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{{Infobox baseball player
'''ホルヘ・カントゥ'''('''Jorge Cantú''' , [[1982年]][[1月30日]] - )は、[[メジャーリーグベースボール]]の[[シンシナティ・レッズ]]所属、右投右打の[[内野手]]。[[メキシコ]]出身。
|選手名=ホルヘ・カントゥ
|英語表記=Jorge Cantú
|所属球団=フロリダ・マーリンズ
|背番号=3
|選手写真ファイル名=JorgeCantu.jpg
|写真サイズ=300
|出身地=[[Image:Flag of the United States.svg|25px|アメリカ合衆国]] [[アメリカ合衆国]][[テキサス州]][[マッカレン]]
|生年月日={{生年月日と年齢|1982|1|30}}
|身長={{フィートとcm (身長用変換)|6|3}}
|体重={{ポンドとkg (体重用変換)|200}}
|守備位置=[[内野手]]
|プロ入り年度=1998年
|ドラフト順位=アマチュア・フリーエージェントとして[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ]]と契約
|打席=右
|利き腕=右
|初出場=2004年7月17日 [[ボルチモア・オリオールズ|オリオールズ]]戦
|経歴=<nowiki></nowiki>
* タンパベイ・デビルレイズ(2004年 - 2007年)
* [[シンシナティ・レッズ]](2007年)
* [[フロリダ・マーリンズ]](2008年 - )
}}


'''ホルヘ・ルイス・カントゥ'''(Jorge Luis Cantú, [[1982年]][[1月30日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[テキサス州]][[マッカレン]]出身の[[野球選手]]。[[内野手]]、右投右打。[[メジャーリーグベースボール|MLB]][[フロリダ・マーリンズ]]に所属している。
[[二塁手]]としての出場が一番多いが、どちらかといえば[[一塁手]]向き。二塁手以外にも、[[一塁手]]・[[三塁手]]・[[遊撃手]]としてのプレー経験がある。

[[メキシコ]]系の血を引いており、幼少時代は[[リオ・グランデ川]]を挟んでマッカレンの対岸にある[[双子都市]]のメキシコ合衆国[[タマウリパス州]][[レイノサ]]で過ごした。[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック]]や[[アテネオリンピック (2004年) における野球競技|アテネ五輪]]アメリカ大陸予選({{by|2003年}})などの国際大会には[[野球メキシコ代表|メキシコ代表]]として出場している。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
メキシコで1番人気の[[スポーツ]]である[[サッカー]]には興味がなく「見るのも、やるのも退屈なんだ」と語り、[[カル・リプケン]]に憧れ[[野球]]にのめり込む<ref name=mexicoredsun>[[谷口輝世子]] 「ホルヘ・カントゥ[デビルレイズ]メキシコの赤い太陽」 『[[スラッガー (雑誌)|月刊スラッガー]]』2006年6月号、[[日本スポーツ企画出版社]]、2006年、[[雑誌コード|雑誌]]15509-6、26-27頁。</ref>。高校生のときに[[メキシコシティ]]で開催された大会に出場し、そこでの活躍に目をつけた[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ(現レイズ)]]と16歳のときに契約する。


[[マイナーリーグ]]時代は主に[[遊撃手]]として出場していた。カントゥに対する評価は「打撃力がない」「パワーがない」というのが多く、{{by|2002年}}には引退も考えたが、父から自身の苦労話を聞かされて翻意する<ref name=mexicoredsun />。{{by|2003年}}にはシーズン途中でAAA級[[ダラム・ブルズ|ダラム]]に昇格、60試合に出場し[[打率]].295・30[[打点]]という成績を残した。シーズン終了後には[[アテネオリンピック (2004年) における野球競技|アテネ五輪]]アメリカ大陸予選にメキシコ代表として出場。メキシコが[[野球アメリカ合衆国代表|米国]]に勝利したことで、[[シドニーオリンピックにおける野球競技|前回大会]]金メダルの米国が予選敗退という波乱が起こったが、メキシコも予選通過できず五輪出場権を逃した。
[[2004年]]に、[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ]]で[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]デビューを果たし、わずか50試合の出場で[[二塁打]]を20本放つ活躍を見せる。


