東京拘置所
東京拘置所(とうきょうこうちしょ)は、法務省矯正局の東京矯正管区に属する拘置所。通称「東拘(とうこう)」だが、所在地である「小菅」と呼ばれることが多い。
全国に8箇所(東京・立川・名古屋・京都・大阪・神戸・広島・福岡)ある拘置所の一つである。京都・大阪・広島の各拘置所同様、直接に所管する拘置支所は存在しない。
所在地
- TEL 03-3690-6681
収容者
収容定員
- 約3000名
沿革
巣鴨拘置所であった時代には、極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯が拘置され、東條英機らの処刑が行われたことでも知られる。
- 1895年:豊島区巣鴨に「警視庁監獄巣鴨支署」を設置
- 1897年:「巣鴨監獄」と改称
- 1922年:「巣鴨刑務所」と改称
- 1937年:「巣鴨拘置所」と改称。刑務所としての機能を府中刑務所に移管
- 1945年:連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、「スガモプリズン」と呼ばれる
- 1948年8月28日:東京拘置所および小菅刑務所が、東京都葛飾区に置かれる[1]。
- 1958年:GHQから返還される。
- 1971年3月20日:首都圏整備計画の一環として[4]、葛飾区小菅の小菅拘置所を廃止し、同地に東京拘置所を移転する[5][6]。旧東京拘置所(豊島区東池袋)は後に解体
- 1997年:改築工事着工
- 2003年:中央管理棟・南収容棟完成
- 2006年:北収容棟完成
組織
所長の下に4部を持つ4部制施設である。
- 総務部(庶務課、会計課、用度課)
- 処遇部(処遇部門、指導部門)
- 分類部
- 医務部
- 総務部に調査官1名を置く。
構造
- 新舎房は地上12階、地下2階、高さ50mで中央部の中央管理棟と南北に両V字形に伸びる北収容棟、南収容棟がつながる。延床面積80,239m²。南北収用棟の屋上は雑居房収容者用、独居房収容者用の各運動場になっている。
- 新舎房での被収容者施設階への入退場は看守、施設職員のセキュリティカード認証システムと指紋認証システムが採用されており、二つが一致しないと開錠されない。
- 中央管理棟屋上にはヘリポートが設置されている。
- 被収容者を検察庁または裁判所へ押送する為の車両駐車場は地下一階にある。
- 旧舎房は南舎地上3階建て、北舎地上3階建て、新北舎地上4階建て
- 死刑を執行する施設(刑場)を地下に備えており、エレベーターで向かう。
- 医務部については「東京拘置所医務部病院」として医療法上の病院の指定を受けている。
特記事項
- 新舎房2階が女区
- 旧舎房南1舎1階、南2舎3階は当所執行受刑者の舎房。南2舎2階、新北舎1階雑居は移送待ち受刑者の舎房。南舎・北舎とも古い施設ではあるが、北舎は南舎に比べ若干新しい。
- 死刑場設備の関係で東京拘置所に収監された死刑囚の死刑執行は一時期、宮城刑務所所管仙台拘置支所で行われた。そのため「仙台送り」が死刑の代名詞となっていた時代もある。
- 『有栖川宮詐欺事件』を起こした男女2人が、同拘置所に収監されていたが、2004年に、夫らから同拘置所内の妻に送られてきていた手紙を、同拘置所が紛失。さらに、紛失した手紙が、週刊新潮に掲載された。このため、この夫婦は、2007年4月に、「精神的苦痛を受けた」として、国を相手取り、京都地裁に訴訟を起こした。この裁判は、同地裁で2009年7月9日に、国が手紙の流出を認め、妻に対し解決金150万円を支払い謝罪することで和解が成立した[7]。
- 2010年8月27日に、報道陣に刑場が初公開された[8]。
脚注
- ^ 同日、政令第268号「刑務所及び拘置所令」
- ^ 同日、法律第154号「法務省設置法の一部を改正する法律」
- ^ 同年6月2日、官報第9430号付録『官報資料版』9ページ
- ^ 1970年(昭和45年)3月18日、官報第13217号付録『官報資料版』9ページ
- ^ 1970年(昭和45年)12月24日、法律第129号「法務省設置法の一部を改正する法律」
- ^ 1971年(昭和46年)3月19日、政令第28号「法務省設置法の一部を改正する法律の一部の施行期日を定める政令」
- ^ 「有栖川宮」詐欺:拘置所から手紙流出、週刊誌掲載 国謝罪、150万円で和解 毎日新聞 2009年7月10日
- ^ 死刑の刑場、報道機関に初めて公開
関連項目
外部リンク
座標: 北緯35度45分31.2秒 東経139度49分3.4秒 / 北緯35.758667度 東経139.817611度