畿内七道地震

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畿内七道地震(きないしちどうじしん)は、奈良時代畿内を中心として発生したと推定される地震

地震の記録

続日本紀天平6年4月7日ユリウス暦734年5月14日、グレゴリオ暦5月18日)の条項に、大地大いに震い天下の民衆の家が倒壊し圧死者が多数出、山崩れ川の閉塞地割れが数えきれないほど発生したとある。

また、地震の5日後の4月12日に、畿内七道諸国に遣いを出して神社の被災状況を調べさせ、4月17日には天皇陵8か所と功のあった王の墓の被害状況を調査させた。さらに同日の招書では政事に欠くることなきよう注意し、4月21日には天皇の徳と政治の欠失を省みる詔が出され、7月12日には天変地異による大赦の詔が発せられたが、「天頻見異、地数震動」とあり、余震活動が続いたものとみられる[1][2]。このように天変地異の発生の責任を天皇が自ら負い、大赦などの詔が発せられた例は奈良時代から平安時代までいくつか見られる[3]

  • 『続日本紀』巻十一

天平六年夏四月

戊戌(7日)、地大震、壊天下百姓廬舍。圧死者多。山崩川擁、地往々折裂、不可勝数。

癸卯(12日)、遣使畿内七道諸国、検看被地震神社。

戊申(17日)、詔曰、今月七日、地震殊常。恐動山陵。宜遣諸王・真人、副土師宿禰一人、検看諱所八処及有功王之墓。又詔曰、地震之災、恐由政事有關。凡厥庶寮勉理職理事。自今以後、若不改励、随其状迹、必将貶黜焉。

壬子(21日)、遣使於京及畿内、問百姓所疾苦。詔曰、比日、天地之災、有異於常。思、朕撫育之化、於汝百姓有所闕失歟。今故、発遣使者、問其疾苦。宜知朕意焉。諸道節度使事既訖。於是、令国司主典已上掌知其事。

秋七月

辛未(12日)、詔曰、朕、撫育黎元、稍歴年歳。風化尚擁、囹圄未空。通旦忘寐、憂労在茲。頃者、天頻見異、地数震動。良由朕訓導不明、民多入罪。責在予一人。非関兆庶、宜令存寛宥而登仁寿、蕩瑕穢而許自新。可大赦天下。其犯八虐、故殺人、謀殺々訖、別勅長禁、劫賊傷人、官人・史生、枉法受財、盜所監臨、造偽至死、掠良人為奴婢、強盜・窃盜、及常赦所不免、並不在赦例。

伯耆国から出雲国に本地震に関する太政官符が送られ、これは『続日本紀』にある畿内七道諸国に神社の調査を命じた件を指している可能性があるとされる[1]

  • 『出雲国計会帳』

天平六年四月

十六日移太政官下符壹道、地震状

熊野年代記』にも本地震の記載があり[4]熊野で神倉が崩れて火の玉が峰から東の海に飛んだという記述が見られるが、信憑性は劣るとされる[1]。   

  • 『熊野年代記』

天平甲戌

熊野五月大地震神倉崩ヨリ玉東海飛、西金堂興福寺建四月諸国大地震丙子八

神倉成、今神倉成

八木町神社誌』にも『住吉神社記録』にこの地震で社殿が破損したとの記述が見られる[5]

  • 『八木町神社誌』

聖武天皇御宇、天平六甲戌年四月

地大いに震う。この時住吉神社の社殿大に傾斜し、既に大廃に至らんとす。

誰か造営するものなかりしが、同九年八月、疱瘡四方に起り、死者多かりしとき、村老の曰く、前年の地震にて我産土神御屋根破損し雨露落下す。此れ神明病疫を以て村民に論すものならん。と、村民驚愕し翌戊寅の年、従来社殿よりも規模広大にして造営し、神明に奉謝すと。

地震像

畿内七道諸国に神社の調査のため遣いを出した記述にある「畿内七道」は日本全国を表す五畿七道と同義であり、「五畿七道大地震」と呼ばれ南海トラフ巨大地震と推定される仁和地震宝永地震などと共に列挙されている書籍も存在するが[6][7]、本地震には津波記録や温泉の湧出停止など南海トラフの地震の特徴を示唆する史料が確認されていない。

生駒断層帯に属する誉田断層の活動時期について、5世紀に造られた誉田山古墳の墳丘に地震活動と推定される変異が認められ、また、生駒断層の四条畷における活動時期は放射性炭素年代測定から西暦100年から1000年の間と推定されている[8]。以上のことから生駒断層と誉田断層の最新の活動時期は西暦400年頃と1000年頃の期間で重なりあっており、生駒断層帯の最新活動はこの時期にあり、734年の地震が候補に挙がるとされる[9]

河角廣(1951)は吉野付近(北緯34.3°、東経136.1°)に震央を仮定し規模MK = 4.3 を与え[10]マグニチュードM = 7.0に換算されている。宇佐美龍夫(2003)は震央や規模は不明としている[11]

参考文献

  1. ^ a b c 閲覧検索画面 古代・中世地震・噴火史料データベース(β版)
  2. ^ 寒川旭 『地震の日本史』 中公新書、2007年
  3. ^ 今村明恒(1944) 今村明恒(1944): 地震及び火山噴火に關する思想の變遷, 地震 第1輯, Vol.16, No.6, 135-140, JOI:JST.Journalarchive/zisin1929/16.135
  4. ^ 宇佐美龍夫 『日本の歴史地震史料 拾遺 二 自成務天皇三年至昭和三十九年』 東京大学地震研究所編、1993年
  5. ^ 東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 続補遺 自天平六年至大正十五年』 日本電気協会、1994
  6. ^ 今村明恒 『鯰のざれごと』 三省堂、1941年
  7. ^ 沢村武雄 『日本の地震と津波 -南海道を中心に-』 高知新聞社、1967年
  8. ^ 地震調査研究推進本部 生駒断層帯の評価
  9. ^ 萩原尊禮『続古地震-実像と虚像』 東京大学出版会、1989年
  10. ^ Kawasumi(1951) 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値,東京大學地震研究所彙報. 第29冊第3号, 1951.10.5, pp.469-482.
  11. ^ 宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年