角田軌道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。るなあるてみす (会話 | 投稿記録) による 2015年10月13日 (火) 03:21個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎関連項目)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

角田軌道
改造気動車
改造気動車
概要
現況 廃止
起終点 起点:槻木
終点:舘矢間[注 1]
駅数 6駅または10駅[1]
運営
開業 1899年8月15日 (1899-08-15)
全通 1900年7月21日
廃止 1930年2月13日 (1930-2-13)
所有者 角田軌道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 19.3 km (12.0 mi)
軌間 762 mm (2 ft 6 in)
テンプレートを表示
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
STR
国鉄東北本線
HST
槻木
STR exKBHFa
0.0 槻木
STRrf exBHF
清水
exBHF
4.2 小坂
exBHF
6.0 岩崎
exBHF
江尻
exBHF
一本木
exBHF
10.1
exBHF
一里壇
exBHF
12.4 角田
exKBHFe
19.3 舘矢間[注 1]

角田軌道(かくだきどう)は、かつて1899年明治32年)から1929年昭和4年)まで、宮城県南部の槻木駅付近を起点に、阿武隈川左岸(西岸)沿いの諸集落を南北に結んでいた鉄道である。当初は「角田馬車鉄道」と称した。

概要

1887年(明治20年)に宮城県仙台区(現・仙台市)を経て塩釜港に面する(初代)塩竈駅(後の塩釜線塩釜埠頭駅)まで開業した日本鉄道本線(現・JR東日本東北本線)は、旧奥州街道沿いに敷設されて角田盆地を通らなかったため、同線との連絡のため1897年(明治30年)に特許を受けて着工、1899年(明治32年)から1901年(明治34年)にかけて開通した。当初は社名の通り馬車鉄道であったが、のち蒸気機関車を導入した。

経路は、槻木盆地に広がる柴田郡槻木村(現・柴田町)に1891年(明治24年)に開業した槻木駅付近から阿武隈川左岸を南に向かい、同郡船岡村(現・柴田町)および伊具郡東根村(現・角田市)を経て角田盆地に入り、同郡北郷村桜村、角田町(以上、現・角田市)を貫いて、舘矢間村(現・丸森町)で終点となった。終点の舘矢間と阿武隈川を挟んだ右岸には、丸森町や金山町があった[2]

1923年大正12年)9月1日に発生した大正関東地震関東大震災)を機に東京府東京市バス事業(円太郎バス)を開始すると全国にもバス事業が広まり、また、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まって、旅客および物流におけるモータリゼーションが到来した[3][4]。その結果、低速だった角田軌道は大正時代末期からバスとの競合に晒されて経営が悪化した。奇怪な改造気動車を無認可で導入する(後述)などの試みもあったが、経営は早々に行き詰まり、1929年(昭和4年)に全線営業休止、翌年廃止された。

路線データ

廃止時点のもの

  • 路線距離(営業キロ):19.3km
  • 軌間:762mm
  • 駅数:6駅または10駅[1](起終点駅含む)
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 動力:全線馬力→蒸気(末期に無認可で気動車を運行)

運行概要

1923年(大正12年)9月25日改正当時『時刻表復刻版 戦前・戦中編』時間表 十五年十月号より

  • 旅客列車本数:日6往復
  • 所要時間:全線1時間10分

歴史

1897年(明治30年)1月に丸森の斎藤信太郎は沿線の有力者らと共に馬車軌道を営業することを計画し、同年5月に県より特許状が下付された。同年10月に社名を角田馬車鉄道とし本社は角田町におき、社長は湯村保治が就任した[5]。株主は403人(3500株)でそのうち317人(2504株)が伊具郡の住人であった。その後計画を変更する必要があり[注 2]ようやく1898年(明治31年)8月に起工となった。このころ千住馬車鉄道が廃止されることになり車両や軌条を始め車両修理機械、机、椅子、時計などの備品を入手。さらには運輸、修理、保線の責任者まで移籍することになった。

1899年(明治32年)1月の総会で工事が9分通り完成したことが報告され同年4月に開業式を開くことに決定された。しかし都合により同年8月に延期され槻木 - 角田間が開業となった。開業後の旅客数は好調であり、その後1900年(明治33年)7月には舘矢間まで延伸開業した。さらに1901年(明治34年)7月には丸森舟橋までの延長 (600m)も計画された[注 3]。ところがこの好調な時期は長く続かず1903年(明治36年)には不景気や凶作(前年比5割減)の影響を受け旅客数、貨物量とも大幅な減少となった[6]。ついに1912年(明治45年)7月の定期総会において業績不振による無配の責任をとり、湯村は社長を退任することを表明した。

