胡奮

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胡 奮(こ ふん、? - 太康9年(288年)2月[1])は、中国三国時代末期から西晋にかけての武人。・西晋に仕えた。玄威雍州安定郡臨涇県の人。父は胡遵。兄に胡広。弟に胡烈・胡岐。子は男子・女子(胡芳)1人。

生涯[編集]

性格は明朗で、知略に優れ、若年から武事を好んだ。景初2年(238年)、公孫淵の討伐に従軍。下働きの身で司馬懿に侍従して厚遇され、遠征が終わると校尉に任じられた。

甘露3年(258年)2月、大将軍司馬司馬師の属官)の官にあり、寿春で反乱した諸葛誕の包囲に参加。進退窮まった諸葛誕が出撃すると、迎撃してこれを斬った[2]

晋の時代に当たる泰始7年(271年)、匈奴劉猛が反乱すると、胡奮は監軍・仮節に任じられ、討伐軍の後詰めとして硜北に駐屯した。

泰始9年(273年)、娘の胡芳が、司馬炎(武帝)の貴嬪(最高階の妃嬪)となった[3]。胡奮はこれを喜ばず、また一人息子が早逝していたこともあり、「男子は九地の下に入り、女子は九天の上に上ってしまった」と嘆いた。

咸寧2年(276年)2月、并州の蛮族が砦を侵犯したが、監并州諸軍事の官にあった胡奮がこれを防いだ。咸寧3年(277年)9月には都督江北諸軍事となった[1]

咸寧5年(279年)11月、晋は大軍を挙げて呉の征伐を開始。平南将軍の官にあった胡奮は夏口への進軍を命じられた。太康元年(280年)2月には江安を攻略し、同年の呉降伏に貢献した[1]

代々武門の家柄にあったが、長じてからは学問も好むようになり、文才も備えた。各任地で功績を立て、辺境にあっては特に威厳と恩恵を広めた。娘が後宮に入ったこともあり司馬炎の厚遇を受け、位は尚書僕射[4]・鎮軍大将軍・開府儀同三司にまで昇ったが、その後ろ盾を頼みとすることはなかった。楊皇后の父の楊駿が傲慢に振る舞うと、毅然とした態度でそれを咎めた。

太康9年(288年)に死去。車騎将軍を追贈され、壮侯された。

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『晋書』世祖武帝紀
  2. ^ 陳寿三国志』魏書 諸葛誕伝
  3. ^ 『晋書』武悼楊皇后伝付 胡貴嬪伝
  4. ^ 『晋書』胡奮伝では尚書左僕射、武帝紀では尚書右僕射とする。