岡田哲蔵

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岡田 哲蔵(おかだ てつぞう、明治2年10月22日1869年11月25日) - 1945年昭和20年)10月13日)は、日本宗教哲学者英文学者。筆名は、観潮生[1]

来歴[編集]

1869年10月22日下総国佐倉に岡田盛寛・綱子の長男として生まれる[2][3]1875年12月、東京府麻布区笄町に移る[3]青山小学校[注釈 1]東京府中学校を経て、東京英和学校予科3年に入学する[3][5][注釈 2]1887年6月、ジュリアス・ソーパーにより洗礼を受ける[3]1888年2月、基督教青年会を創立する[6][7]1889年に東京英和学校を卒業し、同校の幹事補佐になる[8]。同年12月、近衛歩兵第3連隊一年志願兵として入隊する[3]

1890年弘前東奥義塾に教員として赴任するが、1894年8月31日日清戦争に招集される[3][8]1895年8月31日に召集解除となり、9月から東京帝国大学文科大学哲学科選科に入学する[9]1898年9月から正則英語学校の講師となり、同年10月から中野の鉄道連隊で英語授業を担当する[9]1899年、東京帝国大学を卒業し、同年から青山学院の教員となり英文学・ドイツ文学を教える[8][10]1900年7月、義和団の乱のため第5師団に応召する[8]。同年12月、陸軍歩兵大尉に任官される[9][11]1902年3月、陸軍大学校の授業嘱託となり、同年7月に教授となる[8][9][12]1906年青山学院財団法人の成立に伴い、1907年に校友会の総代を理事会に出席させることが決定され、山田寅之助和田正幾と共に校友会総代に選挙される[13]1908年2月から青山青年会会長、同年4月からキリスト教青年会関東部会長となる[14]1911年、「教派合同期成同盟会」を結成する[1]1918年9月、第一次世界大戦のため召集される[14]1919年1月から青山学院の講師に、1922年4月から自由学園の講師となる[14]。また、この間、1925年3月から10月にかけて、アメリカ合衆国イギリスフランススウェーデンスイスドイツベルギー等を歴遊する[14]1928年12月、高等官一等に叙される[14]1932年11月3日の青山学院創立50周年に先立ち、『青山学院五十年史』の編集委員として、1930年9月18日に開催された第1回編集委員会に招集される[15]1933年9月から津田英学塾高等科の講師となる[14]1934年11月に肋膜炎を患い、1935年4月に治癒する[14]。同年11月から早稲田大学文学部の講師となる[14]

1941年に教壇生活を終え、読書生活に入る[6][16]1943年5月から世田谷二丁目南町会の町会長となる[14]1945年10月13日、肋膜炎により死去、享年77歳[17][18][19]。墓所は青山霊園内の立山墓地にある[6][20]

人物[編集]

栄典等[編集]

  • 1920年(大正9年)12月 - ルーマニア王冠四等勲章[14]
  • 1929年(昭和4年)3月 - 従三位[14]

著書[編集]

和書[編集]

  • 『静観と思想』警醒社書店〈近代思潮叢書 第7編〉、1915年3月。 NCID BN11627704全国書誌番号:43017040 
  • 『我が断片』六合雑誌社〈六合叢書 第2編〉、1915年3月。 NCID BN15069607 
  • 『我が環境』六合雑誌社、1917年12月。 NCID BA32546325 
  • 『世界大戦の英詩』前田千城堂、1921年6月。 
  • 『知られざる傑作 およびその他の評論』ロゴス社、1922年9月。 NCID BA77382388全国書誌番号:43037395 
  • 『我が先生』阿部義宗、1925年3月。 NCID BA46313245 
  • 『外遊詩観』ジャパン・タイムス社、1927年8月。 
  • 『思想と文学の諸相』新生堂、1929年2月。 NCID BN09013663全国書誌番号:46092111 
  • 『英詩文の片影』新生堂、1932年8月。 NCID BN07488193全国書誌番号:46079569 
  • 『本多庸一伝』日独書院、1935年1月。 NCID BN05785595全国書誌番号:47020567 
  • 「虚空の逍遥・意識と多元と戦闘と・個人的一致」『現代随筆全集 第1巻』金星堂、1935年3月。 NCID BN10353319全国書誌番号:46086693 
  • 「一 山の文学 アルプス文学」『山は誘惑する 放送山の講座』清水書店、1935年7月。 NCID BA81930283全国書誌番号:47023563 

