長崎国旗事件

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長崎国旗事件(ながさきこっきじけん)は右翼団体による中華人民共和国国旗の毀損事件である。

事件の概要

展覧会にあったものと同様の中国国旗が描かれた切手の例(1950年
以下では当時の報道慣習に従い、中華人民共和国を「中共」、中華民国台湾)を「国府」と呼称している

1958年(昭和33年)5月2日長崎県長崎市にある浜屋デパート4階の催事会場で、日中友好協会長崎支部の主催による「中国切手・切り紙展覧会」が開かれていた。会場の入口付近の天井には中華人民共和国の国旗である五星紅旗(縦120cm、横150cm)が天井から針金で吊るされていた。主催者によれば「会場の展示物が全部中共のものなので一つは雰囲気を出すためと、一つは切手同様の展示品の意味合いがあった」という。しかしこの展示会場の国旗掲揚については在長崎中華民国領事館からは「国際法上非合法な国旗であり、掲揚は日本と国府との友好関係に悪影響を与える」との警告が発せられていた。これは国府(中華民国政府、中国国民党政権、台湾政府)からの抗議に即したものであった。

右翼団体に所属する日本人の28歳の製図工の男が乱入し、会場内に掲げられていた五星紅旗を引きずり降ろした上、毀損した。ただし旗自体は破れていなかった。犯人はすぐに警察に拘束されたが、事情聴取のうえで器物破損で書類送検された。結局1958年12月3日になって軽犯罪法第一項の「みだりに他人の看板を取り除いた」ことによる科料500円の略式命令となった。

当時、日本政府が承認していたのは中華民国(台湾)政府であったため、五星紅旗は保護の対象と考えておらず、また在長崎中華民国領事館の要請にも応じたためという。そのため刑法で規定された外国国章損壊罪(外国政府による親告罪)よりも軽い処分に止まったのである。

ただし、朝日新聞社説(1958年5月11日)によれば、「外国国章損壊罪」の判例はないが、通説として「保護すべき国旗とはその国を象徴するものとして掲揚される公式の国旗のみを指し、装飾としての万国旗や歓迎用の小旗もしくは私的団体の掲げる旗は含まれない」として、今回の事件の国旗は「会場の装飾」にすぎず、中国側の反応は過激すぎると批判した。

中華人民共和国政府は、日本政府及び当時の岸信介首相の対応を厳しく批判し制裁ともいえる行動に出た。5月9日には陳毅副総理兼外交部長が日本との貿易を中止する旨の声明を出し、当時進められていた対中鉄鋼輸出の契約も破棄された。その後、1960年12月に友好商社に限った取引が再開されるまで、約2年半に渡って貿易停止に陥った。この通商断絶によって、中国大陸との貿易割合の高い商工業者は大きな経済的打撃を受けた。

類似する事件

1956年7月に中国の京劇俳優梅蘭芳が来日した際に、大阪市内で関西華僑自由愛好同盟による抗議デモが行われたが、その時雇い入れた街宣車に掲揚されていた中華民国国旗の青天白日旗を取り去るという事件が発生した。この時は国府政府からの処罰要請により大阪地検が捜査したが、日本の民間人が持っていた国旗の持ち去りを外国国章損壊罪で処罰するのは無理であるとして不起訴処分にしている。

参考文献

  • 朝日新聞 1958年5月新聞縮刷版
  • 国旗の授業 - TOSS H・I・T (木原 仁 著)

関連項目