{{by|2004年}}にAAA級ダラムで95試合に出場したカントゥは、打率.302・22[[本塁打]]・80打点を記録。シーズン途中にメジャー昇格を果たし、7月17日に初出場、その後[[二塁手]]・[[三塁手]]としてシーズン終了まで50試合に出場する。{{by|2005年}}1月にデビルレイズはベテラン二塁手の[[ロベルト・アロマー]]と契約したが、3月にアロマーが引退したため、カントゥが二塁のレギュラーポジションをつかむ。この年150試合に出場したカントゥは、打率.286・28本塁打・117打点(リーグ7位・当時の球団記録<ref>"[http://www.baseball-reference.com/teams/TBD/leaders_bat.shtml Tampa Bay Rays Batting Leaders]," ''Baseball-Reference.com''. 2008年4月6日閲覧。</ref>)・40[[二塁打]](同8位)の好成績を残し、[[ルーキー・オブ・ザ・イヤー (MLB)|新人王]]投票で5位に入った。
[[2005年]]は[[二塁手|セカンド]]、[[三塁手|サード]]の2ポジションで試合に出場。28[[本塁打]]を放ち、117[[打点]]を挙げる活躍ぶり。


[[2006年]]に行われた[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]は[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック・メキシコ代表|メキシコ代表]]に選ばれ、[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本]]の準決勝進出を決する[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック・アメリカ合衆国代表|アメリカ]]戦で2打点を挙げ、日本準決勝進出を手助けした。しかしその後の2006年シーズンは、正二塁手として開幕してから最初の2試合で各2打点を挙げるなど好調な滑り出しを見せたが、4試合目に自打球を足に当ててしまい負傷。チーム主軸としての責任感からか、痛みを我慢して場を続けた結果状態が悪化し、4月末から約5週間長期間、[[DL]]入りを余儀なくされてしまった。復帰後も故障の影響からか復調せず、後半戦は打率.230と不振に陥り、本塁打・打点ともに大活躍した昨シーズンの半分に落ち込んでしまった
{{by|2006年}}3月に行われた[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)]]にも、カントゥは[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック・メキシコ代表|メキシコ代表]]として出場。2次リーグPOOL 1 最終戦の[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック・アメリカ合衆国代表|米国]]戦では、2番・二塁として先発場したカントゥが2打点挙げ、2-1 でメキシコが米国に勝利。この結果、[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本]]が準決勝に進出しその後優勝した。日本は一時は準決勝進出が絶望視されていたため、カントゥの活躍は日本のWBC優勝を手助けしたかたちとなった。しかしその後のMLBレギュラーシーズンは、開幕4試合目に足に自打球を当て、そ後も無理に試合に出続けた結果として状態が悪化し、約5週間の[[故障者リスト]]入りを余儀なくされた。復帰後も不振に陥り、本塁打・打点ともに前年ほぼ半分に落ち込ん


{{by|2007年}}には、[[日本プロ野球]]・[[東京ヤクルトスワローズ]]から[[岩村明憲]]が加入。カントゥは岩村とWBCで知り合い、チームメイトになってからはとても仲良くしていた<ref>[[阿部寛子]] 「MLB30球団最新レポート&全選手個人成績 タンパベイ・デビルレイズ/TB 大親友の岩村といつか一緒にプレーを」 『月刊スラッガー』2007年7月号、日本スポーツ企画出版社、2007年、雑誌15509-7、75頁。</ref>。しかし岩村の加入によりデビルレイズの内野陣が飽和状態となり、レギュラーポジションをなくしたカントゥを、チーム首脳陣はマイナーに降格させた。これにカントゥは激怒。「俺はマイナーリーガーじゃない」と、一時はマイナーでの試合出場ボイコットを示唆し他球団への[[トレード]]を要求した<ref>Marc Topkin, "[http://www.sptimes.com/2007/04/01/Rays/Angry_Cantu_sent_down.shtml Angry Cantu sent down, wants out / Former Rays MVP says he has nothing to prove at Triple A, and he may not report to Durham.]," ''[[セントピーターズバーグ・タイムズ (アメリカ合衆国)|St. Petersburg Times]]'', April 1, 2007. 2008年4月6日閲覧。</ref>。その後これを撤回してAAA級ダラムで試合に出場し、4月下旬には右脇腹を痛めて故障者リスト入りした岩村に代わってメジャー昇格も果たしたが、25試合で打率.207と低迷。7月28日に[[シンシナティ・レッズ]]へトレードされた。レッズでは27試合に出場したものの、シーズン終了後に放出されている。
翌[[2007年]]は[[岩村明憲]]の加入もあり、開幕前にマイナーリーグへの降格が命じられた。これに対して、カントゥは激怒し、球団に対し、[[トレード]]を要求するも、その後はおとなしく[[ダラム・ブルズ]]でプレイ。4月末の岩村の故障により、デビルレイズに戻ってきたが7月28日、シンシナティ・レッズへトレードで移籍。


