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== 経歴 ==
== 経歴 ==
広島市生まれ、[[喘息]]の持病のため12歳から[[尾道市]]の山寺で療養しながら育つ。[[1976年]][[慶應義塾大学]][[法学部]]卒業。[[AKAI professional|赤井電機]]に入社し貿易部門に5年間勤務、[[中近東]]、[[ヨーロッパ|欧州]]市場を主に担当した。しかし病気の発症で度々会社を休んだ。[[1981年]]、外資系[[ベンチャーキャピタル]]・「ジャミール・エス・アイ」入社(取締役)。[[1984年]]同社退職後、デザイン会社や映像ソフト輸入会社を経て[[1986年]]、「[[ギャガ|ギャガ・コミュニケーションズ]]」を設立。[[ビデオデッキ]]や[[レンタルビデオ]]店の登場で、ビデオ用ソフトが絶対に当たると読み、映画の旧作や日本未公開のマイナー作品のビデオ化権を片っ端から買い付け、圏内ビデオメーカーに売り捌く、というビデオの版権ビジネスを起こし、ホームビデオに映画を流通させる仕組みを日本で最初に構築した<ref name="hokudai" >[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/32102/1/47(4)_P219-227.pdf 成長企業におけるビジネス・システムの検証:ビジネス・システムに創造されるシステム・コンピタンス]</ref><ref>[http://btcom.websv2.sunloft.co.jp/varieties/article.aspx?id=539&pg=1 トップインタビュー:星野有香(株)ギャ - 文化通信.com - 文化通信.com]</ref>。それまで、日本における映画の配給は、邦画の全国規模の劇場公開チェーンを実質的に独占する[[東宝]]、[[松竹]]、[[東映]]に[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本へラルド]]を加えた四社体制が続き、彼らは映画配給の王道は[[ロードショー]](劇場公開)と考えていて、こうした事業には関心を示さなかった<ref name="hokudai" />。当時は外国映画の日本国内でのビデオ化権を買い付けるという仕事をする人もなく、藤村自らが外国の[[映画祭]]に行き、洋画ビデオ化権を買い付けた。世界的規模でのビデオデッキの普及で、手に入れた洋画のビデオ化版権を流行し始めた[[レンタルビデオ|レンタルビデオ・ショップ]]を通じて流通させるという全く新しいビジネス・システムを構築し、洋画の流通に新たな市場を開拓した<ref name="hokudai" />。
広島市生まれ、[[喘息]]の持病のため12歳から[[尾道市]]の山寺で療養しながら育つ。[[1976年]][[慶應義塾大学]][[法学部]]卒業。[[AKAI professional|赤井電機]]に入社し貿易部門に5年間勤務、[[中近東]]、[[ヨーロッパ|欧州]]市場を主に担当した。しかし病気の発症で度々会社を休んだ。[[1981年]]、外資系[[ベンチャーキャピタル]]・「ジャミール・エス・アイ」入社(取締役)。[[1984年]]同社退職後、デザイン会社や映像ソフト輸入会社を経て[[1986年]]、「[[ギャガ|ギャガ・コミュニケーションズ]]」を設立。[[ビデオデッキ]]や[[レンタルビデオ]]店の登場で、ビデオ用ソフトが絶対に当たると読み、映画の旧作や日本未公開のマイナー作品のビデオ化権を片っ端から買い付け、圏内ビデオメーカーに売り捌く、というビデオの版権ビジネスを起こし、ホームビデオに映画を流通させる仕組みを日本で最初に構築した<ref name="hokudai" >[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/32102/1/47(4)_P219-227.pdf 成長企業におけるビジネス・システムの検証:ビジネス・システムに創造されるシステム・コンピタンス]</ref><ref>[http://btcom.websv2.sunloft.co.jp/varieties/article.aspx?id=539&pg=1 トップインタビュー:星野有香(株)ギャ - 文化通信.com - 文化通信.com]</ref>。それまで、日本における映画の配給は、邦画の全国規模の劇場公開チェーンを実質的に独占する[[東宝]]、[[松竹]]、[[東映]]に[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本へラルド]]を加えた四社体制が続き、彼らは映画配給の王道は[[ロードショー]](劇場公開)と考えていて、こうした事業には関心を示さなかった<ref name="hokudai" />。当時は外国映画の日本国内でのビデオ化権を買い付けるという仕事をする人もなく、藤村自らが外国の[[映画祭]]に行き、洋画ビデオ化権を買い漁った。あまりにも多くの作品を買い付けたため、契約書にサインしていると[[腱鞘炎]]になりそうだったという逸話も残る<ref>掛尾良夫『「ぴあ」の時代』、アイシーメディックス、2009年、p209</ref>。世界的規模でのビデオデッキの普及で、手に入れた洋画のビデオ化版権を流行し始めた[[レンタルビデオ|レンタルビデオ・ショップ]]を通じて流通させるという全く新しいビジネス・システムを構築し、洋画の流通に新たな市場を開拓した<ref name="hokudai" />。


