平岡養一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。今紫 (会話 | 投稿記録) による 2022年3月13日 (日) 02:20個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎参考資料)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

平岡 養一
1955年
基本情報
生誕 (1907-08-16) 1907年8月16日
出身地 日本の旗 日本兵庫県尼崎市
死没 (1981-07-13) 1981年7月13日(73歳没)
学歴 慶應義塾大学卒業
ジャンル クラシック
担当楽器 シロフォン
活動期間 1927年 - 1981年

平岡 養一(ひらおか よういち、1907年8月16日 - 1981年7月13日)は、日本の木琴(シロフォン)奏者。兵庫県尼崎市出身。慶應義塾大学経済学部卒業。

妹はフィギュアスケート選手の平岡露子ミュージシャン平岡精二はいとこの子。

略歴

平岡養一

元来、東京の家系であるが、実業家の父・寅之助が赴任した尼崎市で生まれる。

父の兄が日本初の野球チーム創設者の平岡凞で、少年も野球の特訓を受け育つが、体格的に不向きであるとわかり野球の道は断念。小学校在学中に東京へ移住し、慶應義塾幼稚舎慶應義塾普通部で学ぶ。この頃ピアノを始めるが、手が小さいためピアノにも不向きであるとわかる。それでもハーモニカなどを演奏し音楽を楽しむうちに、銀座の映画館「コンパル館」で無声映画の伴奏をしている木琴(シロフォン)に魅せられるようになり、映画館に通う日々が続いた。中学3年の時に5円の木琴を買い、独学で練習を重ねる。

予科に上がる頃には学生主催のパーティーでの演奏を始め、300円の輸入品の木琴に買い換え本格的な演奏活動へと入っていった。大学は慶應義塾大学経済学部に進学。この頃には平岡は多くのレパートリー曲を持つ、木琴のスペシャリストとなっていた。

1927年5月、帝国ホテルにて最初のリサイタルを開催。1929年には当時檜舞台とされていた日本青年館でリサイタルを開催し、成功を収める。

1930年6月、父に促されアメリカ合衆国へ留学。レコード録音で稼いだ片道ぶんの旅費にあたる1000円のみを所持しての旅立ちだった。9月に受けたNBCのオーディションで、80人の中から選ばれ合格。翌年、15分間のラジオ番組への出演が決定。この番組は、放送回数が4000回に及び、「アメリカ全土の少年少女は、ヨーイチ・ヒラオカの木琴で目を覚ます」と言われた。戦時中はNHKを通して日本国内でも放送された。

1936年12月、ニューヨークのタウンホールにて独演会を開催。演奏は成功を収め、ニューヨーク・タイムズも絶賛した。この成功を受けて、相手の両親の許可を得ることができ、1937年3月に日系アメリカ人女性と結婚。1942年6月、戦争のため交換船で日本に帰国[1]ビクターと契約しレコードを発表すると、日本でも平岡の存在が知られるようになった。また、戦時中から国内を演奏活動して巡り、1963年までに2000回を超える演奏会を行った。

20年後の1962年11月、ニューヨーク・フィルハーモニーの独演者としてカーネギー・ホールへ日本人として初の出演。翌年、永住権を取得し家族と共にカリフォルニア州に移住。5年後には市民権を獲得。日本とアメリカを行き来しながら精力的に演奏活動を行った。

1978年胃癌により胃を全摘出。11月、勲四等瑞宝章を受章。1981年、73歳で生涯を終えた平岡のモットーは「幸福と成功は努力して得ねばならぬ」であった。

使用楽器

平岡は、1935年製米国ディーガン社の木琴を自身で改造して使用していた。同楽器は平岡の死後、ロサンゼルスの遺族によって保管されていたが、2003年、オーケストラ・ニッポニカによる『木琴と管絃楽のための協奏曲』(紙恭輔作曲)において使用された[2]。平岡の楽器は、2005年東京フィルハーモニー交響楽団が同曲を取り上げた際にもマリンバ奏者の通崎睦美によって演奏され、これを機に遺族から通崎に譲られることになった。詳細は通崎の項を参照。

脚注 

  1. ^ 鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』(新潮社、2006年3月)pp84-86。
  2. ^ 海を越えた木琴|オーケストラ・ニッポニカ 2020年5月8日閲覧。

関連書籍

参考資料