保倉幸恵
プロフィール | |
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生年月日 | 1953年4月5日 |
没年月日 | 1975年7月8日 |
没年齢 | 22歳(数え23) |
出身地 | 日本・東京都 |
死没地 | 日本・東京都大田区 |
血液型 | O |
公称サイズ(時期不明) | |
身長 / 体重 | 150 cm / ― kg |
スリーサイズ | 80 - 50 - 80 cm |
活動 | |
デビュー | 1960年代 |
ジャンル | モデル、女優 |
モデル内容 | カバーガール |
備考 | 1960年代-1975年 |
モデル: テンプレート - カテゴリ |
保倉 幸恵(やすくら さちえ、1953年4月5日 - 1975年7月8日)は、日本の元モデル、女優。
来歴・人物
劇団若草の出身。幼い頃から舞台女優として活躍しており、1960年代から1970年代にかけて「週刊マーガレット」、「女学生の友」、「少女フレンド」などの少女雑誌に少女モデルとして頻繁に登場していたほか、「週刊朝日」でも1970年1月2日号から1971年12月31日号までカバーガールを務めた。その後、「週刊朝日」には、「幸恵のミニ・アドバイス」という買い物情報を織り交ぜたエッセイを不定期連載し、1975年3月まで続いた。若草時代の同期生に女優の桃井かおりがいる。少女を中心に高い人気を得るが、その後モデル業を引退した。
1971年3月に玉川学園高等部を卒業、ジョン・レノンの大ファンで高校卒業時のレポートのテーマはジョン・レノンだったと言う[1]。
映像メディアへの出演はモデル時代だった頃は1968年放送の『竜馬がゆく』や1971年放送の『天下御免』に出演。その後、モデル廃業後の1974年11月に芸能界に女優として復帰し、同年11月20日から放送が開始されたNHKの銀河テレビ小説『黄色い涙』で本格的な女優デビューを果たす。
その後、1975年2月~3月にNETテレビで放送された『鏡の中の女』に出演して仕事を順調にこなしていたものの、私生活では1974年12月頃に母親が重病を患ったことがきっかけとなってノイローゼを発症し、1975年2月頃より通院のために芸能活動を一時休止。活動休止以降もドラマへの出演依頼は多かったが、精神的に情緒不安定に陥っていたため『鏡の中の女』に出演した後はドラマの出演を全て断るようになり、徐々にメディアに姿を見せなくなる。
鉄道自殺
女優業を休止して療養中だった1975年7月8日午前5時55分、東京都大田区の自宅近くにある東海道本線大森~蒲田間の跨線橋において1.2mの柵を越えて8m下の線路に飛び降り、そこを通りかかった横須賀線久里浜発東京行きの普通列車に轢かれて即死した。22歳没。
高速列車に轢かれたために事故現場は凄惨で、遺体は顔面が完全に粉砕され、胴体も手足が轢断して四方八方にバラバラに飛び散るなど損傷が酷かったと言う。加えて身元を証明出来る所持品が一切無かったことから警察は身元確認に手間取り、当初は身元不明人として荼毘に付された。その後、家族からの捜索願や着用していた衣類、血痕などから自殺者が保倉であることが判明したのは7月10日になってからであった。
遺体の検視で強姦や妊娠の兆候があったとされ殺害も疑われたものの[要出典]、遺体の損傷や腐敗が酷く、すぐに火葬されたため結局再捜査はされず自殺と断定された。保倉の自殺の動機については母親の病気の介護や保倉が当時出演していたドラマの俳優との性的な人間関係、ノイローゼからくる情緒不安定など諸説あるが、遺書が無かったため現在に至るまで不明である。女優として順風満帆な活躍としていると思われていた矢先の突然の自殺だったことから、当時は「謎の自殺」と騒がれた。
2011年に公開された映画『マイ・バック・ページ』(川本三郎原作)にて、忽那汐里が保倉幸恵をモデルとするヒロインを演じた。
出演
テレビドラマ
- 竜馬がゆく(NHK総合テレビジョン、1968年)勝孝子 役
- 天下御免(NHK総合テレビジョン、1971年)星娘 役
- 黄色い涙(NHK総合テレビジョン、1974年)
- 鏡の中の女(NETテレビ系、1975年)
雑誌・本
- 「週刊マーガレット」
- 「女学生の友」
- 「少女フレンド」
- 「週刊朝日」表紙・今週の幸恵(1970年 - 1971年)・幸恵のミニアドバイス(1972年 - 1975年)
- 「グラフNHK」ロビーでちょっと(1972年1月15日発売号)
- 『マイ・バック・ページ-ある60年代の物語』(川本三郎著 1988年)
脚注
- ^ 評論家の川本三郎は自身の著書『マイ・バック・ページ』のコラム「幸福に恵まれた女の子の死」で保倉の生い立ちや日常、最期について触れており、「玉川学園高校を卒業するときに提出した彼女のレポートのテーマはジョン・レノンだったという。あのジョン・レノンの無惨な死を知らずにすんだことだけは彼女にとって唯一の幸福かもしれない」と記している。また、川本は週刊朝日の記者時代に仕事を通じて保倉と親しくなり、生前はよく一緒に映画などに行っていたと言う。