予想通りレンタルビデオ市場の急速な拡大で業績を伸ばし、翌年[[1987年]]からは映画配給事業に進出。他社との共同買い付け方式などを取り入れ[[1995年]]、無名の[[自主映画|インディペンデント系]]製作会社と、これまた当時は無名の[[コメディアン|コメディアン俳優]]・[[ジム・キャリー]]主演の『[[マスク (1994年の映画)|マスク]]』を配給すると18億円を記録する大ヒット。翌[[1996年]]には、[[ブラッド・ピット]]主演の『[[セブン (映画)|セブン]]』、その後『[[Mr.ビーン|ビーン]]』([[1997年]])、『[[オール・アバウト・マイ・マザー]]』([[1999年]])、『[[少林サッカー]]』([[2002年]])などを大ヒットさせた。また[[ハリウッド]]のメジャー製作会社の手がけた『[[グリーンマイル]]』(1999年)、『[[ハンニバル (映画)|ハンニバル]]』、『[[シカゴ (映画)|シカゴ]]』(2002年)なども手がけ業績を拡大させた。1996年には[[松竹富士]]、[[東宝東和]]、東映、アメリカのメジャーな配給会社との競争の中で、配給シェアで第3位を記録し、映画配給におけるメジャーな「独立系」企業としての地位を確立した<ref name="hokudai" />。初年度1986年の売上げ1億5000万から2001年には売上げ200億を超すまでとなった。配給事業のみならず、フル[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]映画など[[デジタルシネマ]]の製作や[[プロジェクタ#DLP方式プロジェクタ|DLP方式]]で映画を公開するなど、[[デジタル放送]]事業、[[マルチメディア]]、[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド]]事業にも業態を拡げた<ref>[http://journal.mycom.co.jp/special/2001/movie/017.html 21世紀の映画産業とデジタル技術 - いま、なにが起こっているか?]</ref>。また、[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ]](CCC)と映像作品の共同プロモーションで提携したり、業界として初めて[[コンビニエンスストア]]「[[サークルKサンクス|サンクス]]」での前売り券販売など、ビデオを媒体とした映画流通システムを創造した<ref name="hokudai" />。[[2001年]]ナスダック・ジャパン市場(現・[[ヘラクレス (有価証券市場)|ヘラクレス]])へ[[上場]]。2002年「ギャガ・クロスメディア・マーケティング」代表取締役会長、同年ギャガ・コミュニケーションズ代表取締役[[最高経営責任者]]([[最高経営責任者|CEO]])。[[キネマ旬報社]]を子会社化。また外国映画輸入配給協会理事、日本映画海外普及協会評議員、[[日活]]取締役などの役職を務め、[[バブル景気|バブル]]以降の[[ベンチャービジネス]]・起業ブームの先駆とも言われ、週刊誌や経済誌にも盛んに取り上げられて、この頃は映画興行自体が不振だった時代でもあり「日本の興行界を救えるか」であるとか「映画業界のトップになるのでは」などと持ち上げられたが、やはり本業の映画配給で躓いた。
予想通りレンタルビデオ市場の急速な拡大で業績を伸ばし、翌年[[1987年]]からは映画配給事業に進出。他社との共同買い付け方式などを取り入れ[[1995年]]、無名の[[自主映画|インディペンデント系]]製作会社と、これまた当時は無名の[[コメディアン|コメディアン俳優]]・[[ジム・キャリー]]主演の『[[マスク (1994年の映画)|マスク]]』を配給すると18億円を記録する大ヒット。翌[[1996年]]には、[[ブラッド・ピット]]主演の『[[セブン (映画)|セブン]]』、その後『[[Mr.