbr=8154
  4. ^ a b Mitchell, Nick. Ukrainian-Canadian History as Theatre in The Ukrainian Experience in Canada: Reflections 1994, Editors: Gerus, Oleh W.; Gerus-Tarnawecka, Iraida; Jarmus, Stephan, The Ukrainian Academy of Arts and Sciences in Canada, Winnipeg, page 226
  5. ^ Mitchell, Nick. The Mythology of Exile in Jewish, Mennonite and Ukrainian Canadian Writing in A Sharing of Diversities, Proceedings of the Jewish Mennonite Ukrainian Conference, “Building Bridges”, General Editor: Stambrook, Fred, Canadian Plains Research Center, University of Regina, 1999, page 188.
  6. ^ Martynowych, Orest T. Ukrainians in Canada: The Formative Period, 1891-1924. Canadian Institute of Ukrainian Studies Press, University of Alberta, Edmonton, 1991, page 184.
  7. ^ Martynowych, Orest T. Ukrainians in Canada: The Formative Period, 1891-1924. Canadian Institute of Ukrainian Studies Press, University of Alberta, Edmonton, 1991, page 189.
  8. ^ Winnipeg Tribune 25 February 1903.
  9. ^ Martynowych, Orest T. Ukrainians in Canada: The Formative Period, 1891-1924. Canadian Institute of Ukrainian Studies Press, University of Alberta, Edmonton, 1991, page 192
  10. ^ a b Yereniuk, Roman, A Short Historical Outline of the Ukrainian Orthodox Church of Canada, www.uocc.ca/pdf, page 9
  11. ^ Martynowych, Orest T. Ukrainians in Canada: The Formative Period, 1891-1924. Canadian Institute of Ukrainian Studies Press, University of Alberta, Edmonton, 1991, page 190
  12. ^ Martynowych, Orest T., The Seraphimite, Independent Greek, Presbyterian and United Churches, umanitoba.ca/...canadian.../05_The_Seraphimite_Independent_Greek_Presbyterian_and_United_Churches.pdf -, page 2
  13. ^ Martynowych, Orest T., The Seraphimite, Independent Greek, Presbyterian and United Churches, umanitoba.ca/...canadian.../05_The_Seraphimite_Independent_Greek_Presbyterian_and_United_Churches.pdf -, page 1
  14. ^ a b c Bodrug, Ivan. Independent Orthodox Church: Memoirs Pertaining to the History of a Ukrainian Canadian Church in the Years 1903-1913, translators: Bodrug, Edward; Biddle, Lydia, Toronto, Ukrainian Research Foundation, 1982, page xiii
  15. ^ Bodrug, Ivan. Independent Orthodox Church: Memoirs Pertaining to the History of a Ukrainian Canadian Church in the Years 1903-1913, translators: Bodrug, Edward; Biddle, Lydia, Toronto, Ukrainian Research Foundation, 1982, page 81
  16. ^ a b Mitchell, Nick. Ukrainian-Canadian History as Theatre in The Ukrainian Experience in Canada: Reflections 1994, Editors: Gerus, Oleh W.; Gerus-Tarnawecka, Iraida; Jarmus, Stephan, The Ukrainian Academy of Arts and Sciences in Canada, Winnipeg, page 229
  17. ^ Martynowych, Orest T. Ukrainians in Canada: The Formative Period, 1891-1924. Canadian Institute of Ukrainian Studies Press, University of Alberta, Edmonton, 1991, photograph 47.

参考文献[編集]

  • Bodrug, Ivan. Independent Orthodox Church: Memoirs Pertaining to the History of a Ukrainian Canadian Church in the Years 1903-1913, translators: Bodrug, Edward; Biddle, Lydia, Toronto, Ukrainian Research Foundation, 1982.
  • Manitoba Free Press, issues of 10 October 1904, 20 January 1905, 28 December 1905.
  • Martynowych, Orest T. (2011). The Seraphimite, Independent Greek, Presbyterian and United Churches.
  • Martynowych, Orest T. Ukrainians in Canada: The Formative Period, 1891-1924. Canadian Institute of Ukrainian Studies Press, University of Alberta, Edmonton, 1991.
  • Maruschak, M. The Ukrainian Canadians: A History, 2nd ed., Winnipeg: The Ukrainian Academy of Arts and Sciences in Canada, 1982.
  • Mitchell, Nick. The Mythology of Exile in Jewish, Mennonite and Ukrainian Canadian Writing in A Sharing of Diversities, Proceedings of the Jewish Mennonite Ukrainian Conference, "Building Bridges", General Editor: Stambrook, Fred, Canadian Plains Research Center, University of Regina, 1999.
  • Mitchell, Nick. Ukrainian-Canadian History as Theatre in The Ukrainian Experience in Canada: Reflections 1994, Editors: Gerus, Oleh W.; Gerus-Tarnawecka, Iraida; Jarmus, Stephan, The Ukrainian Academy of Arts and Sciences in Canada, Winnipeg.
  • Winnipeg Tribune, issue of 25 February 1903.
  • Yereniuk, Roman, A Short Historical Outline of the Ukrainian Orthodox Church of Canada.

外部リンク[編集]

座標: 北緯49度54分44.1秒 西経97度08分2.9秒 / 北緯49.912250度 西経97.134139度 / 49.912250; -97.134139