朽木元綱
朽木 元綱(くつき もとつな、天文18年(1549年) - 寛永9年8月29日(1632年10月12日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。官位は河内守。
人物
朽木晴綱の子、母は公卿・飛鳥井雅綱の娘。宣綱、友綱、稙綱の父。
朽木氏は高島氏から分かれた近江国高島郡朽木谷の豪族で(宇多源氏佐々木氏流)、代々室町幕府の奉公衆を務めていた。
天文19年(1550年)に父・晴綱が戦死したため、わずか2歳で家督を継承した。天文22年(1553年)より三好長慶に京都を追われた13代将軍・足利義輝を匿った。永禄9年(1566年)の浅井長政による高島郡侵攻に際しては人質を差し出している。永禄11年(1568年)12月には浅井久政・長政父子と起請文を交わしたが、まもなくこれを破棄している。
元亀元年(1570年)の朝倉攻めにおいては松永久秀の説得を受けて織田信長の京都撤退(朽木越え)を助けて、その後は織田家に仕え、信長麾下として磯野員昌、その追放後は津田信澄に配されているが、天正7年(1579年)には代官を罷免されているので、信長からの厚遇は受けていなかったようである。
信長の死後は豊臣秀吉に仕え、伊勢国安濃郡・近江国高島郡内の蔵入地の代官に任ぜられ、小田原征伐にも参加、朽木谷2万石を安堵されている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初は大谷吉継に従って西軍に属したものの、小早川秀秋に呼応して脇坂安治や小川祐忠、赤座直保らと共に東軍に寝返った。戦後、通款を明らかにしなかったとの理由により減封(9,590石)されたが、のち大名に復帰している。
元和2年(1616年)に剃髪し、牧斎と号した。朽木谷において死去。享年84。
死後、遺領は3人の息子に分割したために、朽木宗家は大名の資格を失って旗本(6,300余石)となった。後に末子の稙綱が3代将軍徳川家光の信頼を受けて大名として取り立てられたために、嫡流よりも庶流のほうが所領が上回るという現象が起きている。