八反ふじを
八反 ふじを | |
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出生名 | 八反 藤蔵 |
生誕 | 1925年1月14日 |
出身地 | 日本 宮崎県小林市 |
死没 | 1975年4月7日 |
学歴 | 日本大学医学部中退。 |
ジャンル | 演歌 |
職業 | 作詞家 |
活動期間 | 1958年 -1975年 |
レーベル | 東芝音楽工業、日本クラウン |
共同作業者 | = サトウ進一、島津伸男、関野幾生、米山正夫ほか |
八反 ふじを(はったん ふじを、1925年1月14日 - 1975年4月7日)は、宮崎県小林市出身の作詞家。
来歴・人物
宮崎県小林市内にある老舗金物問屋「八反金物店」の長男として生まれる。幼いころ母を亡くし寂しい少年時代を過ごした。地元の小林高校を卒業後、父留男の奨めもあり、一度は医師を目指し、上京、日本大学医学部に学んだがた、大東亜戦争末期の混沌とした首都での学業の継続が困難となり、中途退学した。なお医学生であったため兵役は免れた。東京で焦土となった東京で終戦を迎えたが、ほどなく帰郷してオペレッタ劇団・「踊る新星座」を立ち上げた。常設劇場は持たず、主に九州一円を巡業して回った、いわゆるドサ回りの劇団であった。後に妻となる吉子はこの劇団結成に際して鹿児島県から応募したスタッフの内の一人で看板女優タップダンサーとして活躍した。
当時は終戦直後の暗い時代で、人々は明るい娯楽を欲していた。踊る新星座の演目は和製オペレッタとでも呼ぶべきもので、当時としては斬新な内容をもったものであったが、ドサ回りの劇団といえばチャンバラ、というのが常識の時代でもあり、ハイカラ過ぎたことが災いして田舎の観客には馴染み難く、劇団の経営は始終苦しいものであった。結局1年ほどの活動の後、解散となった。その後、良子と結婚。小林市内で金物店を営む父、留男かの支援で同市内に支店を出店した。長男の英一はここで生まれている。しばらくは商売に専念していたが、エンターテイメントに賭ける夢をどうしても断ち切り難く、結果、結局、店をたたんで新天地・東京を目指すことになった。上京後、まず居を構えたのは世田谷区桜上水であった。当初は戦後日本映画の黎明期でもあり、脚本家として映画界で生きてゆこうと思い、大映や新東宝などの撮影所へ助監督として出入りしながら、勉強した。助監督といっても名ばかりで、まともな収入はない。親子三人の苦しい生計は苦しく、妻、良子がタップダンサーとして稼ぐ出演料でこれを支えた。 そうこうするうちに、第二子となる長女、美鈴が生まれて家族は親子四人となった。タイミングの悪いことに、このあと間もなく妻、吉子結核に倒れ、療養のため長期入院を余儀なくされる。戦後間もない日本はまだ貧しく、ターミナル駅前の路上では傷痍軍人が糧を得るため軍歌を歌っていた時代である。社会保険等等も今日ほど整備されていない。毎日の生活費に加えて、高額の医療費も何とかしなければならないことに突然なり 当面は充分な現金収入を得ることが最優先課題となった、昼間は、繁華街でサンドイッチマン夜間はキャバレーのスタッフなどに汗を流した。そんなある日どこからともなく耳に入ってきたのが・鶴田浩二の唄うヒット曲街のサンドイッチマンの歌声であった。「サンドイッチマン♪ サンドイッチマン♪」「・・これって俺のこと?」物悲しさの中にも、どこか明るく希望のかんじられる歌詞とメロディーが割り切れぬ気持のまま、やむなく街のサンドイッチマンに身をやつしていた心に沁みた。数日後、この歌の作詞家の宮川哲夫の自宅を訪問。そこでどのような話がもたれたのか詳細は不明であるが、この後すぐ(1958年/昭和33年)に作詞家石本美由起の主宰する歌謡同人誌『新歌謡界』に入会、同氏の門下生となった。すでにプロ作詞家として活躍していた宮川哲夫は同誌の有力同人であった。ちなみに、星野哲郎、たなかゆきを、松井由利夫、若山かほる、岩瀬ひろしは、一期生の詩友である。山上路夫、石坂まさを、中山大三郎の各氏は弐期生で後輩にあたる。