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翻訳[編集]

洋書[編集]

遺稿集[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 後に分校の棲霞学校に通う[4]
  2. ^ 大学予備門を経て帝国大学に学ぼうとしたが家計が許さず、海軍機関学校に入ろうとしたが体格が理由で不合格となり、一時の試みのつもりで近所にあった東京英和学校に入学し、ここで英語と基督教に接したことが一生を影響することとなった[2][5]
  3. ^ 万葉集の最初の外国語訳は、ユリウス・ハインリヒ・クラプロートイサーク・ティチング訳『日本王代一覧』を仏訳した際に、大伴家持の「天皇の御代栄えむと東なるみちのく山に金花咲く」の1首を訳して附註したものとされている[21]。また、岡田の英訳以前にも、日本文学に関する海外の書籍内で英語による翻訳(抄訳)は行われている[21]

出典[編集]

  1. ^ a b c 落合 2020, p. 167.
  2. ^ a b 略伝 1957, p. 103.
  3. ^ a b c d e f 年譜 1957, p. 111.
  4. ^ 秋田 1953, p. 25.
  5. ^ a b 秋田 1953, p. 26.
  6. ^ a b c 略伝 1957, p. 104.
  7. ^ 九十年史 1965, p. 567.
  8. ^ a b c d e f 古坂 1959, p. 92.
  9. ^ a b c d 年譜 1957, p. 112.
  10. ^ 落合 2020, p. 166.
  11. ^ 「叙任及辞令」『官報』第5248号、印刷局、1900年12月27日、4頁、NDLJP:2948543/3 
  12. ^ 「叙任及辞令」『官報』第5723号、印刷局、1902年8月1日、3頁、NDLJP:2949026/2 
  13. ^ 九十年史 1965, p. 307.
  14. ^ a b c d e f g h i j k 年譜 1957, p. 113.
  15. ^ 九十年史 1965, p. 434.
  16. ^ 秋田 1953, p. 27.
  17. ^ 「岡田哲蔵氏(英文学者)」『朝日新聞』、1945年10月15日、2面。
  18. ^ 「岡田哲蔵氏(早大、青山学院教授)」『毎日新聞』、1945年10月15日、2面。
  19. ^ 「岡田哲蔵氏(元早大講師)」『読売新聞』、1945年10月15日、2面。
  20. ^ a b c 秋田 1953, p. 33.
  21. ^ a b 秋田 1953, p. 30.
  22. ^ 秋田 1953, p. 28.
  23. ^ 秋田 1953, p. 29.
  24. ^ a b c 略伝 1957, p. 106.

参考文献[編集]

  • 秋田馨子「岡田哲蔵(近代文学史科研究・外国文学篇第八十七回)」『学苑』第150号、光葉会、1953年7月1日、25-33頁、NAID 40000440881 
  • 岡田先生遺稿編集委員会「岡田哲蔵先生略伝」『Orion Stars and Other Poems 及び邦語自訳』岡田先生遺稿編集委員会、1957年8月15日、103-110頁。 
  • 岡田豊日「岡田哲蔵年譜」『Orion Stars and Other Poems 及び邦語自訳』岡田先生遺稿編集委員会、1957年8月15日、111-113頁。 
  • 古坂嵓城『青山学院八十五年史』青山学院、1959年11月1日。 
  • 『青山学院九十年史』青山学院、1965年9月20日。 
  • 落合則男「おかだてつぞう 岡田哲蔵」『日本キリスト教歴史人名事典』教文館、2020年8月30日、166-167頁。ISBN 9784764240421 

外部リンク[編集]