スベトラーナ・ホルキナ

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スヴェトラーナ・ホルキナ Gymnastics (artistic) pictogram.svg
PutinKhorkina.jpg
2001年
選手情報
フルネーム ロシア語: Светлана Васильевна Хоркина
愛称 女王(Queen)
国籍 ロシアの旗 ロシア
生年月日 (1979-01-19) 1979年1月19日(39歳)
生誕地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦ベルゴロド
身長 164cm
種目 女子体操競技
引退 2004年
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スヴェトラーナ・ホルキナ (Svetlana Vasilyevna Khorkina、1979年1月19日 - )はロシアの元女子体操競技選手で政治家

略歴[編集]

体操選手時代[編集]

5歳で体操を始め、1991年に12歳でナショナルチーム入り。1990年代中盤-2000年代前半と、長期間にわたってトップ選手として活躍した。

1995年6月、欧州選手権で個人総合優勝。同年10月、初出場の世界選手権(福井県鯖江市)で段違い平行棒で優勝。以後、複数の新技を発表し、圧倒的な強さで五連覇する。1997年世界体操競技選手権(ローザンヌ)で個人総合初優勝。

2000年シドニーオリンピックでは、跳馬の不具合によるミス[1] や段違い平行棒の落下から個人総合は11位に沈んだ。団体でも段違い平行棒で落下し優勝を逃していただけに、得意の段違い平行棒で二連覇を果たした瞬間、涙を流した。

2003年世界体操競技選手権アナハイム)個人総合では、予選3位から最終種目の床運動で逆転優勝し、連覇。床は2位のカーリー・パターソンをして「まるで女優のよう」と感嘆させる演技だった。一方、予選1位の段違い平行棒では2度落下したため7位だった。同大会期間中に、翌2004年での引退を明言した。

最後の五輪となった、2004年アテネオリンピックでは、会場のファンから圧倒的な声援を受けた[2] が、個人総合でC・パターソンに敗れ銀メダルとなり、悲願の優勝は叶わなかった。競技終了後は多くの選手と握手を交わし、表彰式にはわざわざレオタードを着替えて臨んだ。種目別の段違い平行棒ではまさかの落下に終わり三連覇を絶たれ、ショックからか全選手の演技終了を待たずに退場し、メダル獲得者によるガラにも姿を見せなかった。さらに日程終了後の記者会見では「私は、オリンピックチャンピオン」と発言。同五輪では男子に採点トラブルが発生しており[3]、また、会見以前に、ホルキナから採点に不満を示す趣旨の発言があったことから、真意を問う質問が集中した。

2004年12月、ロシア体操連盟の副会長に選出された。

政治家時代[編集]

2009年10月撮影

2007年に、与党・統一ロシアからロシア連邦議会下院(ロシア国家院)議員に当選。なおこの選挙では、元新体操選手のアリーナ・カバエワらも当選している。

2009年1月には、スポーツ議員団の一員として来日した[4]

体操選手としての特徴[編集]

約10年もの長期間にわたりエースとして活躍。164cmと体操選手としては極めて長身であり、少女期に新体操に取り組んだ時期もあった。

特に段違い平行棒においては、他を寄せ付けない圧倒的な強さがあった。自ら開発した飛び越し技(背面ひねり飛び越し懸垂=男子鉄棒マルケロフと同技)を武器に、オリンピック連覇・世界選手権五連覇をはじめとする驚異的な連勝記録も達成した。個人総合においても常に優勝候補と目され、世界選手権では3度優勝したが、オリンピックでの優勝はついに叶わなかった。

名前について[編集]

名字のホルキナを、Chorkinaとする表記もあるため、国際大会デビュー当初の日本語表記は「チョルキナ」とされていた。しかし、1995年世界体操競技選手権(福井県鯖江市)中に、場内アナウンスを聴いた本人の申し入れにより表記が「ホルキナ」に改められた[5]

脚注[編集]

  1. ^ 不具合の発覚後、該当選手はやり直しも可能だったが、ホルキナは希望しなかった
  2. ^ 2004年8月20日 朝日新聞「新旧女王の宴 カーリー・パターソンが優勝」
  3. ^ 男子個人総合で採点ミス、種目別鉄棒で観客のブーイングにより得点が変更。これらの採点トラブルから、10点満点制が廃止となった。
  4. ^ 外務省:ロシア・スポーツ関係議員の訪日について
  5. ^ 1995年10月8日 読売新聞「体操 世界選手権鯖江大会第7日 日本女子も五輪切符 ルーマニアがV」

外部リンク[編集]