松平慶憲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。125.15.51.240 (会話) による 2014年11月15日 (土) 09:04個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
松平 慶憲
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政9年9月7日1826年10月8日
死没 明治30年(1897年11月8日
改名 濤次郎(幼名)→直憲(初名)→慶憲
別名 鶴雲(号)
墓所 東京都港区南青山青山霊園
官位 従四位上、侍従、兵部大輔、左近衛権中将
幕府 江戸幕府
播磨明石藩
氏族 越前松平家
父母 父:松平斉韶
母:季遠姫(至誠院、松平直恒の娘)
養父:松平斉宣
兄弟 慶憲直正直静
正室:鍼姫奥平昌高の十一女)
直致直徳
テンプレートを表示

松平 慶憲(まつだいら よしのり)は、江戸時代後期から末期大名播磨明石藩第9代藩主。直良系越前松平家10代。

生涯

文政9年(1826年)江戸藩邸にて明石藩7代藩主松平直韶の長男として誕生する。幼名は濤次郎。文政10年(1827年)父・直韶は将軍徳川家斉より自身の二十五男・周丸(ちかまる、後の8代・斉宣)を養嗣子として強要され、翌文政11年(1828年)周丸が明石藩の世嗣となる。文政13年(1830年)母・至誠院は実子の濤次郎が次期藩主となれず苦悶のうちに死去(一説に自殺)。天保9年(1838年)元服し、父・斉韶(直韶)より直憲(なおのり)と名付けられる。

弘化元年(1844年)4月、8代藩主斉宣が病気重篤になり、急遽、世嗣となる。6月2日、斉宣死去。7月17日、家督を相続する。8月15日、将軍徳川家慶に初めて拝謁する。翌月、家慶の偏を賜り慶憲と改名。従四位下を叙任、兵部大輔を名乗る。弘化4年(1847年)侍従を叙任。嘉永5年(1852年)奥平昌高の十一女・鍼姫と婚姻する。

嘉永6年(1853年)外国船の来航が頻繁になったため、明石海岸に12箇所の砲台を築く。ペリー浦賀に来航し、明石藩は品川警備を命じられる。翌、安政元年(1854年)明石藩、神奈川の警備を担当する。安政3年(1856年)鍼姫と離婚する。この年、左近衛権少将に任官する。文久元年(1861年)従四位上に昇進する。慶応2年(1866年第二次長州征討に参陣する。左近衛権中将に任官する。翌、慶応3年(1867年)長州征討より帰参。幕府より京都警備を命じられる。明治元年(1868年鳥羽・伏見の戦いには幕府方として参陣したが遅参し、大坂城にあった将軍徳川慶喜の救出が出来ず明石に引き返す。明石城に官軍の山陽鎮撫使が進軍したため、本家筋の旧福井藩松平慶永の取り成しで恭順の意を表し城を明け渡す。官軍に従軍し姫路まで進軍する。戊辰戦争に参戦し藩兵を越後方面へ派兵する。この年、藩校・敬義館が開かれる。

明治2年(1869年)隠居し家督を長男の直致に譲る。明治3年(1870年)鶴雲と号する。明治17年(1884年)直致が病没し、次男の直徳が家督を継ぐ。この年、華族令制定により直徳が子爵となり華族に列する(のち貴族院議員)。明治30年(1897年)死去。

日付は旧暦。

  • 1838年天保9年)12月12日、元服し、諱を直憲と名乗る。
  • 1844年弘化元年)7月17日、家督を相続し、明石藩主となる。9月11日、従四位下に叙位。兵部大輔に任官。将軍徳川家慶の諱を賜わり、慶憲と名乗る。
  • 1847年(弘化4年)12月16日、侍従に遷任し、兵部大輔の兼任如元。
  • 1856年安政3年)12月16日、左近衛権少将に転任し、兵部大輔の兼任如元。
  • 1861年文久元年)12月16日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将・兵部大輔如元。
  • 1865年慶応元年)12月16日、左近衛権中将に転任し、兵部大輔の兼任如元。(諸侯年表では慶応2年1月16日)
  • 1869年明治2年)2月8日、隠居。
  • 1870年(明治3年)3月1日、鶴雲を号す。

参考文献

  • 黒田義隆編著『明石藩略史』明石葵会、1981年
  • 日本史籍協会編「増補幕末明治重職補任 附諸藩一覧」(続日本史籍協会叢書)東京大学出版会
  • 児玉幸多監修・新田完三編「内閣文庫蔵・諸侯年表」東京堂出版