松山恵子
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| 松山恵子 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出生名 | 岡崎恒好 |
| 出生 | 1938年4月10日 |
| 出身地 | |
| 死没 | 2006年5月7日(満68歳没) |
| ジャンル | 演歌 |
| 職業 | 歌手 |
| 活動期間 | 1955年 - 2006年 |
| レーベル | 日本マーキュリーレコード 東芝レコード |
| 公式サイト | EMI Music Japan | 松山恵子 |
松山恵子(まつやま けいこ、本名:岡崎恒好(おかざき つねこ)、1938年4月10日 - 2006年5月7日)は、日本の演歌歌手。庶民派で知られ、「お恵チャン」の愛称で幅広いファンに親しまれた。裾の幅が広いフリフリのドレスにハンカチがトレードマーク。愛媛県宇和島市出身。所属レコード会社は日本マーキュリーレコード⇒東芝レコード。
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[編集] 経歴
中学2年生で出場した日本コロムビア全国歌謡コンクールで10位入賞を果たし、独特の歌唱力が関係者の注目を集めた。1954年、日本マーキュリーレコード全国歌謡コンクールで優勝。1955年、「マドロス娘」でデビュー。1956年、「十九の浮草」が大ヒットし、一気にスターダムにのし上がった。「未練の波止場」「だから云ったじゃないの」「お別れ公衆電話」「泣いたって駄目さ」「東京なんて何さ」「思い出なんて消えっちゃえ」「アンコ悲しや」「別れの入場券」「逢わなきゃよかったんだわ」「酒場小唄」など数多くのヒット曲を飛ばし、NHK紅白歌合戦にも1957年から通算8回出場(うち7回連続出場)した。
1969年に交通事故に遭い、瀕死の重傷を負う。この時の輸血が原因で肝炎を患い、亡くなるまで闘病を密かに続けていた。一時は生命も危ぶまれたが不屈の闘志で復活。最後まで国民的歌手としての人気を維持した。また晩年は、裾幅3.5メートル、重さ20〜30キロのドレスを着込んで歌うという年齢を感じさせないステージが多くの世代に親しまれ、懐メロ番組に欠かせない存在であった。1989年には、久しぶりに紅白歌合戦に出場。裏面全体にバラの花を飾った直径2メートル半のド派手なドレスで登場し話題を呼んだ。1995年には第37回日本レコード大賞功労賞を受賞した。
歌い終わると手に持ったハンカチを振る。自分のことを「オケイチャンはね」という。
私生活を売り物にすることは無かったが、一度だけ交通事故で入院した後、週刊誌に半生を語ったことがある。美空ひばりや島倉千代子等の同年代のスター歌手同様、家庭は波乱万丈であった。
数々の男性と浮名を流すなど非常にモテたが、生涯一度も結婚しなかった。子供もいない。2006年4月、入院中に死期を悟り、長らく苦労をともにしたマネージャーと養子縁組を行った。
2006年2月収録のNHKデジタル衛星ハイビジョン『シブヤらいぶ館・演歌一本勝負』で、1996年頃から肝臓癌で闘病中であることを告白し、その直後の3月下旬に入院。4月末に容態が急変し、5月7日に亡くなった。享年69。6月に新曲「人生ありがとう」を発表する予定だった。東芝EMIは、松山の死を受けて追悼アルバムの製作を決め、2006年8月9日に『松山恵子愛唱歌〜お恵ちゃんありがとう〜』のタイトルで発売される。しかし出来は良いものではなくファンからは不満の声が上がっている。
演歌歌手の三船和子は、松山にあこがれて歌手になったという。三船は松山の葬儀で号泣し、「お恵ちゃんの歌は私が歌い続けます」と語った。
「お恵ちゃんのことを悪く言う人は一人もいない」と言われるほど、性格が良いことで知られ、観客・ファンは勿論スタッフにも常に優しく接していた。
前述の三船や立川談志など、芸能人にもファンは多かった。
JR宇和島駅構内に、ヒット曲「お別れ公衆電話」を記念した電話ボックスが設置されている。
[編集] 代表曲
- 「ホステス小唄」
- 「だから云ったじゃないの」(「あんた泣いてんのね」の台詞は流行語になった)
- 「お別れ公衆電話」
- 「アンコ悲しや」
- 「鳴門ちどり」
- 「未練の波止場」
- 「十九の浮草」
- 「泣いたって駄目さ」
- 「思い出なんて消えっちゃえ」
- 「恋の三度笠」
- 「東京なんて何さ」
- 「ひとりぽっちの三等車」
- 「鳩よ」
- 「平和への祈り」
- 「女の劇場」
- 「哀愁の駅」
- 「キュッキュッ節」(合いの手が卑猥であるとされ、放送禁止に)
- 「逢わなきゃよかったんだわ」
- 「石狩の町よさようなら」
- 「バックナンバー1050」
- 「別れの入場券」
- 「色去灯」
- 「ハイハイハイ〜今度生まれて来る時も〜」
- 「紅とんぼ」
- 「一葉記」(遺作)

