島原大変肥後迷惑
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島原大変肥後迷惑(しまばらたいへん ひごめいわく)とは、寛政4年(1792年)に長崎県でおこった雲仙普賢岳の噴火およびその後の眉山の山体崩壊とそれに起因する津波災害。津波は島原対岸の肥後(熊本県)にも大きな被害を与えたのでこのように名付けられた。
雲仙普賢岳の火山活動により島原地方(現在の島原市)で有感地震が続き、その後普賢岳から噴煙が上がり、溶岩流や火山ガスの噴出も見られるようになった。活動が収まりかけたかに見えた旧暦4月1日(新暦5月21日)、大地震によって城下町の背後の眉山が大規模に崩壊し、大量の土砂が島原の街を通って有明海へ向かって流れ落ちた。これを「島原大変」という。この時の死者は約5千人といわれている。
有明海に達した土砂の衝撃によって発生した高波が、島原の対岸の肥後国天草に襲いかかった。これを「肥後迷惑」という。肥後の海岸で反射した返し波が島原を再び襲った。津波による死者は約1万人といわれている。
島原大変肥後迷惑による死者は合計1万5千人にも及び、有史以来日本最大の火山災害となった。
この時に有明海に流れ込んだ岩塊は、島原市街前面の浅海に岩礁群として残っており、九十九島(つくもじま)と呼ばれている。これは地形学的に言うと「流れ山」と呼ばれる地形である。同じ長崎県の佐世保市から平戸市にかけては九十九島(くじゅうくしま)と呼ばれる群島があり、混同しないよう注意を要する。
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[編集] 序章
1791年(寛政3)末ごろから、雲仙岳西側で有感地震が多発。震源が徐々に普賢岳に向かって行った。1792年の新暦2月、普賢岳で噴火が始まった。この時は火砕流はなかった。溶岩は2ヶ月掛けて2km、千本木という部落まで流れて止まった。その後、地震は島原の近くに震源を移し、有感地震がなお続いた。
新暦4月21日からは、島原近辺での地震活動が活発になった。
[編集] 山体崩壊
群発地震が収まりかけた新暦5月21日の夜、2度の強い地震が起こり、眉山の南側部分が大きく崩れ、大量の土砂が島原城下を通り有明海になだれ込んだ。眉山崩壊の原因については、直接の火山活動によるものか、雲仙岳の火山性地震によって誘引されたものであるかは、現在でも定かではない。
[編集] 津波
その衝撃で津波が発生し、対岸の肥後天草でも多くの人が命を落とした。死者・行方不明者1万5千人のうち約3分の1が肥後領側で亡くなったので、「肥後迷惑」と呼ばれた。島原地方には今も多くの絵図や古記録が残っている。
[編集] 参考図書
- 『地球をあそぶ―21世紀への伝言』竹内均 リクルート ; ISBN 4889910395 ; (1985/01)
- 『彦九郎山河』吉村昭 文春文庫
[編集] 外部リンク
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