次に社長に就任した平間平助(槻木町)は1915年(大正4年)11月に馬の確保が難しいこと、馬糧費の高騰、馬の疲弊よる定時運行の支障などの問題に対処するため馬力から蒸気への動力変更願いを提出した。また翌年10月には角田軌道へ社名変更し、1917年(大正6年)6月に蒸気機関車が槻木 - 角田間に走るようになった。ただし角田 - 舘矢間間は第一次世界大戦後の不況による資材の高騰や蒸気化しても採算がとれないことから今まで通り馬車による運行であった。まもなく三代目社長の竹谷源平の決断により自動車に切り替えることになり、この区間は廃止することになった。そしてアメリカフォード製の乗合自動車により角田から舘矢間を経由し金山まで至る路線が運転された。しかし蒸気化し一部廃線したにもかかわらず会社の経営は不振をきわめ[7] 保守もままならなかった。枕木は腐朽し、機関車は故障した[8] 。遂に1924年(大正13年)11月には運転休止せざるを得ない状況に陥っていた[注 4]。このように経営不振に喘いでいる角田軌道に対し1925年(大正14年)4月に角田町では軌道を買収することを決議し、仮契約を結ぶことになったが、同年9月には契約を解約してしまう[9]。また槻木町では1914年(大正3年)から5年間にわたり2200円寄付したり、石炭費の補助をするなど[10] 救済策を打ち出していた。

幻の角田電気鉄道

角田軌道が沿線の自治体からの補助によりかろうじて存続している一方で沿線では新たな鉄道が計画された。それは東北本線大河原駅を起点として角田、丸山、金山町に至る約22kmの電気鉄道であり、国鉄と同じ軌間1067mmであった。大河原駅を起点としたのは阿武隈川氾濫のたびに被害を被る槻木 - 江尻を避け、また仙南温泉軌道と連絡することを考えたものであった。この鉄道敷設免許は1926年(大正15年)9月29日に下付された[11]。発起人の中には角田軌道の経営陣の名もみられ、軌道の買収を目論んでいたと思われる。資本金は85万円であったが不況で資金の目処もつかず工事延長願いを繰り返していたすえに1930年(昭和5年)にその延長願いも却下され実現しなかった[12]

年表

角田軌道は明治時代中期に開業し、昭和初期という早い時期に廃線となった。その歴史は30年強と比較的短い。過去に宮城県内に存在した鉄道会社各社のほとんどは、バス会社への転業・合併や仙台市交通局等への吸収という形で企業としての系譜が現在にまで至っているが、角田軌道は近郊にあった仙南温泉軌道にも買収されず、後継企業のないままに会社を解散しており、残存する資料は少ない[26]

輸送・収支実績

年度 輸送人員(人) 貨物量(噸) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) 雑収入(円) 雑支出(円) 支払利子(円)
1908(明治41)年 71,681 9,611 7,525 2,086 182
1909(明治42)年 67,403 10,136 8,579 1,557 412
1910(明治43)年 51,339 8,948 7,835 1,113 利子113
1911(明治44)年 57,879 9,766 7,713 2,053 利子120
1912(大正元)年 60,399 274 10,752 8,513 2,239 利子175
1913(大正2)年 53,626 86 9,813 9,317 496 利子210
1914(大正3)年 53,814 1,303 9,846 8,633 1,213 利子218
1915(大正4)年 56,716 1,740 10,088 7,737 2,351 利子220 450
1916(大正5)年 63,009 3,323 12,238 11,553 685
1917(大正6)年 84,187 1,909 15,863 17,580 ▲ 1,717 利子7,391 5,315
1918(大正7)年 82,243 15,745 28,216 26,609 1,607 自動車2,949
不要品売却37,846
2,511 2,278
1919(大正8)年 68,700 4,783 47,819 42,607 5,212 1,911
1920(大正9)年 53,918 4,475 45,938 44,512 1,426 5,283 9,200 2,191
1921(大正10)年 46,206 7,155 43,622 46,953 ▲ 3,331
1922(大正11)年 51,546 3,865 42,549 42,985 ▲ 436
1923(大正12)年 45,387 2,846 37,517 35,157 2,360 1,193 1,939 3,881
1924(大正13)年 38,863 3,868 35,483 40,065 ▲ 4,582
1925(大正14)年 23,969 706 19,134 23,048 ▲ 3,914 町補助金2,000
証書売却益金1,136
3,991
償却金104
3,136
1926(昭和元)年 41,386 1,997 35,976 35,578 398 償却金1,000 3,063
1927(昭和2)年 24,854 1,008 19,397 19,747 ▲ 350 雑損30 5,681
1928(昭和3)年 16,415 90 11,129 13,092 ▲ 1,963 3,923
  • 鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料より

駅一覧

停車場
槻木駅 - 小坂駅 - 岩崎駅 - 桜駅 - 角田駅 - 舘矢間駅[注 1]

接続路線

事業者名等は廃止時点のもの

車両

開業時千住馬車鉄道から譲渡された客車は12両(3、5号は二等車)、貨車5両。蒸気化された1918(大正7)年度は大日本軌道製蒸気機関車3両、30人乗りボギー客車4両、貨車3両。1928(昭和3)年度に客車が1両減でガソリンカーが1両増になった。

改造気動車

角田軌道を鉄道愛好者の間で有名にしているものに、1928年(昭和3年)に導入された改造気動車の存在がある。この改造気動車は、経営悪化への対策として導入されたもので、自社保有の木造ボギー客車の改造によって製作された。当局には無認可である。