{{by|2008年}}1月にカントゥは[[フロリダ・マーリンズ]]とマイナー契約した。
== 年度別成績 ==

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== 年度別打撃成績 ==
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!年度!!チーム!![[試合]]!![[打数]]!![[得点]]!![[安打]]!![[二塁打]]!![[三塁打]]!![[本塁打]]!![[打点]]!![[盗塁]]!![[四球]]!![[三振]]!![[率]]!![[出塁]]!![[長打率]]
!年度!!球団!!試合!!打数!!得点!!安打!!二塁打!!三塁打!!本塁打!!塁打!!打点!!盗塁!!盗塁死!!犠打!!犠飛!!四球!!敬遠!!死球!!三振!!併殺打!!率!!長打率!!出塁率!!OPS
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!style="text-align: center;"|2004||style="text-align: center;"|[[タンパベイ・レイズ|TB]]
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|150||598||73||171||40||1||28||297||117||1||0||0||7||19||1||6||83||24||.286||.497||.311||.808
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※数字は2007年までのもの。
☆1 TB→CIN

== 参考資料 ==
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== 外部リンク ==
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2008年4月5日 (土) 16:17時点における版

ホルヘ・カントゥ
Jorge Cantú
フロリダ・マーリンズ #3
基本情報
出身地 アメリカ合衆国 アメリカ合衆国テキサス州マッカレン
生年月日 (1982-01-30) 1982年1月30日(42歳)
身長
体重
6' 3" =約190.5 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1998年 アマチュア・フリーエージェントとしてタンパベイ・デビルレイズと契約
初出場 2004年7月17日 オリオールズ
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ホルヘ・ルイス・カントゥ(Jorge Luis Cantú, 1982年1月30日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州マッカレン出身の野球選手内野手、右投右打。MLBフロリダ・マーリンズに所属している。

メキシコ系の血を引いており、幼少時代はリオ・グランデ川を挟んでマッカレンの対岸にある双子都市のメキシコ合衆国タマウリパス州レイノサで過ごした。2006 ワールド・ベースボール・クラシックアテネ五輪アメリカ大陸予選(2003年)などの国際大会にはメキシコ代表として出場している。

経歴

メキシコで1番人気のスポーツであるサッカーには興味がなく「見るのも、やるのも退屈なんだ」と語り、カル・リプケンに憧れ野球にのめり込む[1]。高校生のときにメキシコシティで開催された大会に出場し、そこでの活躍に目をつけたタンパベイ・デビルレイズ(現レイズ)と16歳のときに契約する。

マイナーリーグ時代は主に遊撃手として出場していた。カントゥに対する評価は「打撃力がない」「パワーがない」というのが多く、2002年には引退も考えたが、父から自身の苦労話を聞かされて翻意する[1]2003年にはシーズン途中でAAA級ダラムに昇格、60試合に出場し打率.295・30打点という成績を残した。シーズン終了後にはアテネ五輪アメリカ大陸予選にメキシコ代表として出場。メキシコが米国に勝利したことで、前回大会金メダルの米国が予選敗退という波乱が起こったが、メキシコも予選通過できず五輪出場権を逃した。

