橘家圓太郎

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橘家 圓太郎(たちばなや えんたろう)は江戸東京落語の名跡。当代は8代目。初代のみ橘屋。 6代目と7代目の間に5代目圓生の門で確認されているが目立った活躍がなく二つ目で終わっている為か代数として数えられていない。

初代

(? - 1872年10月15日)本名は出淵長蔵

出淵氏は、伊予国河野氏の支族といい、父の名は大五郎。加賀国大聖寺藩の江戸留守居役の長子に生まれたが、庶子であったために、葛飾新宿村で農民となった。長蔵は、大五郎の義弟で出淵家の当主・十郎右衛門盛季に預けられたが左官職を生業にしていたが、放縦な生活を好み、天保初年頃に芸人となって2代目三遊亭圓生(よつもくの圓生)に入門し音曲師の圓太郎となった。最初は芝居咄を演じ後に音曲咄に転じたが、晩年には初代三遊亭?圓橘を名乗っているが確証はない。背中にらくだの刺青を入れていたことから「らくだ」とあだ名された。また文久時代からは狐山堂卓朗(小森卓朗)の門下で橘園新声(または橘菴三圓)を名乗り俳諧も嗜んだ。実子は落語家で弟弟子三遊亭圓朝。生来の放浪癖は遂に収まることがなかった。享年不明。

2代目

( - 1879年7月)

俗称を豊次郎(豊吉とも)いい、外神田旅籠町の生まれで鮨屋を業とした。1855年3月21日に三遊亭圓朝(圓朝にとって一番弟子)の門に入り圓三から文久元年頃に栄朝となり、明治初年?に2代目橘家圓太郎を襲名した。この頃からあだ名を「鮨屋(すし屋)の圓太郎」といった。1878年頃に5代目司馬龍生を継いだ。1879年7月に越後で当時流行していたコレラで静養中に火事で死去した。

3代目

生没年不詳

最初は2代目桂文楽(後の5代目桂文治)の門で金楽、後に三遊亭圓朝の門で三遊亭圓寿から圓太郎になった。生没その他詳細は不明。

4代目

弘化2年5月11日1845年6月15日) - 明治31年(1898年11月4日)本名は石井菊松

浅草駒形の生まれで圓朝の売れ出しの頃の弟子で萬朝、二つ目昇進し、三遊亭圓好、真打昇進では圓太郎襲名。最初は音曲師であり人気がない存在だったが、初代三遊亭萬橘が「へらへらっ!」という竹橋の鎮台(兵営)ラッパにヒントを得て中華そば屋のチャルメラの如きガタ馬車(乗合馬車)の御者が吹く真鍮のラッパを吹き、出囃子代わりに高座に上がるようになった。これが人気を博し珍芸ブームに乗って俗に「ラッパの圓太郎」と言われ、「へらへらの萬橘」こと初代三遊亭萬橘、「ステテコの圓遊」こと初代三遊亭圓遊、「釜掘りの談志」こと4代目立川談志の4人をして珍芸四天王と言われた。この圓太郎の芸から乗合馬車のことを「圓太郎」「圓太郎馬車」などと呼んだ[1]。また、関東大震災直後の帝都交通の復旧手段として急遽登場した市営バス(現在の都営バス)は急造であったため、ガタ馬車同然の車体であった。このため、この市営バスにもこの言葉が引き継がれ「圓太郎バス」などとも言われた。

