九鬼周造
九鬼 周造(くき しゅうぞう、1888年2月15日 - 1941年5月6日)は、日本の哲学者。東京都生まれ[1]。
人物・経歴
父は明治を代表する文部官僚で男爵の九鬼隆一。祖先は九鬼嘉隆。母は周造を妊娠中に岡倉天心(隆一は岡倉のパトロンであった)と恋におち、隆一と別居(のち離縁)するという事態となった。生みの父・隆一、精神上の父・天心、そして喪われた母という、この3人のはざまで幼少期・青年期の周造は成長していくこととなり、それは後の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられる。九鬼は子供の頃訪ねてくる岡倉を父親と考えたこともあったと記している。
1904年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。第一高等学校独法科に進むも文科に転じる。東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、ヨーロッパ諸国へ足かけ8年間ものあいだ留学。はじめドイツに渡り、新カント派のハインリヒ・リッケルトに師事するが、彼はそれでは満たされず、のちフランスに渡り、アンリ・ベルクソンと面識を得るなどし、彼の哲学から強い影響を受ける。その後ふたたびドイツに留学すると、今度はマルティン・ハイデガーに師事し、現象学を学んだ。九鬼は三木清や和辻哲郎などとともに日本でハイデガーの哲学を受容した最初の世代にあたり、「実存」といった哲学用語の訳語の定着をはじめとして、日本におけるハイデガー受容において彼が果たした役割は少なからぬものがあるといえる。また、ハイデガーの方も九鬼を高く評価している。
帰国してからは、1941年に没するまで京都帝国大学文学部哲学科教授として、デカルト、ベルクソンをはじめとするフランス哲学や近世哲学史、現象学を中心とした(その当時の)現代哲学などを教えた。
ヨーロッパの長期滞在の中でかえって日本の美と文化に惹かれていく自分に気づいていった彼は、帰国後、その洞察を活かして『「いき」の構造』(1930) を発表する。これは、日本の江戸時代の遊廓における美意識である「いき」(粋)を、現象学という西洋の哲学の手法で把握しようと試みた論文である。この著作が生まれた背景には、彼の生い立ちや独特の美意識、ヨーロッパという異文化体験、思想遍歴といったものが幾重にも交錯しており、そのことによってこの著作は、哲学書・美学研究書・日本文化論そのいずれの枠にも収まりきらない異色の書として、日本思想史上、際立った存在となっている。
九鬼は1941年に腹膜炎で死去し、京都の法然院で、谷崎潤一郎や内藤湖南らとともに眠っている。墓石の揮毫は同僚の西田幾多郎によるもので、側面には西田が翻訳も行ったゲーテの「さすらい人の夜の歌 "Wandrers Nachtlied"」の一節が刻まれている。
逸話
- 九鬼は留学中、フランスで若きジャン・ポール・サルトルから個人的にフランス哲学・フランス語を教わっていた、という逸話がある。一方でサルトルの方も、この時九鬼から現象学などの哲学についての影響を受けたのではないか、という説がある。
- 九鬼が二度目に結婚した相手は祇園の芸妓であった。これには彼の生い立ちや独特の美意識が影響していたのではないかと思われるが、周囲では「九鬼先生が講義にたびたび遅刻してくるのは、毎朝祇園から人力車で帝大に乗り付けてこられるからだ」という噂がまことしやかに話されていたとのことである。
- 主な弟子に、日本で最初に、医学を主題に哲学講座「医学概論」を開いた澤瀉久敬(おもだか・ひさゆき、大阪大学名誉教授などを歴任)がおり、全集編集委員(他に天野貞祐ら)でもあった。
著作
- 『「いき」の構造』(初版1930 岩波書店)、のち岩波文庫、解説多田道太郎
- 『偶然性の問題』(初版1935、岩波書店)
- 『人間と実存』(初版1939、同)
- 『文藝論』(初版1941、同)
- 『遠里丹婦麗天』(初版1941、同)-遺稿集の随筆集
- 『巴里心景』(初版1942、甲鳥書林)
- 『西洋近世哲学史稿』(上下:初版1944、岩波書店)
- 『現代フランス哲学講義』(初版1957、同)
- 『九鬼周造全集』(全11巻+別巻 資料.年譜)、岩波書店 1981-82、新版1991、2011-12
※著作・講義録・書簡などを、ほぼ収録。 - 『九鬼周造随筆集』 菅野昭正編、岩波文庫、初版1991
- 『九鬼周造エッセンス』 田中久文編・解説、こぶし書房、2001
※編者は『九鬼周造 偶然と自然』(ペリカン社、1992)を出版。 - 『偶然性の問題.文藝論 京都哲学撰書. 第5巻』 坂部恵編、燈影舎、2000
- 『エッセイ・文学概論 京都哲学撰書. 第30巻』 大橋良介編、燈影舎、2003
- 『偶然と驚きの哲学 九鬼哲学入門文選』 書肆心水、2007