ビーン|ビーン]]』([[1997年]])、『[[オール・アバウト・マイ・マザー]]』([[1999年]])、『[[少林サッカー]]』([[2002年]])などを大ヒットさせた。また[[ハリウッド]]のメジャー製作会社の手がけた『[[グリーンマイル]]』(1999年)、『[[ハンニバル (映画)|ハンニバル]]』、『[[シカゴ (映画)|シカゴ]]』(2002年)なども手がけ業績を拡大させた。1996年には[[松竹富士]]、[[東宝東和]]、東映、アメリカのメジャーな配給会社との競争の中で、配給シェアで第3位を記録し、映画配給におけるメジャーな「独立系」企業としての地位を確立した<ref name="hokudai" />。初年度1986年の売上げ1億5000万から2001年には売上げ200億を超すまでとなった。配給事業のみならず、フル[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]映画など[[デジタルシネマ]]の製作や[[プロジェクタ#DLP方式プロジェクタ|DLP方式]]で映画を公開するなど、[[デジタル放送]]事業、[[マルチメディア]]、[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド]]事業にも業態を拡げた<ref>[http://journal.mycom.co.jp/special/2001/movie/017.html 21世紀の映画産業とデジタル技術 - いま、なにが起こっているか?]</ref>。また、[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ]](CCC)と映像作品の共同プロモーションで提携したり、業界として初めて[[コンビニエンスストア]]「[[サークルKサンクス|サンクス]]」での前売り券販売など、ビデオを媒体とした映画流通システムを創造した<ref name="hokudai" />。[[2001年]]ナスダック・ジャパン市場(現・[[ヘラクレス (有価証券市場)|ヘラクレス]])へ[[上場]]。2002年「ギャガ・クロスメディア・マーケティング」代表取締役会長、同年ギャガ・コミュニケーションズ代表取締役[[最高経営責任者]]([[最高経営責任者|CEO]])。[[キネマ旬報社]]を子会社化。また外国映画輸入配給協会理事、日本映画海外普及協会評議員、[[日活]]取締役などの役職を務め、[[バブル景気|バブル]]以降の[[ベンチャービジネス]]・起業ブームの先駆とも言われ、週刊誌や経済誌にも盛んに取り上げられて、この頃は映画興行自体が不振だった時代でもあり「日本の興行界を救えるか」であるとか「映画業界のトップになるのでは」などと持ち上げられたが、やはり本業の映画配給で躓いた。
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[[Category:1953年生|ふじむら てつや]]
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[[Category:存命人物|ふじむら てつや]]
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== 外部リンク ==
*[http://bizboard.nikkeibp.co.jp/kijiken/summary/20041220/NB1271H_491510a.html 敗軍の将、兵を語る人物 藤村哲哉氏[ギャガ・コミュニケーションズCEO(最高経営責任者)]身の丈超えて“ジ・エンド”]
*[http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/bingo/2-5.html びんご人国記 ふるさと応援団]
*[http://www.hiroshima-biz.jp/interview/interview_contents2.html 広島県実業倶楽部/HIROSHIMA BUSINESS CLUB インタビュー]

