沖縄気象台

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沖縄気象台(おきなわきしょうだい)は、沖縄県にある気象台で、沖縄県の天気予報業務などを行っている。管轄下に、南大東島地方気象台、宮古島地方気象台、石垣島地方気象台、那覇航空測候所がある。

「沖縄地方気象台」と間違って言われることがあるが、沖縄県は海洋面積で計算するとその広がりが非常に大きいため、法令の規定により当面の間管区気象台と同等の地位とされている。

沖縄気象台の沿革

気象業務の開始から沖縄戦まで

1930年頃の沖縄地方気象台

1887年(明治20年)、中央気象台が沖縄県に対し那覇に二等測候所を置くように指示し、1890年(明治23年)7月1日に「沖縄県立那覇二等測候所」として那覇若狭町村字松尾山(マーチュー)で1日6回の気象観測を開始した。この日を沖縄気象台設立記念日としている。当初は職員3人で発足し、首里・国頭・宮古・八重山、久米島、美里の6役所に簡易気象観測所を設置した。

1895年(明治28年)、日清講和条約により台湾が日本領になったとき、南西諸島が本土と台湾を結ぶ中継地として、石垣島に附属測候所を設けるなど事業を拡大。1900年(明治33年)には、毎日24回の定時観測通報を義務づけられた一等測候所に昇格した。

1924年(大正13年)5月1日、失火によって全焼し、蓄積してきた観測資料をすべて失った。当時の第4代中央気象台長・岡田武松(1874年~1956年)は、「沖縄には本邦屈指の高度な無線機器を設置し、国営にすべきである」と内務省・文部省・大蔵省を説き、国営への移管に成功する。これにより、「沖縄県立那覇一等測候所」は「中央気象台附属沖縄測候所」となり、沖縄県会議事堂に仮住まいして観測・予報業務を再開し、その合間に新庁舎の候補地選定を急いだ。1927年(昭和2年)4月5日、蚊坂(ガジャンビラ)に鉄筋コンクリート造りの庁舎群と地上約90メートルの無線大鉄塔2基が竣工、5月5日から気象業務を開始した。

その後、官制の改正で、1932年(昭和7年)に中央気象台沖縄支台、1939年(昭和14年)に沖縄地方気象台と改称、沖縄戦後米軍に接収されるまで国営で運営された。 沖縄戦の際には、職員は気象台・陸軍・海軍へと分かれ、特攻隊への気象情報の提供のため気象台は防空壕を掘って観測通報を続けたが、1945年(昭和20年)5月24日に、壕が爆撃され沖縄地方気象台としての組織が壊滅・機能消失した。 その後も、陸軍第十野戦気象隊らと観測通報に努めたが、途上で離脱。沖縄戦勃発時に在籍した38人のうち33名が戦没した。

1945年(昭和20年)8月11日に沖縄測候所に降格(沖縄以外の地方気象台は管区気象台へ昇格)、さらに1946年(昭和21年)11月13日に廃止された。

沖縄戦

琉風の碑

1944年(昭和19年)10月10日、沖縄では大空襲があり、特に那覇市は集中的な攻撃を受け、市域の90%が焼失した。那覇港や飛行場の近傍にある丘の上にあった沖縄地方気象台は、建物は幸い奇跡的に爆撃を逃れて無事だったが、万一に備え庁舎の南方に防空壕を掘った。また、海軍や陸軍の気象班も同じような壕を近くに掘った。

1945年(昭和20年)3月24日から艦砲射撃が加えられ、沖縄地方気象台も攻撃の対象となり大変危険になったことから、庁舎の南方に掘った防空壕に移転することになった。気圧は壕内で、気温と湿度は壕の入り口付近で、風向風速は目視で観測し、毎時刻福岡管区気象台に通報を行った。

1945年(昭和20年)4月1日、沖縄本島に米軍が上陸し地上戦が始まった。一度海軍や陸軍の壕への撤退も考えたが、当時の田中台長代理(本当の台長が赴任する前に沖縄戦が始まってしまったため、一番高級の田中技師が台長代理を勤めた)が、海軍の壕の通信システムが悪環境で通信がはっきりしないため、8人の気象台職員の蚊坂の壕への残留を決意した。5月下旬、米軍は気象台の通信を探知したらしく、防空壕付近に猛烈なグラマン機による空襲を受け、爆弾のため壕内で落盤が起こった(5月24日)。5月27日にその壕を放棄し、陸軍第十野戦気象隊とともに糸満市真栄平に南下した。

1945年(昭和20年)6月12日、真栄平で陸軍第十野戦気象隊と分かれて行動することになり、この日未明には糸満市伊原に宿営し、6月22日に生き残った12名が解散し、その後それぞれ悲しい運命を遂げた。また、陸軍第十野戦気象隊は6月20日まで観測通報を続けたものとみられている。

