長沙の戦い

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長沙・衡陽の戦い
Chinese nationalist troops crossing the Three Gorges at West Hupei
渡河中の中国軍
戦争太平洋戦争 (日中戦争)
年月日1944年5月-1944年8月
場所長沙衡陽
結果:日本軍の勝利、中国軍の撤退。
交戦勢力
枢軸国

大日本帝国の旗 大日本帝国

連合国

中華民国の旗 中華民国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

指導者・指揮官
大日本帝国の旗 横山勇
大日本帝国の旗 岡村寧次
中華民国の旗 薛岳
戦力
11個師団 兵力:30万人以上
損害
66,000人以上 90,000人以上

1944年の長沙の戦い(ちょうしゃのたたかい、または長沙衡陽作戦、中国語:長衡會戰)は、日中戦争末期に日本軍が中国湖南省に侵攻した戦闘である。日中戦争末期に日本軍が中国湖南省に侵攻した事件で、長沙市の侵攻と衡陽市への侵攻の2つがあり、3つの紛争に分かれる。

日本軍は「一号作戦」(大陸打通作戦)の一環として、日本本国と満州から兵力の大部分を移駐させた。これは、日本が占領した満州、中国北部、中部、朝鮮半島東南アジアの陸路と鉄道の回廊を確立しようとしたものであった。[1]

衛陽の戦い

日本軍の2つ師団は衡陽を包囲するために移動したが、中国軍の激しい抵抗に遭い苦戦した。衡陽激戦区での苦戦は、東条英機内閣の崩壊を早めることになった。1944年7月9日サイパン島喪失と同時に、東条とその内閣は1944年7月18日に総辞職した。同年7月22日、小磯内閣発足

1944年8月、日本軍は、空爆支援を受けて再び衡陽を攻撃した。中国軍は地元の知識を生かし、高さ4メートルにも及ぶ効果的なバリケードを築いて猛烈に抵抗した。中国軍の防御は知的に構築され、火力を最大化した。このため日本軍の第68師団第116師団は士気を失い、撤退の準備に入った。しかし、日本軍第58師団が中国軍第3師団が守る北西の外郭に侵入すると士気は高まり、攻撃が再開された。中国軍第37、62、74、79、100の5個師団からの援軍は何度も衡陽に到達しようとしたが、日本の第27344064の4個師団に阻まれた。

日本軍は最終的に中国第10軍団長の方先覚を捕らえ、第10軍団が1万7千人から3千人(負傷者を含む)にまで壊滅した後、1944年8月8日に衡陽陥落。これで長沙・衡陽の戦いは終了した。[2]

結果

47日間の激戦の後、日本軍は衛陽市を占領することができたが、日本の犠牲者は多く、日本軍将校390人が死亡、さらに520人が負傷するなど、多くの人命が失われた。第68師団第116師団は戦闘力を失い、守備隊に配置換えとなった。したがって衡陽市を損失したのにも関わらず、中国北方部隊は勢力を拡大することができた。さらに、アメリカ陸軍航空隊は、長沙の戦いの最中の1944年7月に、上記の中国の航空基地にあった爆撃機群をすべて、新たに占領したサイパンに移駐させた。サイパンからアメリカ航空艦隊は日本本土への空爆を開始した。この作戦における日本の、戦略的作戦の一つである本土空爆防止は、太平洋におけるアメリカ軍の軍事作戦によって、完全に意味のない物となってしまった。

中国国民革命軍側では、この作戦で薛の第九軍戦線は蒋介石への忠誠を誓う有効な二軍団(第四軍団第十軍団)を失った。日本軍第11軍は順次、霊陵を目指し、1944年9月4日に奪取、11月10日桂林を制圧した。

中国政府は、日本軍に中国東北地方からの完全撤退を迫り続けた。日本軍は苦肉の策として、1945年4月にできるだけ多くの軍隊を集め、四川への道を開くために湖南の西にある重集(ジージャン)に侵攻した。部隊は中国国民党の待ち伏せにより迎撃され、ほぼ全滅した。中国は領土の一部を取り戻した。この時、戦局は一転した。その後、日本軍は芷江で中国側に降伏した。[3]

参考文献

  1. ^ Atlas of World War II. Brompton Books Corp. (1985). p. 147 
  2. ^ 長沙大會戰內幕全解密. 軍事科學出版社. (2005) 
  3. ^ 防衛庁防衛研究所(1973年)、74頁~357頁