桂文楽
桂 文楽(かつら ぶんらく)は、落語家の名跡。四代目(デコデコ)と八代目(黒門町)が特に有名である。当代は九代目。旧字体は桂文樂。
- 初代桂文楽 - 後∶桂大和大掾
- 二代目桂文楽 - 後∶五代目桂文治
- 三代目桂文楽 - 後∶六代目桂文治
- 四代目桂文楽
- 五代目桂文楽
- 六代目桂文楽 - 存在しない。
- 七代目桂文楽 - 存在しないとされているが、五代目が七代目という可能性がある(後述)。
- 八代目桂文楽 - 「桂文楽」といえば八代目を指すことが多い。
- 九代目桂文楽 - 当代。
由来
[編集]桂文治は落語桂派の宗家である。その3代目は、江戸の人であったが、大阪に行き、3代目桂文治を襲名した後に江戸に帰った。これが桂文治名跡の東西分裂の一因となった(よって彼を「江戸文治」という)。
江戸文治は養子の初代桂才賀に桂文治の名を譲ることにした。次の名として自らの師匠の名(二代目)三笑亭可楽を名乗りたかったが、師は現役のままだった。
そこで次善の策として、文治の「文」と可楽の「楽」を組み合わせ「文楽」という名を作った。初代文楽は桂文治の隠居名とみてもよい。しかし、のちに、桂文楽になった後に桂文治を襲名する例があらわれた。
※人形浄瑠璃とは全く無関係。以上の出来事は、人形浄瑠璃が文楽と呼ばれる由縁の「文楽座」開場より先行している。
代数
[編集]この項目を読む際、以下の要項を頭に入れておく必要がある。
- 五代目(七代目?、後述)桂文楽 - 「あんぱんの文楽」、本名∶増田 巳之助。後の桂やまと。
- 八代目桂文楽 - 「黒門町」、本名∶並河 益義。
五代目から八代目の間
[編集]五代目文楽と八代目文楽の間に別の桂文楽が存在することはない。当時、五代目文楽を強引に別の名に改名させて、即時に並河に「八代目」桂文楽を名乗らせたからである。
とはいえ、以下のような勘違いをする人が現れる。
「最初に、師匠にどうしてもお聞きしたかったことは、桂やまとという人が五代目の文楽さんですね。その次に、いまの八代目文楽さんになるんですが、六代目と七代目はどういうことになっているんですか?」
(暉峻康隆『落語藝談』)
原因の一因は本『あばらかべっそん』である。この本では五代と八代の間に誰かいると誤読できるような書き方にも見える。
五代目か七代目か
[編集]実は、あんぱんの文楽(俗に五代目)が桂文楽を名乗っていた時、その代数を明らかにしていない。(正式に「五代目桂文楽」として名乗っていたわけではない。)
並河益義が桂文楽を襲名する際に、所属の睦会は襲名告知の新聞広告を出した。
そこには口上末尾に
「翁家馬之助改め八代目桂文楽」
と書かれているほか
「七代目桂文楽改め桂大和」
(なぜか表記は漢字)とはっきり書かれている(1920年5月1日付け『都新聞』3面)。
つまり、広告の通りに考えれば、当時の先代文楽(あんぱんの文楽、増田巳之助)は五代目ではなく七代目であるため、次の文楽が八代目となって矛盾なく(!)つながることになる。
つまり、あんぱんが五代目であった、という前提そのものが危ういものであり、したがって「あんぱんの文楽」は七代目であるという可能性がある。少なくとも当時は、あんぱんが五代目であることを否定されるべき何か(=あんぱんが七代目文楽であることを証明する何か)が存在していたものと考えられるが、それが何かは不明。
四代目と五代目の間
[編集]四代目(デコデコの文楽)は、その晩年、落語家を引退して、名前「桂文楽」を桂文治に返した。その後、複数の弟子の間で次期桂文楽の争奪戦があったことが明らかになっている。
八代目文楽(黒門町)は自伝で、代数をカウントされなかった芸のまずい「セコ文楽」が五代目以前に一人いると紹介している。
八代目文楽曰く
「一代はあったんです。あったけれども、これは不遇にして世の中へ出なくて、金が無く、死ぬ時ですら人に面倒見てもらってお弔いを出した。」
人物だと語っている。しかし「セコ文楽」が誰であるのかなどと言ったことは明言されていない。
ただし、橘左近は1999年に「実際には誰も居ない」と全面否定している(『東都噺家系図』)ため、つまり文楽の作り話だと主張している。
ここで考えられるのが、
「桂文楽の名を争って破れた者が勝手に桂文楽を名乗った可能性」
である。
あるいは、
正式に襲名したものの、その記録を抹消されなければならない何かがあった
という可能性もある。
また、五代目とされたあんぱんの文楽は四代目の弟子ではないのでその争奪戦には参加していない。結局、引退の8年後にあんぱんの文楽が桂文楽を五代目もしくは七代目として継ぐ。前述のように桂文楽の名跡は桂文治が当時持っており、文楽というよりも文治の縁である(あんぱんの文楽は桂文治門であり、当時名乗っていた名の「才賀」の初代は、のちの四代目桂文治である)。
そして五代目と四代目の間の8年間の歴史は現在の眼からは何も見えない。しかし、五代目をして自らを五代目と名乗ることはできなくなったのである。彼を五代目と呼んでいるのは後世の史家である。
なお、上方には、明治中期から大正初期にかけて桂文楽(本名:松村伝兵衛、通称「つんぼの文楽」)が存在している。広義では桂文治系の系列であるが、上方桂文枝系であり江戸文治系ではない為、本項の江戸系統の桂文楽とは別とする。また黒門町が指摘したセコ文楽とも関係がない可能性が高い。
八代目
[編集]黒門町(並河)は本来は桂文楽を継ぐ系譜ではない。並河が文楽を継ぐ時点では、前師匠翁家さん馬は八代目桂文治を継いでいない。旧師がさん馬の前に「桂大和」を名乗っていた程度である。
並河が文楽を継ぐ由来が書かれた文書があるのだが、それは外形的な現象で、真実は、師匠五代目柳亭左楽が根回しをして、自分の愛する「桂文楽」という名跡を自分が一押ししている弟子(並河)に継がせたかったのだろうと現在では推測されている。五代目左楽は四代目桂文楽を敬愛し、憧れて落語家となったのである。
黒門町が八代目となった理由は、八の字が末広がりで縁起が良い、という師匠五代目柳亭左楽の判断による。
結果として、五代目文楽と八代目文楽(黒門町)の間は、二代飛んでいる(ようにみえる)。
参考文献
[編集]- 暉峻康隆『落語藝談』小学館ライブラリー
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X