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ペクチョン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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白丁(はくちょう、はくてい)とは、中国日本朝鮮において特定の身分を指した言葉である。

概要

中国・日本と朝鮮とでは異なる意味を持った。中国と日本の律令制においては、の職を持たない無位無冠の良民の男子のことを指す。「白丁」の名は、無位無冠の者は色を付けた衣を身に着けずに白い衣を着けたことにちなむ。一方、朝鮮においては被差別民を指していた差別用語であった。

朝鮮における白丁

高麗時代までの朝鮮では、白丁は中国、日本と同じく無位無冠の良民を指す言葉であった。しかし李氏朝鮮の時には「백정」(ペクチョン/ ペッチョン)と呼び、七般公賤(官奴婢妓生官女吏族、駅卒、獄卒、犯罪逃亡者)八般私賤巫女、革履物の職人、使令:宮中音楽の演奏家、僧侶、才人:芸人、社堂:旅をしながら歌や踊りで生計をたてるグループ『男寺党』、挙史:女連れで歌・踊り・芸をする人、白丁)と言われた賤民非自由民)のなかで最下位に位置する被差別民を指す言葉になった。1423年、屠畜業者などに対する差別を緩和するために彼らを白丁と呼ぶようにした[1]。だが良民は彼らを「新白丁」と呼びながら相変らず差別したし、徐々に「白丁」は賤民のみを指す言葉になった。

起源については大別して神話説と異民族説と政治犯説などが唱えられている。異民族説は高麗に帰化した中央アジア系の韃靼族が政治の混乱に乗じて略奪を繰り返しことや、低位の扱いを受けていた朝鮮族などが差別を受けるようになったのが白丁の起源であるとされているという説である [2]

朝鮮半島で白丁が受けた身分差別は、以下のようなものである[2]

  1. 族譜を持つことの禁止。
  2. 屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工以外の職業に就くことの禁止。
  3. 常民との通婚の禁止。
  4. 日当たりのいい場所や高地に住むことの禁止。
  5. 瓦屋根を持つ家に住むことの禁止。
  6. 文字を知ること、学校へ行くことの禁止。
  7. 他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。
  8. 名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。
  9. を持つことの禁止。
  10. 公共の場に出入りすることの禁止。
  11. 葬式棺桶を使うことの禁止。
  12. 結婚式で桶を使うことの禁止。
  13. を常民より高い場所や日当たりのいい場所に作ることの禁止。
  14. 墓碑を建てることの禁止。
  15. 一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。

これらの禁を破れば厳罰を受け、時にはリンチを受けて殺された。その場合、殺害犯はなんの罰も受けなかった。白丁は人間ではないとされていたためである。

白丁は大抵、都市や村落の外の辺鄙な場所に集団で暮らし、食肉処理、製革業、柳器製作などを本業にしていた。白丁と常民の結婚は許されておらず、居住地域も制限された。また、高価な日常製品の使用も禁止されていた。農業や商業に従事することは禁止されていたが、李氏朝鮮中期になるとこの規制は緩み、農業などに従事していた者もいたようである。一方、国の管理に属さない化外の民であったため、戸籍を持たず税金や軍布(徴兵の代わりに収める布税)なども免除されていた。奴婢が国により管理されていたのとは対照的である。支出や行動が厳しく規制される反面、本業による手数料などを得ることができたことや、両班階級が財産を没収することすら忌み嫌ったために、李氏朝鮮時代に繰り返し行われていた庶民に対する過酷な財産徴収なども受けず、李氏朝鮮の中では唯一資本蓄積が可能な階級だったとも言われている。

1926年朝鮮総督府の統計調査によると、当時の朝鮮半島の白丁は8211世帯、3万6809人にのぼる。職業の内訳で最も多いのは獣肉販売業で27.8パーセント。これに屠畜、製革、製靴など牛に関係する一連の職業をあわせると48.8パーセント。農業が25.2パーセント。柳器製造が10.6パーセント。飲食店や低級旅館の経営が5.8パーセントであった。

身分解放

李氏朝鮮の時には免賤と言われる白丁階級からの解放もあったが、滅多に行われなかった。甲午農民戦争の時に農民軍は差別撤廃を主張したこともあったし、高宗時代の甲午改革の後、身分制度が廃止されながら白丁の身分も消えて国家官吏になる者も現れたが、差別は相変わらず残った。

