安川第五郎

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安川 第五郎(やすかわ だいごろう、1886年明治19年)6月2日 - 1976年昭和51年)6月25日)は、日本実業家安川電機社長、九州電力会長、日本原子力発電初代社長、日本原子力研究所初代理事長、日本原子力産業会議会長、1964年東京オリンピック組織委員会会長。玄洋社社員[1]

経歴[編集]

安川財閥創始者である安川敬一郎の五男として、福岡県遠賀郡芦屋に生まれる。1906年(明治39年)に福岡県立中学修猷館を卒業する[2]。同期に緒方竹虎、一年先輩に中野正剛がおり、在学中は玄洋社の明道館で柔道を学ぶ。1909年(明治42年)第一高等学校工科[3]を経て、1912年7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し[4]日立製作所に1年間勤務する。

米国ウェスティングハウスで研修の後、1915年大正4年)7月に兄の清三郎とともに株式会社安川電機の前身である合資会社安川電機製作所を創設、1919年大正8年)に株式会社安川電機製作所を創業、モーター・電動機に製品を絞り込んで発展して1936年(昭和11年)に社長に就任する。戦時中は大日本産業報国会理事となり、第二次世界大戦後1946年(昭和21年)2月に石炭庁長官に就任するが、同年GHQにより公職追放を受けた。

1946年(昭和21年)に安川電機取締役、1949年(昭和24年)に安川電機会長に復帰し、1955年(昭和30年)に日銀政策委員1956年(昭和31年)6月に日本原子力研究所初代理事長、1957年(昭和32年)に日本原子力発電初代社長、1960年(昭和35年)に九州電力会長、1961年(昭和36年)に九州経済連合会初代会長、1963年(昭和38年)に東京オリンピック組織委員会会長、にそれぞれ就く。

1969年(昭和44年)初代日本産業広告協会会長[5]

1970年(昭和45年)に電力・原子力事業への貢献と1964年東京オリンピック運営に尽力した功績により勲一等旭日大綬章を授与される。墓所は冨士霊園

福岡県北九州市戸畑区にあった自宅跡は、父の安川敬一郎が明治専門学校として設立した九州工業大学の同窓会組織である社団法人明専会が運営するレストラン・結婚式場の「明専会館」となった。

エピソード[編集]

  • 東京オリンピック開会式の前日夜半は雨だったが、安川が誠心を持って晴天になるようにと天に祈ると祈りが通じたか開会式当日は雲ひとつ無い快晴になった。以後、安川は揮毫を頼まれると「至誠通天」の四字を表し「何か他の言葉を」と頼まれても「私はこの四文字しか書きません」と言って断った。
  • 東京オリンピックで国立競技場織田ポールに翻った五輪旗は、アベリー・ブランデージIOC会長から組織委員会会長の安川に寄贈されたのち、安川が母校の修猷館高校に寄贈した。かつては運動会の入場行進に使用されたが、現在はレプリカを使用して現物は同校の資料館に額入りで展示されている。

親族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年、玄洋社社員名簿62頁。
  2. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員6頁
  3. ^ 『第一高等学校一覧(自昭和16年至昭和17年)(附録)』(第一高等学校編、1941年)135頁
  4. ^ 『東京帝国大学一覧(從大正7年至大正8年)』(東京帝国大学、1919年)學士及卒業生姓名204頁
  5. ^ 沿革年表 日本BtoB広告協会
  6. ^ a b c d 『門閥』、480-481頁。
  7. ^ a b c d e f 『現代の系譜: 日本を動かす人々』東京中日新聞出版局, 1965, p241

参考文献[編集]

先代
新設
日本原子力発電社長
1957年 - 1962年
次代
一本松珠璣
先代
新設
日本産業広告協会会長
1969年 - 1973年
次代
田口連三