弟子に橘家圓左衛門がいる。1898年に来阪し寄席に出ていたが胃の病気に侵され帰京後まもなく亡くなった。享年54。

5代目

慶応元年(1865年) - 昭和14年(1939年9月18日)本名は斎藤徳次郎

東京の神田鍛冶町生まれ、風呂屋の子で17歳まで骨董屋に奉公に出たが新内端唄の稽古に通う傍ら天狗連に出るようになる。19歳の1883年頃に2代目三遊亭圓馬(当時三遊亭圓雀)に入門し三遊亭?小雀から明治20年代に伯馬を名乗った。1892年頃に4代目三遊亭圓生門下に移り橘家圓三に改名、1896年11月に4代目橘家小圓太となった。1899年春に京都に移り新京極の笑福亭という寄席に出向きそのまま京都で腰を据えた。1902年2月に5代目襲名の話が持ち上がり急遽帰京した。襲名披露会は同年3月の上席神田川竹において催された。しかし翌年には再び京都に戻っている。1904年9月には噺家の傍ら笑福亭の席亭(席主)を就任し経営に手腕を発揮し寄席の集客に力を入れた。その後は講釈等の寄席を数席買収し成功を収めている。晩年は寄席の営業、噺家を休業し神戸で料亭を営み、「実業家圓太郎」と言われた。1916年10月に反対派が組織されたとき他派との対抗の為に芸人の補強が必要だった為この圓太郎も招集され噺家に舞い戻った。昭和に入りは京都で隠居生活送った。音曲噺を得意とした。享年75。

立花家圓太郎の名義でSPレコードを多く残している。

弟子には5代目橘家小圓太(戸塚韓太郎)、気取家延若三升亭?三升家?勝太郎

6代目

1861年10月 - ?)本名は鈴木定太郎

東京の生まれ、神田の天狗連で万年家亀三郎と言い1888年3月に初代三遊亭遊三に入門し、三遊亭三玉を名乗り、1898年5月に初代小遊三1914年1月に公園さらに1917年6月に6代目圓太郎襲名。「富山町」と言われた小遊三、公園時代に大いに売れ、音曲噺のSPレコードを残しているが圓太郎になって名前負けし人気が落ち、昭和に入ると番付には見られなくなっている。1929年10月の高座を最後に引退。没年不明。

実の弟も同じ初代三遊亭遊三門下で三玉を名乗っていた。

7代目

1901年11月20日 - 1977年8月15日)本名は有馬寅之助。生前は落語協会所属。出囃子は『土佐節』。俗に「八王子の圓太郎」。

深川の区役所職員、代用職員、証券会社社員などの職業を経て1925年初代橘ノ圓に入門し、橘ノ百圓と名乗ったが、1935年に師匠圓夫婦が京都で死去し、巡業中の5代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)の内輪弟子になり正岡容の尽力で1943年4月に7代目圓太郎襲名。その後8代目桂文楽一門にいたが修行が厳しく耐え切れず再び正蔵(馬楽より改名)一門に戻っている。 正岡らの影響で自作の新作も多く「センターフライ」「福柳」「選挙」などがある。他は、音曲なども得意とした、興が乗ると大ネタ「紙屑屋」を披露している。

戦前から長らく八王子に住んでいたので仲間から落語の『山号寺号』をもじって「圓太郎さん八王子」と呼ばれた。

1977年8月15日に死去した。享年75。8代目圓太郎は彦六の曾孫弟子が襲名した。

8代目

1962年昭和37年)9月28日 - )本名は鵜野 英一郎(うの えいいちろう)。落語協会所属。福岡県福岡市出身。出囃子は『圓太郎囃子』。

トライアスロン好きとしても有名。第1回東京マラソンを完走し、そのまま鈴本演芸場の高座へ直行した(2007年2月18日)。まさに「落語界の鉄人」である。

橘家圓十郎(当代は2005年襲名)と名前がよく似ているが、当代同士は別々の一門である。

略歴

  • 1982年1月 春風亭小朝に入門。前座名はあさり。なお、同29日に大師匠の林家彦六が亡くなっており、彦六にとって圓太郎は生前最初で最後の曾孫弟子となった。
  • 1987年 二つ目昇進。
  • 1996年 第6回北とぴあ若手落語家競演会北とぴあ大賞受賞。
  • 1997年3月 真打昇進し8代目襲名。平成8年度国立演芸場花形演芸大賞受賞。文化庁芸術祭新人賞受賞。

外部リンク

出典

  1. ^ 出典:米川明彦編『日本俗語大辞典(第3版)』東京堂出版 2006年 96頁
  • 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X
  • 古今東西噺家紳士録