五大老

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五大老の花押。上段左より上杉景勝毛利輝元、下段左より宇喜多秀家前田利家徳川家康。下段は上下逆。

五大老(ごたいろう)とは、末期の豊臣政権の政務にあたった徳川家康前田利家ら有力五大名を指した言葉である。

概要

豊臣秀吉は己の死後、その息子・豊臣秀頼を五大老が補佐し、合議制をとることにより徳川家康の台頭を防ごうと考えていた。将来台頭し、豊臣家と覇権を争う可能性のある家康を大老として取り込んでしまうことにより、禍根を断とうとした秀吉の策であった。秀吉存命中は、秀吉の期待に沿う働きをしたが、死後は家康の度重なる盟約違反により有名無実化した。

なお、五大老はその数が常に固定化されていたわけではない。上杉景勝は小早川隆景が死去するまでは、連署に署名している場合とそうでない場合があり地位が固定化されるのは隆景死後からである。また総ての人物が同格でなく特に徳川家康は終始、五大老内でも特段の地位を保持し続けている。この家康に対抗する人物として前期は毛利輝元と小早川隆景、後期は前田利家が充てられていた。秀吉の死後は遺命により、家康が伏見城下にて政務をとり、利家は大坂城において秀頼の傅役とされた。

前田利家の存命だった慶長4年(1599年)までは、家康の専横までは防げなかったものの、家康が豊臣家より上回る権威を持つことを防ぐことはできた。しかし、利家死後に家康は自分以外の大老を帰国させ、兵を率いて大坂城西の丸に入って秀頼を掌中に収め、中央において家康を掣肘する存在がなくなった。前田は家康に屈服し人質を差し出し、残る3家は関ヶ原の戦いで敗れ改易または大幅減知となり脱落、家康の単独支配体制が確立した。

なお、当時は「五大老」という名称は無く、家康らに近い側が「年寄」などと呼ぶ一方、石田三成ら豊臣政権吏僚派は逆に自らを「年寄」とし、家康らを「奉行」としていた。関ヶ原の戦いで家康が勝利して覇権を確立し、三成らが滅亡したことで、家康の側の用法が普及し、「五大老」「五奉行」と呼び分けられるようになった。

大老

関連事項