偶然の出会いがきっかけの再度の方向転換となったが、これは良かった。 のころになると脚本のみでなく小説家への可能性も模索、文芸雑誌への投稿にも力を入れていた。しかし、昼夜掛け持ちの仕事では、机に向かえる時間が限られてれてしまう。体力的にも限界を感じていた。
脚本や小説などの長文に比較すると歌詞の文字数ははかなり少ない。作品完成に要する時間も、それなりに早い。 良いことはほかにもある。物理的な原稿量が格段に少ないので原稿用紙の使用枚数やインクの購入に かかる費用が激減する。何よりもこれが一番助かった。 同年1月に「東海道は日本晴れ」(白根一男)でプロデビュー。その後、1960年(昭和35年)5月1日に東芝音楽工業と契約、かれてより念願の専属作詞家となった。1964年(昭和39年)、日本クラウンに移籍し、同じく専属作詞家として活躍した。
1965年(昭和40年)、日本作詞家協会設立に尽力し、理事を務めた。代表作には「残侠の唄」(北島三郎)、「新聞少年」(山田太郎)などがある。
長男は作詞家の青江ひとみ、長女は元日本クラウン専属歌手の八田富子。孫娘は歌手の八反安未果である。
クラウンレコード時代の主な作品
- 残侠の歌(北島三郎)
- 俺がやらなきゃ誰がやる~人生二刀流(北島三郎/テレビドラマ『てなもんや二刀流』主題歌)
- 裸一貫(北島三郎)
- 残侠の唄(北島三郎)
- さいはて航路(北島三郎)
- さいはての宿(北島三郎)
- 兄妹( 北島三郎・松前弘子)
- 愛と死のバラード(瀬川瑛子)
- あなたは今頃どこにいる(瀬川瑛子)
- 裏町酒場(瀬川瑛子)
- 湖畔の女(瀬川瑛子)
- 東京はうそつき(瀬川瑛子)
- 海の鉄火場(鳥羽一郎)
- こがらし(鳥羽一郎)
- 新聞少年(山田太郎)
- 牛乳少年(山田太郎)
- 牛乳少年(山田太郎)
- 若衆笠(山田太郎)
- 僕と一緒に歩こう(山田太郎)
- 憧れは雲にのって(山田太郎)
- 演歌いのち(木村隆衛)
- 憧れは雲にのって(山田太郎)
- 青島ブルース(美川憲一)
- 不信のバラード(三田佳子/テレビドラマ『不信のとき』主題歌)
- 桜の精の物語(三田佳子)
幸福よここまでおいで(三田佳子/テレビドラマ『ただいま同居中』主題歌)
小雨そぼふる東京で(弘月英太朗)
- 熱い涙が消えるまで(西郷輝彦)
東芝レコード時代の主な作品
- 浮草の波止場(松山恵子/昭和37年)
- 木枯らし峠(松山恵子)
- 女心と空っ風(松山恵子/昭和38年)
- 好きになってもいいかしら松山恵子(昭和38年)
- 好きになってもいいかしら(松山恵子(昭和38年)
- 裏街のかもめ鳥(白根一男)
- あおけさ船頭唄(白根一男)
- 面影だけが残る町(白根一男)
- ごめんねマリ(白根一男)
- ワンダフル・ロック(富永ユキ)
- ベビー・ギャング(富永ユキ)
- 夜汽車がシュッポッポー(富永ユキ)
- トロピカルムーン(富永ユキ)
- 東京インディアン(富永ユキ)
- 黒船月夜(三神丸枝)
- 黒船月夜(渚幸子)
- 権八みだれ髪(渚幸子)
- 金曜日の女(園浦ひろみ/※後の高山ナツキ(昭和34年11月)
コロムビアレコード時代の主な作品
テイチクレコード時代の主な作品
- 東海道は日本晴れ(白根一男)
参考文献
- 石本美由紀主宰『新歌謡界』、創刊号~第171号(新歌謡界詩社)