2012年3月4日 (日) 17:34時点における版

藤村 哲哉(ふじむら てつや、1953年2月6日 - )は、日本実業家。「ギャガ・コミュニケーションズ」(現・ギャガ)創業者。元代表取締役社長。現「フィロソフィア・エンタテインメント・アライアンス」社長。広島県広島市中区出身。

経歴

広島市生まれ、喘息の持病のため12歳から尾道市の山寺で療養しながら育つ。1976年慶應義塾大学法学部卒業。赤井電機に入社し貿易部門に5年間勤務、中近東欧州市場を主に担当した。しかし病気の発症で度々会社を休んだ。1981年、外資系ベンチャーキャピタル・「ジャミール・エス・アイ」入社(取締役)。1984年同社退職後、デザイン会社や映像ソフト輸入会社を経て1986年、「ギャガ・コミュニケーションズ」を設立。ビデオデッキレンタルビデオ店の登場で、ビデオ用ソフトが絶対に当たると読み、映画の旧作や日本未公開のマイナー作品のビデオ化権を片っ端から買い付け、圏内ビデオメーカーに売り捌く、というビデオの版権ビジネスを起こし、ホームビデオに映画を流通させる仕組みを日本で最初に構築した[1][2]。それまで、日本における映画の配給は、邦画の全国規模の劇場公開チェーンを実質的に独占する東宝松竹東映日本へラルドを加えた四社体制が続き、彼らは映画配給の王道はロードショー(劇場公開)と考えていて、こうした事業には関心を示さなかった[1]。当時は外国映画の日本国内でのビデオ化権を買い付けるという仕事をする人もなく、藤村自らが外国の映画祭に行き、洋画ビデオ化権を買い漁った。あまりにも多くの作品を買い付けたため、契約書にサインしていると腱鞘炎になりそうだったという逸話も残る[3]。世界的規模でのビデオデッキの普及で、手に入れた洋画のビデオ化版権を流行し始めたレンタルビデオ・ショップを通じて流通させるという全く新しいビジネス・システムを構築し、洋画の流通に新たな市場を開拓した[1]

予想通りレンタルビデオ市場の急速な拡大で業績を伸ばし、翌年1987年からは映画配給事業に進出。他社との共同買い付け方式などを取り入れ1995年、無名のインディペンデント系製作会社と、これまた当時は無名のコメディアン俳優ジム・キャリー主演の『マスク』を配給すると18億円を記録する大ヒット。翌1996年には、ブラッド・ピット主演の『セブン』、その後『ビーン』(1997年)、『オール・アバウト・マイ・マザー』(1999年)、『少林サッカー』(2002年)などを大ヒットさせた。またハリウッドのメジャー製作会社の手がけた『グリーンマイル』(1999年)、『ハンニバル』、『シカゴ』(2002年)なども手がけ業績を拡大させた。1996年には松竹富士東宝東和、東映、アメリカのメジャーな配給会社との競争の中で、配給シェアで第3位を記録し、映画配給におけるメジャーな「独立系」企業としての地位を確立した[1]。初年度1986年の売上げ1億5000万から2001年には売上げ200億を超すまでとなった。配給事業のみならず、フル3DCG映画などデジタルシネマの製作やDLP方式で映画を公開するなど、デジタル放送事業、マルチメディアブロードバンド事業にも業態を拡げた[4]。また、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)と映像作品の共同プロモーションで提携したり、業界として初めてコンビニエンスストアサンクス」での前売り券販売など、ビデオを媒体とした映画流通システムを創造した[1]2001年ナスダック・ジャパン市場(現・ヘラクレス)へ上場。2002年「ギャガ・クロスメディア・マーケティング」代表取締役会長、同年ギャガ・コミュニケーションズ代表取締役最高経営責任者CEO)。キネマ旬報社を子会社化。また外国映画輸入配給協会理事、日本映画海外普及協会評議員、日活取締役などの役職を務め、バブル以降のベンチャービジネス・起業ブームの先駆とも言われ、週刊誌や経済誌にも盛んに取り上げられて、この頃は映画興行自体が不振だった時代でもあり「日本の興行界を救えるか」であるとか「映画業界のトップになるのでは」などと持ち上げられたが、やはり本業の映画配給で躓いた。

映画の配給権は完成前から青田買いすることが多く大きなリスクも伴う。最盛期には年間350本もの映画を買い付けていたといわれるが、2004年多額の宣伝費をかけた『ヴァン・ヘルシング』などの興行失敗で大赤字を計上、同年責任を取り株主総会でCEOを辞任。1990年代初頭に国際音楽見本市(MIDEM)で知り合い、社外取締役に引き込んでいた依田巽に再建を頼み、2005年1月、「ギャガ・コミュニケーションズ」は「USEN」の子会社となり、同11月、藤村は「ギャガ・コミュニケーションズ」を退任した[5]

ギャガの失敗は、もちろんハズレ映画を引いた事もあるが、藤村でも読めなかった日本映画の復興もあると思われ、同時に自らが活性化に関与した外国映画の不振と共に無念の降板となってしまった。

2006年12月、依田巽らと新会社・「フィロソフィア・エンタテインメント・アライアンス」を設立。事業内容はギャガと大きくは変わらず、再びメディアビジネスで再興を目指す。

著書

脚注

作品

外部リンク