2004年にAAA級ダラムで95試合に出場したカントゥは、打率.302・22本塁打・80打点を記録。シーズン途中にメジャー昇格を果たし、7月17日に初出場、その後二塁手三塁手としてシーズン終了まで50試合に出場する。2005年1月にデビルレイズはベテラン二塁手のロベルト・アロマーと契約したが、3月にアロマーが引退したため、カントゥが二塁のレギュラーポジションをつかむ。この年150試合に出場したカントゥは、打率.286・28本塁打・117打点(リーグ7位・当時の球団記録[2])・40二塁打(同8位)の好成績を残し、新人王投票で5位に入った。

2006年3月に行われたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)にも、カントゥはメキシコ代表として出場。2次リーグPOOL 1 最終戦の米国戦では、2番・二塁として先発出場したカントゥが2打点を挙げ、2-1 でメキシコが米国に勝利。この結果、日本が準決勝に進出し、その後優勝した。日本は一時は準決勝進出が絶望視されていたため、カントゥの活躍は日本のWBC優勝を手助けしたかたちとなった。しかしその後のMLBレギュラーシーズンでは、開幕4試合目に足に自打球を当て、その後も無理に試合に出続けた結果として状態が悪化し、約5週間の故障者リスト入りを余儀なくされた。復帰後も不振に陥り、本塁打・打点ともに前年のほぼ半分に落ち込んだ。

2007年には、日本プロ野球東京ヤクルトスワローズから岩村明憲が加入。カントゥは岩村とWBCで知り合い、チームメイトになってからはとても仲良くしていた[3]。しかし岩村の加入によりデビルレイズの内野陣が飽和状態となり、レギュラーポジションをなくしたカントゥを、チーム首脳陣はマイナーに降格させた。これにカントゥは激怒。「俺はマイナーリーガーじゃない」と、一時はマイナーでの試合出場ボイコットを示唆し他球団へのトレードを要求した[4]。その後これを撤回してAAA級ダラムで試合に出場し、4月下旬には右脇腹を痛めて故障者リスト入りした岩村に代わってメジャー昇格も果たしたが、25試合で打率.207と低迷。7月28日にシンシナティ・レッズへトレードされた。レッズでは27試合に出場したものの、シーズン終了後に放出されている。

2008年1月にカントゥはフロリダ・マーリンズとマイナー契約した。

年度別打撃成績

年度 球団 試合 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 盗塁死 犠打 犠飛 四球 敬遠 死球 三振 併殺打 打率 長打率 出塁率 OPS
2004 TB 50 173 25 52 20 1 2 80 17 0 0 0 1 9 0 2 44 5 .301 .462 .341 .803
2005 TB 150 598 73 171 40 1 28 297 117 1 0 0 7 19 1 6 83 24 .286 .497 .311 .808
2006 TB 107 413 40 103 18 2 14 167 62 1 1 0 6 26 2 3 91 16 .249 .404 .295 .699
2007 TB/CIN 52 115 12 29 9 0 1 41 13 0 0 0 3 12 0 3 26 6 .252 .357 .331 .688
通算 4年 359 1299 150 355 87 4 45 585 209 2 1 0 17 66 3 14 244 51 .273 .450 .312 .762

※数字は2007年までのもの。

参考資料

  1. ^ a b 谷口輝世子 「ホルヘ・カントゥ[デビルレイズ]メキシコの赤い太陽」 『月刊スラッガー』2006年6月号、日本スポーツ企画出版社、2006年、雑誌15509-6、26-27頁。
  2. ^ "Tampa Bay Rays Batting Leaders," Baseball-Reference.com. 2008年4月6日閲覧。
  3. ^ 阿部寛子 「MLB30球団最新レポート&全選手個人成績 タンパベイ・デビルレイズ/TB 大親友の岩村といつか一緒にプレーを」 『月刊スラッガー』2007年7月号、日本スポーツ企画出版社、2007年、雑誌15509-7、75頁。
  4. ^ Marc Topkin, "Angry Cantu sent down, wants out / Former Rays MVP says he has nothing to prove at Triple A, and he may not report to Durham.," St. Petersburg Times, April 1, 2007. 2008年4月6日閲覧。

外部リンク