畠山義春

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畠山 義春
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄6年(1563年
死没 寛永20年8月13日1643年9月25日
改名 上条義春(上杉義春)→畠山義春
別名 五郎、弥五郎(通称)、入庵(号)、民部少輔、織部
戒名 奥松院殿入庵宗波(破)大居士
墓所 京都府京都市北区紫野大徳寺町の龍宝山大徳寺
幕府 江戸幕府
主君 上杉謙信景勝豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
氏族 能登畠山氏上条上杉家→能登畠山氏
父母 父:畠山義続[1] 母:不明
養父:上杉謙信上条政繁
兄弟 義綱義春
義兄弟:山浦景国上杉景虎上杉景勝
景広長員義真小山田義広
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畠山 義春(はたけやま よしはる)は、戦国時代武将畠山氏の一門である能登畠山家に生まれ、上杉謙信の養子の一人となるが、後に元の畠山家旧跡に復した。

生涯

上杉家臣時代

天正5年(1577年)に七尾城が上杉輝虎(謙信)に落とされると、一旦上杉一門の上条政繁のもとへ預けられた後に謙信の養子となった[2]。その後、上条政繁[3] に子がなかったため、改めてその養子となる。畠山氏は足利氏一門の名門で、足利氏の外戚である上杉家との血縁も有し、家格も充分(謙信は名門の家柄には敬意を持っており、その血筋も養子にした一因と思われる)であった。

成人後は越中能登前線に配置され、後に養父に従って信濃海津城に赴任する。天正12年(1584年)、長男景広(景勝の甥。この時まだ景勝に子がいなかったため)を人質として豊臣家へ送られることが決まると、証人として義春も上洛した。その際に代償として軍役と領内の諸役を免除されている。

天正14年(1586年)、政繁が上杉家を出奔し、のちに義春自身も天正16年(1588年)頃に出奔した[4]これに激怒した景勝は、実妹(姉とも)[5]である義春夫人とその子供たち全員を捕縛し、十年近くもの間座敷牢に幽閉した[要出典]との説もあるというが、『上杉家御年譜』では長男景広と次男長員は父と行動をともにし、三男義真のみ越後にとどまるも、ほどなく父のもとに赴くとある[6]

出奔の理由については、景勝と信濃統治などをめぐる対立があったとされるほか、景勝の側近として頭角を現していた直江兼続による讒言説、さらに当時上杉氏に叛旗を翻していた新発田重家と養父政繁が親しい仲にあったなどの諸説がある。

豊臣家臣時代

豊臣秀吉の直臣となり、天正15年(1587年)、河内国高安郡のうち500石を与えられる。天正18年(1590年摂津国豊嶋郡に300石を加増され、文禄・慶長の役では肥前国名護屋城に在陣している。翌年、河内国交野郡に700石を加増され、父の遺領を合わせて1500石を知行した。

幕府旗本となる

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属した(この頃、徳川家康の食客となったとも)。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、徳川方との内通を疑われた片桐且元大坂城退去に伴って退城し、翌慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では徳川方に属した。戦後は江戸幕府に仕え、家康の命で畠山姓に復して江戸に暮らした。1643年(一説として1625年)に京において死去。

後に上杉氏とは和解し、次男長員が旗本として高家となり、同じく旗本となった宅間上杉家深谷上杉家よりも高禄であった。

異説

  • 一説には畠山義隆の子・春王丸と義春を同一人物とするが、義綱の弟である義春と春王丸の名前を混同したためであろうと推測される。

脚注

  1. ^ 『寛政重修諸家譜』などに基づく、ただし『寛政譜』は政繁と義春を同一人物としている。上杉家に伝わる系譜(「藤原姓上杉氏」「外姻譜略」)では別人とされ、畠山義隆の子とする。なお、伊佐早謙『畠山入庵考』(写本:東大史料編纂所蔵)には、義春を畠山義則の子、義隆の弟とする系図が記載されている。
  2. ^ 高橋義彦編『越佐史料』五ー四一七、『上越市史』別編1上杉氏文書集一(1368)
  3. ^ 従来、後に養父となる政繁と義春は同一人物といわれてきた。「上杉氏系図」「外姻譜略」(『上杉家御年譜』)では政繁と義春を別人として記載している。参考 今福匡「戦国期上条氏の実相」(『歴史研究』466号)
  4. ^ 天正16年正月、景勝主催の連歌会の参加者に上条弥五郎(弥五郎は政繁・義春・景広が名乗っている)の名前があり、景勝の発句に続いて詠んでいる。藤木久志「連歌をよむ武士たち」(『戦う村の民俗を行く』朝日新聞出版)
  5. ^ 江戸期の軍記物語の影響で以前は政景の長女で景勝の姉とされていたが、近年は政景の次女で景勝の妹というのが定説とされる。
  6. ^ なお、「文禄三年定納員数目録」には「上条様附」として8名の家臣の知行高が記載されており、「会津御在城分限帳」「直江支配長井郡分限帳」にも「上条弥五郎 1100石」の記載がある。参考 矢田俊文他編『上杉氏分限帳』高志書院