ノート:畠山義春

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別人説をとる場合、天正14年に出奔したのは、政繁の方ではないでしょうか。天正15年に秀吉から知行を受けたのも、政繁だと思います。秀吉朱印状の宛名が上条入道とのへとなっていますから。むしろ、義春の行動がこの時期よくわからないと思うのですが。(養父と行動をともにしたのかどうか)また、義春が養父とともに松倉城や海津城の城将となったという出典はなんでしょうか。--Thomo 2008年12月4日 (木) 20:55 (UTC)[返信]

編集した者です。上条政繁の件は承知しました。私の調査不足です。吉川弘文館『戦国人名事典』にもご指摘の記述がありましたが、「上条入道」の事なのかがはっきり書かれていませんでしたので、やや自信なさげに記述した次第です。
義春の動向ですが、松倉城に入ったかは当方確認しておりません。海津城の方は、今福匡「戦国期上条氏の実相」(『歴史研究』466号)か前述の『戦国人名事典』を参考にしているはずです。……申し訳ありません。特定の必要がありましたら、多少時間を頂きますが、近日中に再調査に参ります。また義春の出奔時期に関しましても、上記資料を参考にさせて頂いています。--hat2867 2008年12月5日 (金) 13:36 (UTC)[返信]
松倉城のことは私の勘違いです。申し訳ありません。
義春の動向ですが、政繁より遅れて出奔した可能性はないのでしょうか。天正14年に政繁が出奔したことは、当時の史料から間違いないと思うのですが、天正16年春日山城での連歌会の連衆の上条弥五郎が気になります。出典の「上杉家記」は政繁としていますが、義春の間違いということはないでしょうか。出奔時期が天正14年説、天正16年説の二つあるのは、もしかしてそれぞれ別々に出奔したせいではと思ったりもしたものですので。--Thomo 2008年12月9日 (火) 14:12 (UTC)[返信]
連歌会については同意します。「上条弥五郎」を名乗ったのは政繁・義春・景広の三代ですが、景広は秀吉の元に人質に入っていますし(当時がどうだったかは知りませんけれども)、政繁は同時代史料なら「上条入道」か「上条宜順」とあると思われる(後代の編纂史料には「上条弥五郎」の表記もあり)ので、連歌会での「上条弥五郎」は義春の可能性が高いですね。重臣たる父が出奔しても連座しなかったのは、彼が名門畠山氏出身だったからでしょうか。そうなると上条政繁の正体も気になる所です。--hat2867 2008年12月10日 (水) 04:19 (UTC)[返信]
いろいろご教示いただきましてありがとうございました。天正16年の連歌会のことですが、藤木久志氏は、連衆のメンバーが成立間もない景勝政権を支える実力者たちであるとし、連歌会はその結びつきを確かめる場であったと述べられています。景勝が言う事を聞かない政繁を五郎(義春)に説得させている書状も残っており、もしかして、政繁の出奔の原因は、景勝・兼続が政繁に代えて義春を上条家の当主に据えようとした可能性もあるのではと思っています。ただそうなると、なぜ義春も出奔してしまったのかという謎が残りますが。政繁の出自に関しては、たしか今福匡氏も片桐昭彦氏もやはり畠山氏の出身とされていたと思いますが、どうなのでしょうか。秀吉の人質となった景広に関しても、分限帳の記載から会津時代まで上杉家にいた可能性があると思うのですが、なぜか御年譜では父とともに出奔したとされており、人質になったのも弟の義真とされています。調べれば調べるほど謎が深まる畠山一族ですが、また何かわかりましたら宜しくお願いいたします。--Thomo 2008年12月12日 (金) 19:50 (UTC)[返信]
たくさんの資料に目を通されているようで感服します。同時代史料など、信用できそうな史料からもう一度組み立て直した方が真実がはっきりするかもしれませんね。素人としましては、今後の研究が進展する事を待つばかりです。--hat2867 2008年12月13日 (土) 11:47 (UTC)[返信]


義春の父について[編集]

義春の父は定説ではどの人物なのでしょうか? 私は詳しくは知りませんが、畠山義綱が父というのは聞いたことがないのですが有名な説なのでしょうか? また以前義春の父畠山義隆となっていましたが、畠山春王丸と義春は別人として項目を立てられてるし、畠山氏の項目の系図にも義春の父は義続とあるので、義春の父は義続ですよね、どうなのでしょうか? --Kagetudo 2009年2月17日 (火) 08:15 (UTC)[返信]

定説といっていいのかわかりませんが、吉川弘文館『戦国人名辞典』では、上条義春の父は畠山義隆となっています(執筆者は福原圭一氏)。片桐昭彦氏も「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」(『上越市史研究』第10号 2005年)で義隆の子とされていたと思います。天正5年の義隆の子を養子にしたと書かれている謙信書状と上杉家側の史料である「藤原姓上杉氏」、「外姻譜略」(『上杉家御年譜』二十三)を重視してのことと思われます。個人的には、天正5年に15歳とされる義春の年齢を考えるとどうなんだろうという疑問はあるのですが。義隆は一時二本松氏を称していたそうですが、確か米沢藩に仕えた畠山氏から二本松家が分家しています。
いままでの通説では義春の父は義続となっていたと思いますが、これは義春と政繁を同一人物とする畠山家の伝承が前提となっていたと思われます。能登畠山氏の研究家の方の最近の論文は知らないのでこの点についてはどうなのでしょうか。それから編集合戦となっていた、義春の父を義綱とする系図は確かに存在するようです。--Thomo 2009年2月17日 (火) 14:38 (UTC)[返信]
年齢的に考えると、 義春は義続の孫義続は義春の孫世代だし、義隆は義春と同世代だと思うんですが--出羽卒族 2009年3月9日 (月) 03:58 (UTC)[返信]
謙信書状において「畠山義高の妻三条息女を北条高広の妻にしてはどうか。三条息女は家柄もよく、年齢もちょうどいい。彼女には息子が一人おり、その息子は謙信が養子とする」と言っているので義春がこの謙信が養子にした子であると解釈するのであれば伝承もしくは系図の方が間違っている、もしくは謙信書状に出てくる「畠山義高の息子」と「畠山義春」は全くの別人であると解釈するしかないのでは。--Agira 2009年3月9日 (月) 08:53 (UTC)[返信]