その構造は、中古のフォードT型トラックから車輪・車軸を外し、運転台直後でシャーシを切断して、この前部部分だけをボギー客車の車端に接合した物だった。十分な支えもないトラックシャーシ部分は、エンジンの重みで前方に垂れ下がっていた(しかも軌道線ということからこのボンネット部に救助網まで付いていた)。無認可のため公式な設計図も残されておらず、駆動方式やブレーキ機構などは一切不明である。

運転台が片一方だけで逆転機も備えない単端式であるため、起終点での方向転換が必要になる。しかし、ボギー客車にトラックシャーシを接合した長いサイズでは軽便鉄道蒸気機関車用の転車台には収まりそうもないことから、「起終点にループ線ないしデルタ線を設けたのではないか」と推察されている[20]

当時の運輸業界誌の雑報でこの「気動車」の試運転が報じられ、槻木 - 角田間を40分ほどの快速で走破したという。この記事では、角田軌道が3t積み貨車にエンジンを搭載することを計画している旨が報じられているが、この「貨物気動車」計画が実現したかは全くわかっていない。

脚注

注釈

  1. ^ a b c 和久田康雄『私鉄史ハンドブック』(電気車研究会、1993年)では「館矢間」となっているが、正誤表 (PDF) で「舘矢間」に訂正。
  2. ^ 白石川にかかる私設の白幡橋に軌道を敷設するためには拡幅の必要があった。この橋の私設許可期限が明治32年1月だったので、県により架け換えることになり会社もその費用を負担した。また北郷では地権者と折り合いがつかずやむなく経路を変更したが県の知れるところとなり譴責を受けた。『宮城県史 5』680頁
  3. ^ 明治35年2月に却下になった『丸森町史』565頁
  4. ^ 大正14年6月20日に再開された。『角田町郷土誌』64頁
  5. ^ 開業後県の検査により不備を指摘され、改造をして完了したのは翌年10月2日となった。『宮城県史 5』 681頁

出典

  1. ^ a b c 今尾 (2008)
  2. ^ 1.白石市・蔵王町・七ヶ宿町 (PDF) (宮城県)
  3. ^ 写真で見るバスの歴史I公益社団法人日本バス協会
  4. ^ エネルギー-科学技術の進歩と現代生活財団法人日本原子力文化振興財団
  5. ^ 『日本全国諸会社役員録. 明治34年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 明治36年度上半期営業報告書『柴田町史』377-379頁
  7. ^ 仙南日日新聞大正12年5月1日「角田軌道仮差押」、5月2日「重役連袂辞職」の報道がある。『柴田町史』383頁
  8. ^ 大正12年9月25日仙南日日新聞に機関車の故障による運休に対し謝罪広告をだしている。『柴田町史』382頁
  9. ^ 『角田町郷土誌』65頁
  10. ^ 『柴田町史』381-383頁
  11. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1926年10月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  12. ^ 『宮城県史 5』706-708頁
  13. ^ a b 『帝国鉄道年鑑』473頁
  14. ^ 「特許状」『角田軌道(元角田馬車鉄道)、角六電気軌道(一)・自大正元年至昭和十一年』247-252頁
  15. ^ a b 鉄道院年報 軌道之部 明治41、42、43年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  16. ^ 「商業登記簿抄本」『角田軌道(元角田馬車鉄道)、角六電気軌道(一)・自大正元年至昭和十一年』93頁
  17. ^ a b c 『宮城県史 5』 681頁
  18. ^ 「軌道工事一部竣工報告」『角田軌道(元角田馬車鉄道)、角六電気軌道(一)・自大正元年至昭和十一年』218頁
  19. ^ 『角田軌道(元角田馬車鉄道)、角六電気軌道(一)・自大正元年至昭和十一年』243頁
  20. ^ a b c 湯口 (2004)51頁
  21. ^ 補助金めざし私鉄の猛襲不景気と自動車に押され四苦八苦の四百余社1930年5月25日付東京日日新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
  22. ^ 「軌道運輸営業廃止」『官報』1930年4月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  23. ^ 「鉄道省告示第461号」『官報』1935年10月15日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  24. ^ 「鉄道省告示第284号」『官報』1937年8月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  25. ^ 「鉄道省告示第174号」『官報』1938年7月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  26. ^ 国立公文書館所蔵鉄道省文書は大正8-12年及び大正15年-昭和5年分が鉄道省の火災により失われている『角田軌道(元角田馬車鉄道)、角六電気軌道(一)・自大正元年至昭和十一年』6頁

参考文献

  • 湯口徹『内燃動車発達史』 上巻、ネコ・パブリッシング、2004年。ISBN 4777050874 
  • 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』 2 東北、新潮社、2008年。ISBN 978-4-10-790020-3 
  • 『角田町郷土誌』1956年
  • 『角田市史2 通史編 下』1986年
  • 『柴田町史 通史編 2』1992年
  • 『丸森町史 通史編』1984年
  • 『宮城県史 5』1960年
  • 『角田軌道(元角田馬車鉄道)、角六電気軌道(一)・自大正元年至昭和十一年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)

関連項目