戦後、沖縄地方気象台の壊滅を聞いた全国の気象官署の職員と琉球気象台の献金によって「琉風の碑」が作られ、1950年(昭和25年)12月15日に除幕式が行われた。

琉球政府時代の気象官署の沿革

連合国軍総司令部(GHQ)は、気象事業について、沖縄本島の気象観測は嘉手納の米空軍気象隊に命じ、本島以外の南西諸島の気象官署は引き続き東京の中央気象台に運営させた。

米国極東軍司令部は1950年(昭和25年)1月、軍政を琉球臨時中央政府に移行するのに伴い、気象業務を琉球人によって行うことを計画。那覇市に琉球気象局(同年3月に琉球気象庁、同年4月に琉球気象台に改称)を開設した。それに伴い、中央気象台から出張勤務していた本土出身者は引き揚げることになり、業務は地元出身者のみで運営されることになった。

その後、1952年(昭和27年)4月1日の琉球政府発足以降、日本復帰までの気象官署の沿革は以下のとおりである。

  • 1952年(昭和27年)4月1日 琉球政府郵政局琉球気象台となる。
  • 1952年(昭和27年)10月8日 本土中央気象台と琉球気象台間に無線電信が開通。
  • 1953年(昭和28年)4月1日 琉球政府の機構改革に伴い工務交通局の附属機関となる。
  • 1955年(昭和30年)7月3日 戦後初めて、新聞(沖縄タイムス朝刊)に天気図が掲載される。
  • 1956年(昭和31年)5月1日 立法院制定の気象業務法(1955年立法第71号)が施行される。
  • 1964年(昭和39年)4月8日 米国気象学会沖縄支部が結成される(琉球気象台は10年前から米国気象学会に入会済)。
  • 1965年(昭和40年)8月1日 琉球政府の機構改革に伴い、通商産業局の外局「琉球気象庁」となる。それに伴い管内の各測候所は気象台に昇格。
  • 1967年(昭和42年)10月17日 琉球気象庁長が本土気象庁部長会議に初出席。

復帰後の沿革

当初、気象庁は沖縄の本土復帰に合わせて「那覇管区気象台」への改組を計画したが、大蔵省との折衝の結果、ミニ管区とすることにし、「沖縄気象台」となった。 1987年(昭和62年)、沖縄気象台は「天久」から「樋川」の那覇第1地方合同庁舎に移転し、今日に至っている。

沖縄気象台の組織

沖縄気象台は、沖縄気象台(本台)のほか、宮古・八重山諸島・大東島地方を管轄する。全国の11地方予報区の一つ「沖縄地方」の地方予報中枢である。地方気象台は、宮古島石垣島南大東島にある。また、那覇空港には那覇航空測候所、その他の空港には空港出張所が置かれている。 なお、沖縄気象台は各管区気象台と当分の間は同等とされる(国土交通省設置法第48条第2項)。

沖縄気象台(本台)の組織

各管区気象台とは異なり、「部」は存在しない。

  • 総務課
  • 会計課
  • 業務課 - 気象証明・鑑定などの窓口となっている。
    • 気候・調査室 - 季節予報・天候情報を発表する。
  • 予報課 - 天気予報や各種気象警報・注意報を発表する。
  • 観測課 - 地上や気象レーダー等の観測機器を用いて気象観測を行う。海洋気象台と同様の海洋観測も担当する。
    • 高層気象観測室 - オゾン観測及び紫外域日射観測(オゾンゾンデ・ドブソンオゾン分光光度計を用いる)。
      • 気象庁では世界各国と協力し、上空のオゾン量の変化を監視するため、那覇のほかにも札幌(札幌管区気象台)、つくば(高層気象台)、南極(昭和基地)の4か所でオゾン観測を行っている。
  • 地震火山課 - 地震、津波や火山の観測を行い、地震情報などを発表する。
  • 通信課 - 管内の気象官署の通信機器の保守・管理を行う。

地方組織

各地方気象台は、他管区の地方気象台とは異なり、「防災業務課」が存在しなかったが、2010年(平成22年)4月に宮古島・石垣島地方気象台には防災業務課が新設された。南大東島地方気象台は、従前のとおり「防災気象官」「防災業務係長」「防災指導係長」などは技術課に配置されている。なお、大気バックグランド汚染観測は、与那国島のほか、綾里南鳥島の国内3か所で行われている。

沖縄で唯一の降雪

1977年2月17日に、久米島みぞれを観測したのが唯一の降雪記録。

関連文献

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外部リンク