坂田和人
坂田和人 | |
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1994年日本GPにて | |
グランプリでの経歴 | |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1991年 - 1999年 |
チーム | ホンダ、アプリリア |
レース数 | 126 |
チャンピオン | 2(1994年、1998年) |
優勝回数 | 11 |
表彰台回数 | 41 |
通算獲得ポイント | 1304 |
ポールポジション回数 | 29 |
ファステストラップ回数 | 19 |
初グランプリ | 1991年 日本GP |
初勝利 | 1993年 スペインGP |
最終勝利 | 1998年 イギリスGP |
最終グランプリ | 1999年 アルゼンチンGP |
坂田 和人(さかた かずと、1966年8月15日 - )は、オートバイレーサー。東京都江東区出身。1994年、1998年にロードレース世界選手権(WGP)の125ccクラスでシリーズチャンピオンを獲得している。
来歴
1988年にロードレースにデビュー。同年に筑波選手権(ノービス)のシリーズチャンピオンを獲得したほか、1989年には全日本ロードレース選手権のジュニアクラスでシリーズチャンピオン、1990年には全日本選手権の国際A級・125ccクラスでシリーズチャンピオンを獲得した。
1991年にWGP・125ccクラスにステップアップ。以後1999年まで一貫して125ccクラスに参戦を続け、1994年と1998年にシリーズチャンピオンを獲得。このほか1993年・1995年はシリーズ2位に入るなど、125ccクラスを代表するライダーとして活躍した。特に1995年は青木治親が同クラスのシリーズチャンピオンを獲得しており、日本人がシリーズランキングの1・2位を占めるという快挙も達成している。しかし2000年、引き続きWGPへの参戦を目指したが、数チームとの交渉の末、諸条件が折り合わず、参戦休止を発表してWGPから撤退した。
それ以後はライダーとしては一線を退き、筑波サーキットでの開催時を中心に全日本ロードレース選手権へスポット参戦する一方で、2輪のレース中継のテレビ解説やレーシングスクールの講師など、多方面で活躍している。現在は日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)の主催するMFJレディースロードレースの講師を務めるなど、女性ライダーの育成にも積極的である。
ただし2011年8月に東京中日スポーツの対談企画に登場した際には「再びレースに出るためにはトレーニングが必要」と筋肉等の衰えを認めつつも「引退はしていない」「適切なオファーがあればレースに出る用意はある」と語り、現役復帰をあきらめていない姿勢を示している[1]。
戦歴
- 1988年 - ロードレース筑波選手権ノービスチャンピオン
- 1989年 - 全日本ロードレース選手権ジュニアチャンピオン
- 1990年 - 全日本ロードレース選手権国際A級125チャンピオン
- 1991年 - WGP・GP125ランキング13位/ホンダ(PP1回)
- 1992年 - WGP・GP125ランキング11位/ホンダ(PP3回)
- 1993年 - WGP・GP125ランキング2位/ホンダ(2勝・PP6回)
- 1994年 - WGP・GP125年間王者/アプリリア(3勝・PP7回)
- 1995年 - WGP・GP125ランキング2位/アプリリア(2勝・PP5回)
- 1996年 - WGP・GP125ランキング8位/アプリリア(PP1回)
- 1997年 - WGP・GP125ランキング4位/アプリリア(PP2回)
- 1998年 - WGP・GP125年間王者/アプリリア(4勝・PP4回)
- 1999年 - WGP・GP125ランキング14位/ホンダ
※年間王者2回 世界選手権優勝11回(歴代12位) 表彰台41回(歴代3位) ポールポジション29回(歴代2位)
人物
その戦歴に報われない苦労人。1994年世界チャンピオンになりながら、オフの過ごし方を聞かれた雑誌のインタビューに「ユンボのバイトします」と答えている。アプリリアからのサポートも悪く、劣化した部品を組み込んで予選に臨み、結果壊れてしまったために他のチームに融通をお願いに行くなど、おおよそ勝利を望めない環境で得た1998年のチャンピオンは非凡な才能によるものだった。
イタリア語で「転倒」を意味する言葉が「カズト」に似ているので、イタリア人のサーキットドクターからは「転倒しないように験を担いで登録名を変えれば?」と提言されたことがある。
脚注
外部リンク