諸葛誕

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諸葛 誕(しょかつ たん、? - 258年)は、中国三国時代に仕えた政治家武将である。公休。琅邪郡陽都県の出身で、諸葛亮の族弟(いとこもしくは同世代の親族)にあたる。実際は諸葛瑾・諸葛亮兄弟の近縁の親族ではなく、遠縁であり瑯邪諸葛氏の本家筋とみる説もある。『歴代神仙通鑑』では、諸葛誕は諸葛玄の子。

生涯

魏の重鎮として

世説新語』によると、若き諸葛誕が仕官した時、「蜀漢は其の竜を得、は其の虎を得、魏は其の狗を得たり」と言われた。諸葛亮を竜、諸葛瑾を虎、諸葛誕は狗に喩えられた訳だが、それでも魏・呉での名声は高かったという。杜畿との逸話は有名である。そもそも、ここの「狗」は「功狗」、「功ある者」の意味で、つまり彼への賞賛であった。[1]

中央において尚書令・吏部郎・御史中丞・尚書などを務め、人事には公正で夏侯玄・鄧颺らと仲が良く、共に名声を馳せ「四聰八達(四人の聡明な人物と八人の達人)」と呼ばれるほどになった。諸葛誕らは表面的な華やかさを追い、虚名を集めているから、蔓延らせてはならないと意見する者があった。これを受けて、明帝(曹叡)は「名声は画餅のようなもので、飢えを満たすことはできない」と批判し、(これが「画餅(画に描いた餅、絵に描いた餅)」の謂われである。)このため一度免職させられた。明帝の没後、曹爽が権力を握ると、その下で夏侯玄や鄧颺が政治を掌るようになり、諸葛誕も御史中丞・尚書に復帰した。後に揚州刺史となり昭武将軍となった。この時、廬江太守文欽は横暴な人物として知られていたが、諸葛誕もやはり不仲であったという。

曹爽の失脚時に鄧颺は誅殺され、夏侯玄も閑職に追いやられたが、諸葛誕は新たに実権を握った司馬懿に引き続き用いられ、251年に謀反を起こした王凌を討伐した際に鎮東将軍・仮節都督揚州諸軍事に任命され、山陽亭侯の爵位も得た。司馬一族と諸葛誕とは縁戚関係があり、また、子の一人と司馬懿の孫の司馬炎の武帝)が幼馴染であるなど、家同士の付き合いもあった。

司馬師が実権を握った時代には、胡遵王昶陳泰毌丘倹と共に四方の都督として名があがる存在であった。252年、東関の役においては、提案者の一人である胡遵とともに呉の諸葛恪と戦ったが敗れた(東興の戦い)。敗戦の責を取り、毌丘倹と職を交代させられ、鎮南将軍・都督豫州諸軍事に転任した。

255年、都督揚州諸軍事となっていた毌丘倹と揚州刺史の文欽が反乱を起こすと、毌丘倹からの同心の誘いを拒絶しその鎮圧に赴き、毌丘倹・文欽が司馬師に敗れると寿春を制圧し、鎮東大将軍・都督揚州諸軍事・儀同三司に任命され、再び揚州の守備を任された。この混乱に乗じて魏領に侵攻した呉の孫峻らを撃破し、左将軍留賛を斬った。この功績により高平侯に封じられ、三千五百戸の領邑を与えられ、征東大将軍に任命された。

諸葛誕の乱

正史の伝には、征東大将軍に転任後、司馬師に誅殺された夏侯玄(曹爽一族の残党でもある)などと親密な間柄であり、同じ立場であった王凌や毌丘倹が滅ぼされたことから、司馬一族から誅殺されることを恐れ不安になっていたとある。任地で施しを行い民の信頼を集め、屈強な者を選び私兵にしたのも、256年に呉の侵攻に備えるため10万の兵の増強を要請したのも、正史の伝では諸葛誕が自分の立場を確保するための行為と断じている。

257年、大将軍司馬昭が実権を握った時代、諸葛誕は司空三公のひとつ)に任じられ、洛陽への召還を命じられた(魏志の伝には朝廷が諸葛誕の疑心を察していたとあり、また洛陽召還は、諸葛誕の内心を見越した賈充の策であり、早めに諸葛誕を暴発させ、その芽を摘むという計算であったとされる)。このときに諸葛誕は、三公になるのは序列からして王昶が先である筈と怪しみ、同年に司馬昭の専横に対抗するとして十数万の兵を率いて反乱を起こし、楽綝を斬った。諸葛誕は末子の諸葛靚と長史の呉綱を呉に送り、援軍を要請した。

司馬昭は鍾会王基陳騫州泰石苞胡烈ら26万の兵を率いて諸葛誕の討伐に赴き、王基・陳騫らに命じて寿春城を包囲させた。呉は文欽・全端全懌唐咨ら3万人の軍勢を諸葛誕の援軍に派遣し、文欽らは魏軍の包囲が完成する前に寿春城で諸葛誕と合流した。諸葛誕は精兵を率いており、呉の援軍も来襲していたため、司馬昭は堅固な砦に軍を移そうとしたが、王基は寿春城の包囲を続けるべきだと意見し、司馬昭も王基の意見に従った。文欽らは何度も寿春城から出撃したが、魏の包囲陣に撃退された。呉の朱異は、2度にわたり数万の軍勢を率いて諸葛誕・文欽らの援軍に赴いたが、州泰・石苞・胡烈らに撃退された。また、鍾会の計略にかかった全端・全懌らが魏に寝返ってしまった。

258年、劣勢を強いられた諸葛誕・文欽らは出撃し、包囲を破り寿春城から脱出しようとしたが、魏の包囲陣に撃退された。その後、諸葛誕軍は兵糧不足に苦しみ、投降者が続出した。諸葛誕が昔から仲の良くなかった文欽を殺してしまうと、文欽の息子である文鴦文虎が司馬昭軍に投降した。司馬昭は文鴦・文虎を許し、この二人に数百騎の兵を率いらせて、寿春城の周りを駆け巡らせて、「文欽の子でさえ殺されないのだぞ。他の者は何の心配がいるだろうか。」と城内に呼びかけさせた。これにより諸葛誕軍の士気は大いに落ち、司馬昭軍の攻撃により寿春城は落城しそうになった。窮地に陥った諸葛誕は城外に撃って出たが、司馬昭軍の胡奮の軍勢により斬り殺され、首は洛陽へ送られた。寿春城は落城し、唐咨らは魏に降伏した。諸葛誕の三族は皆殺しとなった。

諸葛誕が殺された後、その兵数百人は降伏しなかった罪で斬られたが、皆「諸葛公の為に死ぬのだから心残りは無い」と言って死んでいったと言う。人望は厚かったと言えるだろう。時の人々は、末の田横(その死を聞くと、500人の食客は悉く殉死した)と引き比べた。

脚注

  1. ^ 《世說新語.品藻第九》箋疏--李慈銘云:「案誕名德既重,身為魏死,忠烈凜然,安得致此鄙薄?蓋緣公休敗後,司馬之黨,造此穢言,誣衊不經,深堪髮指。承祚之志,世期之注,削而不登,當矣。臨川取之,抑何無識!」嘉錫案:司馬之黨必不以孔明為龍。此所謂 乃功狗之狗,謂如韓盧宋鵲之類。雖非龍虎之比,亦甚有功於人。故曰「並有盛名」,非鄙薄之稱也。觀世說下文云「誕在魏與夏侯玄齊名」,則無詆毀公休之意亦明矣。

関連項目