1909年に日本政府によって韓国統監府が設置されると、戸籍制度を導入することで、人間とは見なされていなかった姓を待たない白丁を始めとする賤民にも姓を許可し、身分差別を撤廃した[3]。また、身分開放された白丁も学校に通うことが許可された。これに対して両班は認めないとして抵抗活動を繰り広げたが、日本政府はこれを断固として鎮圧した[3]通名も参照のこと。しかし履歴書などに身分を記入するようにして、戸籍上白丁は一般人と区別されるなど差別は消えなかった。1923年に白丁差別解消のための朝鮮衡平社が作られ、日本の水平社と協力して身分差別解消の運動を行っていた。だが共産主義と連関したと疑って弾圧したりしたし、解放運動家を「新白丁」と呼びながら侮辱する事もあった。

独立とその後の朝鮮戦争勃発による社会的混乱、工業化・民主化の過程での都市部への人口の移動によって、韓国の被差別階級は姿を消すこととなったが、現在もなお罵倒語として「白丁」(ペクチョン)「白丁野郎(ペッチョンノム)」という言葉が使われることがある。

北朝鮮は、「社会主義社会の下では、白丁問題は既に解決している」と回答しているが、実際には韓国の大統領を「人間白丁」と罵るように、差別意識は根強い。

米国の北朝鮮人権委員会は Helen-Louise Hunter の Kim Il-Song's North Korea(ISBN 978-0275962968)から引用し、北朝鮮は1946年から全ての国民を支配階級/平民/被差別民の3つの階層に分ける出身成分制度により、李氏朝鮮の封建王朝のような身分制度を採用していると報告している。[4]

現代

現代では戦前戦中に不法入国して住み着いた在日朝鮮人を南北朝鮮本土では白丁と呼び蔑んでいる。

日本における白丁

日本律令制度下では無位無官の公民、すなわち調を負担した正丁・老丁男子を指し、「ハクテイ」と呼ばれた。

なお、官人出身法制においてはもう少し広い意味を持ち、蔭子位子以外の者、すなわち本来の白丁に加えて位子以外の内位六位から八位の官人の庶子、外位・初位(内位を含む)・雑任等無位の官人の子(嫡子庶子は問わない)が含まれる。このうち内位八位以上の庶子及び郡司(大領・少領)の子については兵衛になる資格を有していたが、他については無位無官の公民である白丁と同様の扱いを受けた。

官司に雇われる場合には都に出て中央官司の舎人に採用されて勤務した後に叙位を受けるか、国衙在庁官人として勤務の後に叙位を受けた。または帳内資人などの皇親貴族の従者を勤めた後に叙位を受ける例もあった。更に戦争での武勲や文章生明法生などの学生に及第することによって、無位から昇進することもあったが四位がほぼ最高位であり、それ以上の昇進はほぼなかった(多くの場合は子孫に位子の資格が与えられない初位に留まったとされる。また、特殊な叙位の例としては蓄銭叙位令による叙位や財物貢献・瑞祥報告による叙位もある)。後にこうした規定も空文化されていくことになる。

また、官司の雑務に就いていても、白丁である限りは租庸調などの租税は免除されなかった。

関連項目

  • 済衆院 - 19世紀の韓国を舞台とした医療ドラマ。主人公は屠蓄に従事している白丁で、服装や住居など他の身分との違いが強調されている。

参考文献

  • 上原善広『コリアン部落』ミリオン出版、2006年
  • 金永大『朝鮮の被差別民衆』解放出版社1988年
  • 金仲燮『衡平運動 朝鮮の被差別民・白丁その歴史とたたかい』部落解放・人権研究所2003年
  • 『近世朝鮮の身分制度』(梁永厚)
    • 関西大学人権問題研究室紀要(上)19号pp367-432,(中)21号pp33-64,(下)23号pp57-114
  • 『賎民の文化史序説』いくつもの日本5巻,pp161-190(岩波書店2003)
  • リーダーシップの役割:朝鮮の白丁の場合[1]

脚注

  1. ^ 朝鮮王朝実録』世宗 22卷 世宗5年10月8日(乙卯)
  2. ^ a b 鄭棟柱『神の杖』解放出版社1997年
  3. ^ a b p95,96 大韓民国の物語 李榮薫永島広紀文藝春秋 2009/02 ISBN 4163703101
  4. ^ Committee for Human Rights in North Korea Overview on North Korean Prison Camps with Testimonies and Satellite Photographs, p.27